003.繰り返しの始まり
『いつかロディナにも、大切な家族や友人ができるさ』
優しい声と懐かしい香りがした。食べられないくせに、無理を言ってたくさん採ってもらった果物の、甘酸っぱい匂い。今、一番会いたい人が纏っていた香り。
(ザミ兄ちゃん?)
ロディナは必死に目蓋を上げる。ぼんやりとした視界に映ったのは、地面に転がる赤茶色の果実。割けた果皮から、赤色の小さな果肉が地面に散らばっていた。
(いるわけ、ないか。……この国で、暢気に気絶できてただけで万々歳だ)
気を失う寸前、ロディナは死を覚悟していた。ここはフィシン帝国。入国は容易いが、弱者は全てを奪われる国。
そんな国でのこれからを考えながら、薄暗い建物の裏手で仰向けになる。
ロディナがニフテリーザ領を飛び出したのは、婚約が切っ掛けだった。伯爵家の次男ヴァルクとの婚約が解消となり、魔法コレクターとして悪名高いレウニール公爵から婚約を申し込まれたのだ。
特に珍しい魔法が使えるわけでもない自分がなぜ選ばれたのか。調べてみると、仕向けたのはエイレアだと判明した。
どうやら彼女は『義姉は珍しい魔法を使う』と諸処で言いふらしていたらしい。その噂を聞いたレウニールが行動を起こした結果が、この最悪な状況を生んだ。
エイレアを問い詰めても、おそらく誤魔化されるだけ。ならば義父母にと相談してみたが、無駄だった。
彼女は今や、領地の問題を次々と解決し、更なる発展に寄与した女傑だ。
「義妹がこの婚約を仕組んだ」と訴えるロディナの言葉は、優秀な義妹への僻みのように受け取られてしまった。
「ロディナにはロディナの強みがある。婚約は何とかするから」と苦笑いを浮かべた義父と、その隣で何度も頷いていた義母が、脳裏にこびりついている。
臣民公爵相手に、何とか誤解を解いて婚約が白紙に戻っても、この家に居場所はない。義妹に利用され続ける人生が待っている。そう思うには充分な出来事だった。
加えて、レウニールがロディナの不思議な記憶喪失を知った可能性もある。珍しい魔法は使えなくても、珍しい魔法にかかった人間が、どんな目に遭うのかは想像に難くない。
ロディナは、黙って家を出ることを選んだ。
貯めていた恩返しにもならない額の金貨を置いて、村へと向かう。彼女には、ザミしか頼れる人間がいなかった。
再会を思いのほか喜んでくれた司祭によると、ザミはフィシンで傭兵をしているらしい。手紙も見せてもらった。
彼が仕事だと嘘をついて村を出たことに疑念はあったが、アレクトンにいても危険だと判断して出国を選んだ。
結果としてロディナは、ザミを見つけられず散々な目に遭って、寝転んでいる。
レウニールに実験体として扱われるよりはマシだと言い聞かせ、今いる場所を把握しようと視線を動かした。
(あれは、女神教会の?)
石造りの建物の屋根に、女神教会のシンボルを見つけたところで、誰かの慌ただしい足音が聞こえてきた。
(魔力探知もできてない。とにかく、逃げ……あれ?)
起き上がろうとするも、体はなぜか動かない。仕方がないと、魔法で応戦できるよう、両手に魔力を集める。
「やっ、何よこれ。さっきまでザクロなんて落ちてなかったのに。まさか、魔法を使ってる間に――あ、よかった。いたわ」
蹴り飛ばされた果物が、ロディナの手元まで転がってきた。見上げた先に映った藤色の髪に、驚きで声が詰まる。
「っ……エイレア? どうして、ここに」
黒いドレスを纏ったエイレアが、大きな薔薇色の目を細めて、こちらを見下ろしている。
「どうしてはこちらの台詞です。お義姉様がいなくなって、お父様とお母様がどれほど嘆き悲しんでいたことか。帝国にいるという情報を掴んだばかりなのに、オスキロスの教会で寝転んでいるし!」
「え、オスキロス? 私は、確かに帝国に…」
オスキロスはアレクトン王国の王領の西にある。元婚約者の父、ミルウス伯が治める領地だ。
(エイレアが帝国にいたのではなく、私がアレクトンに? 転移魔法は使えないし、私は洞窟で……)
気絶する前の出来事と景色を思い出そうとするも、もやがかかったように思い出せない。森に放り出されていたときと、全く同じ状態だった。
「結婚式の途中で、お義姉様らしき魔力を探知して、驚きましたわ。どうして黙って出て行かれたのですか? わたくし、心配しましたのよ」
ねっとりとした言葉に胸が悪くなる。お前のせいだと蹴り飛ばしてしまいたくても、足は思うように動かない。
エイレアは明らかに、正体を見破られていると理解しながら言っている。証拠に、彼女は右手を頬に添えていた。それが笑いを堪えているときの彼女の癖であることを、ロディナは知っている。七歳のエイレアが高熱を出して倒れてから、するようになった仕草の一つだ。
「……。エイレアの人生を乗っ取って、楽しいですか?」
「質問に質問で返さないでくださる? それに乗っ取っただなんて。わたくし、ヴァルク様と結婚することになってしまったのですよ? お義姉様のおかげで」
(婚約者を奪うためにここまで)
ロディナは呆れながら、心にもない言葉を張り付けた笑みで言ってのける。
「おめでとうございます」
「あら、祝福と受け取っておきますね。では、式の途中なので失礼いたします」
もはや本性を隠す気はないらしい。心配していたはずの義姉を置いて、スタスタと教会へ引き返していく。
その背に、ロディナは大声をぶつけた。
「エイレアになる前の貴方はきっと、可哀想な人生を送っていたのですね」
ピタリと、彼女の足が止まる。
「知識が意味をもたない環境におかれ、縁にも恵まれず、他者の人生を奪う禁術に手を出した。貴方はどう足掻いたって貴方のままなのに」
頭を少しだけ起こし、怒りに震える女を見て、ロディナは満足げに微笑んだ。
「私は! 男を誑かすクソ女であるお前から、エイレアを救ったんだよっ! もっと酷い目に遭わせるのが、正解だったみたいね」
エイレアの怒鳴り声が響いても、教会は不自然なまでに静かだった。自身の粗い呼吸音と、彼女が引き返してくる足音しか聞こえない。
「あ、そうだ。次は大罪人として処刑してやるよ」
「次? まるで人生が終わるかのように仰ってますが……私は、エイレアを取り戻すことを諦めていません」
「破滅するだけなのに? 仕方がないとはいえ、おめでたい頭ね。可哀想なのはお前だから、これで許してあげる」
彼女が笑いながら右手の指を弾くと、途端に意識が遠退いていく。
「おやすみなさい。義姉様」
「あ、なた…みたいな、人と……けっこんする、ヴァルクさ…が、いちばん、かわい、そ」
弱った状態のロディナに、眠り魔法を防ぐ術はなかった。
目を見開いた女を最後に、意識が途切れる。
「とっとと寝ろよ。最後までうぜぇ女だな」
吐き捨てるように言って、彼女は教会へ急いだ。
温かい何かに包まれて、ロディナの意識が再び浮上する。
祝いの鐘の音と、誰かの焦った声が薄っすらと聞こえた。
「ロディナ、しっかりしろ!」
ぼんやりとした視界に黒が映る。
「ザミにぃ……ちゃん?」
十年経っても、姿の変わらない恩人がいた。
(私、死んでしまったの?)
「ほら、幻じゃないぞ」
大きな左手が、ロディナの右手を包む。相変わらず冷たい手に、ひゅっと息を呑んだ。
「つめたい」
「大きくなっても失礼だな、お前。治癒魔法は温かいだろ」
「あったかい…です。ありがとう」
何も変わらない恩人の呆れ顔に、泣きそうになる。
「起きたなら移動するぞ。ちょっと面白いことになっててな」
言葉遣いに迷っていると、いきなり横抱きにされた。服を掴んで困惑を向けるも、彼は遠くを見つめている。
「あのっ説明を………え?」
彼が歩を進めた先には、大勢の人々が倒れていた。あの女とヴァルクも、義父母も、着飾った参列者も。まさかの光景に、理解が追いつかない。
「偽司教様が関わってるらしい。ロディナのとこにも来たんだろ?」
「来ました、けど。ザミ兄ちゃ…さん、この状況は面白くないと思います」
「面白いだろ。お前の言葉遣いも面白いけど。俺の魔力半分持ってかれたし」
「不味いじゃないですか! 皆さん、魔力切れで倒れて?」
「大勢の魔力を奪って、何かするつもりらしい。悪いが、色々と説明する余裕はないんだ」
彼が言い終えると同時に、地鳴りがした。立っていられないような揺れと、魔力が吸い取られる感覚。
ザミがロディナを抱えたまま、膝をつく。
「無茶苦茶かよ…。この規模の二発目が来るとは思わんだろ。ロディナ? おい、目を――」
(やっと、会えたのに)
険しいザミの表情を最後に、ロディナは再び意識を手放した。
目を開けると、なぜか牢屋にいた。八歳の頃、魔族に攫われて連れてこられた地下牢に似ている。
「手が……小さい?」
何度も何度もこの牢屋に戻ってくることを、このときは知らなかった。義妹と婚約者を巡って何度も争うことも。ザミと、二度と会えなくなることも。