これでいいんだ。これで、いいんだ。
あの娘は、僕にとって、一体どういう存在なんだろう。
どういう人だと、言えるだろう。
どういうふうに、認識しているんだろう。
もう1年以上も前に別れた人。
もうすでに別の男のものである人。
人生で一番愛した人。
世界に、期待をさせてくれた人。
僕という人間を、僕自身に愛させてくれた人。
僕という人間を、こんな人間を、愛してくれた人。
裏切ってしまった人。
傷つけた人。
苦しませた人。
泣かせた人。
塗りつぶされたような闇の中で、繋いだ手を離してしまった人。
もっと他に、言えるはずなのに。
もっと沢山、表しようがあるはずなのに。
思い浮かぶのは、罪悪にまみれた手で汚したあの子の笑顔ばかりだった。
情けない。
今更なにを考えているんだろう。
もう嫌というほど、目尻を腫らした。
もう、いいだろう、もう、いいだろう。
もうただの友人だ。もうなんとも思わない。
バイトでも普通に話せる。お互いなんともない。
時々笑い合う。普通に仕事をする。
これでいいんだ。
これで、いいんだ。
もう忘れた。
もう痛む胸はない。
軋むこころもない。
歪む顔もない。
つきまとう後悔も、この体に追いすがる感傷も、もう見えない。
僕は変わったんだ。もう変わったんだ。。。。。
僕という人間がそう言葉にできるだけには、現状が変わってきていることは確かだ。
もう、終始こころの影にあの笑顔があるわけじゃない。常時、ころころ笑う声が耳鳴りのように響いて、身体を引き裂くこともない。
もうない。
もう、ないんだ。
そんな事を考えていると、必ずどこかから、声が聞こえる。
『お前は一体、何処がどう変わったっていうんだ?』
憎たらしいその声に、僕はいつも泣かされてきた。背後霊みたいに僕を見ていて、成功すれば、懐疑して、失敗すれば嘲笑う。
僕は、いつも見透かされている。
僕自身さえ気づかない。
いや、気づきたくないのか。
わかっている。
わかっている。
わかってるってば。
確かに、前に進んでいる。
取り巻く景色も見違えた。
しかし、それは、僕の意志でもなければ、努力でもないのだ。
なにかに追われるようにして、否応なしに一歩を踏み出すしか無かったってだけ。
後ろから風に煽られて、半ば崩れながら、曖昧に一歩を踏み出したってだけ。
その只中に、佇む僕は、いつまでもあの日に囚われたままなのだ。
「ほんと、痛いこと見せるよね、いつもいつも」
見慣れた部屋の見慣れた天井を見つめながら、そんなことを考えていると、小舟に揺られるような浮遊感が柔らかに僕を包んだ。
薬が効き始めてきた。
うつらうつらとしているさなか、脳裏に何かがさっとよぎる。調子の悪いテレビの砂嵐みたいに、一瞬、でも確かに、八重歯が覗く、笑顔がよぎる。
途端、一気に現実に戻される。眠気は消える。
飯を食っている。珍しく、こころが湧かず、黙々と手が動く。ところでさっきからなんだか、心臓が、握られている感触がする。きゅうと鈍く、重く痛む。そこでああ、と気がついた。
耳の奥、脳の裏、イヤホンのホワイトノイズみたいに、さり気なく、曲に紛れるように、気づいたら脳裏に笑い声が響いている。ころころころころなっている。道理で飯が楽しくない。
もう忘れた。もう変わった。
そう言い聞かせて納得するほど、背後霊は大人しくなかった。普段どうにかこうにか騙せているそれが、こころの機微を見逃すはずもない。
僕は僕から逃れられない。にげてもにげても、追ってくる。昔は後悔や感傷だったのに、今や実体のある影になってしまった。
ひたすらに走って、時々振り切る事ができる。うまく逃げおおせたと思って、息をつく。ふと振り返った後ろには、見慣れた形の黒がいた。
『逃げた、逃げた、おまえは逃げた、”また”逃げた!』
逃げたことからも逃げられない。欺瞞が、皮が、暴かれる。
そうだ、そうだよわかってる。
わかったってうるさいよ。
俺は変わってなんかいないよ。忘れてなんかいるわけないよ。そんなこと、できるはずがないよな、。
鈍くて重い痛みに随分と悩まされた挙げ句、麻痺してしまっていただけ。
時間が経って身体が慣れて、自分で自分にそうやって、言い聞かせられるだけにはなったってだけ。
いまだ、在る。ここに在る。
挙げ句の果てに、こうやって、こびりついた思い出が、僕すら忘れた頃に顔をのぞかせる。”勘違いしてんじゃねえぞ”って、後ろから誰かが言っている。聞き覚えのありすぎる声で言っている。
そこで僕は思い出す。僕という人間を思い出す。ああ、そうだ、僕は、逃げられない。僕は僕から、逃げられない。
僕はこういう人間だーー
読んでいただいてありがとうございます。
こんな個人的な苦悩や葛藤が、誰かに届いたなら、それほど嬉しいことはありません。




