とある悪役令嬢の話【短編】
私が前世を思い出したのは、三年前のことだった。
学園の門をくぐったその瞬間、視界の先に見えたのは――私の婚約者であるこの国唯一の王子、レオンハルト=ヴァルデンが、ふわふわとしたピンク色の髪を揺らす女生徒、ミリア=ブランシェと楽しげに話している姿だった。
その瞬間、まるで世界がぐにゃりと歪んだように、記憶が押し寄せてきた。
あれ? この光景、どこかで見たことがある。……いや、知ってる。
これ、私が前世で遊んでいた乙女ゲームの冒頭じゃない!?
そう気づいた瞬間、背筋が冷たくなった。
ということは――私、もしかして悪役令嬢なの?
前世の私は、毎日ストレスフルな仕事をこなしながらも、
「せめて心の癒しを」と夜な夜なネット小説を読み、恋愛ゲームをプレイするのが日課だった。
睡眠時間を削ってでも、それだけは譲れない。
画面の中で煌めく物語と、幸せそうなヒロインたちが、現実の私の小さな救いだったのだ。
そして今の私は――赤いつり目に、まっすぐな黒髪。
鏡に映るのは、誰が見ても「クールビューティー」と呼ぶような顔立ち。
でも、そんな見た目の私が立っている場所は……まさに“断罪イベント”まっしぐらの悪役令嬢ポジション。
――ああ、どうしてこうなったの。
私は、卒業までの三年間――ただひたすら、努力を重ねた。
毎日図書館に通い、古今東西の知識を詰め込んだ。
王宮にも足繁く通い、次期王妃としての礼儀作法や政治学、外交学を学び、身につけた。
ヒロインであるミリア嬢への「いじめ」など、一切関与していない。
むしろ、極力関わらぬように心を砕き、レオンハルト王子とも必要最低限の会話しか交わさなかった。
成績は常に上位を維持し、礼節も完璧――それは誰が見ても非の打ちどころのない「理想の令嬢」だったはず。
……それなのに、運命はあまりにも残酷だった。
――卒業パーティーの夜。
煌びやかなシャンデリアの下で、私は唐突に断罪されたのだ。
レオンハルト王子は冷たい目で私を見下ろし、宣告した。隣にいるミリアは、身分不相応に着飾っていた。どれだけのお金をかけたのか……。
「ミリアを影で虐げていたことは、すでに判明している。
貴様は婚約者として相応しくない。……婚約破棄だ。」
ざわめく会場。
私は呆然と立ち尽くした。――虐めた? 私が?
誰かがミリアを陥れたのだろう。だが、その罪がなぜ私に?
「……それは、真実なのですか?」
震える声で問うと、彼は鼻で笑った。
「証言が幾つもある。言い訳は無用だ。
――貴様は、この王国から追放する。」
その言葉に、胸の奥で何かがぷつりと切れた。
込み上げる涙が、頬を伝ってはらはらと落ちる。
「……賭けには、勝ちました。」
私は静かに呟き、首にかけていたペンダントを床へ投げつけた。
ガラスが砕けるような音と共に、ヒールでそれを踏み潰す。
――瞬間、床一面に巨大な魔方陣が広がった。
「な、何だっ!?」
「魔法陣……!? 誰がっ!」
ざわめく会場の中、魔方陣から現れたのは――漆黒の軍服をまとった皇国の兵士たち。
指揮官らしき男が冷たい声で叫んだ。
「全員、拘束せよ! 逆らう者は容赦するな!」
悲鳴と怒号が飛び交い、豪華な卒業パーティーは一瞬にして阿鼻叫喚と化す。
そして、最後に魔方陣から一人の青年が姿を現した。
月光のような銀髪を持つ皇国の王子――アレクシス=ヴェルンハルト。
彼は微笑みを浮かべ、私に言った。
「……君の言う通りになるとはね。」
私は涙を拭い、かすかに笑う。
「前にも言いましたよね。現王子――レオンハルト殿下は問題ありだと。
彼が王になり、彼女が王妃になったら、きっとこの国は傾きます。
だから、その前に……皇国の属国にしていただくのが最善だと。」
アレクシスは少しだけ目を細め、あの時の会話を思い出すように言った。
「確か、君はこう言ったね。
“もし私が婚約破棄されたら、この国を失くして”と。
“されなかったら、皇国と友好を深めましょう”と。」
私は頷く。
「ええ。……あの時、あなたは言いましたよね。
“君のように優秀な人を、婚約破棄するなんてあり得ない”と。」
そして、私は微笑んだ。
――あの時、すでに運命の歯車は静かに回り始めていたのだ。
卒業パーティーに出席していた貴族や王族たちは、次々と皇国の兵によって拘束されていった。
煌びやかな宴の場は、いまや鎖と叫び声が響く静かな牢獄のよう。
けれど、それでよかった。――彼らはこの国の象徴、人質として十分に“使える”だろう。
私は、アレクシスのもとに歩み寄り、深々と礼をした。
「……大変、お手数をおかけしました。」
アレクシスは少し眉を寄せ、静かに私を見つめた。
「君は、どうするのだ?」
その問いに、私はわずかに目を伏せ、唇を噛む。
「……裏切り者の私に、もはや居場所はありません。
身分も名も捨てて、どこか遠くへ行こうと思います。」
そう言いながら、懐から小さな魔法陣の刻まれた紙を取り出した。
それは、密かに用意していた“もうひとつの転移陣”。
この日のために、誰にも知られぬよう作り上げた最後の逃げ道。
「機会があれば――また、お会いできるでしょう。
……さようなら、アレクシス殿下。」
彼が何か言おうと口を開いた瞬間、
眩い光が私の足元を包み込んだ。
風が渦を巻き、光が弾ける。
次の瞬間、私はその場から跡形もなく消えた。
転移陣の光が収まったとき、私が立っていたのは見知らぬ森の奥。
夜風が頬を撫で、遠くで梟が鳴く。
静寂の中で、私はようやく深く息をついた。
「……終わったのね。」
王国は、もうすぐ皇国の支配下に置かれるだろう。
あのパーティーにいた者たちは捕らえられ、権力の象徴として使われる。
そして、私は――誰の記録にも残らない、無名の亡国の令嬢となった。
けれど、それでいい。
あのまま、断罪されて追放されるより、心がずっと自由だ。
月明かりの下、私は小さく笑った。
その胸の奥で、淡い記憶が光る。
銀の髪を揺らしながら、真っすぐに私を見つめていた人――アレクシス。
「君のような人を婚約破棄するなんて、信じられない」
そう言って笑った声が、今でも耳の奥に残っている。
「……もし、また会えるなら――」
言葉を風に溶かす。
その続きを口にするには、まだ早い。
いつか、彼が私を探し出したなら。
そのときこそ、この胸に灯る想いを伝えよう。
それまでは、この静かな世界でひっそりと生きよう。
新しい名前で、新しい日々を紡ぎながら。
夜空に流れる星が、ひとつ軌跡を描く。
それはまるで、遠い約束の灯火のように。
――そして、物語は静かに幕を下ろした。




