5章
恋人がいるのかと尋ねるとき、私は決して性別を限定しないようになった。誰かを傷つけたくなかったし、自分と同じ境遇の人間が、無自覚に踏みにじられることのないようにと思った。そうするようになったのは、彼女と別れてからだった。
私が芸術を志したのも、彼女と別れてからだった。陽を避け、日陰へと逃げ、さらに奥深くへと沈み込んだ私を救ってくれたのは、喪失だった。失うことで、ようやく私は目を覚ました。失恋が私を人間にした。傷つくことで、少しだけ成長できた。イニシエーション——通過儀礼だった。
だから、私はまた恋をした。
運命だと思った。出会ったときに、この人とこの先もずっと一緒にいるのだと未来が見えた。彼女と過ごす時間がただ楽しく、未来を想像することが幸福だった。無邪気で、考えたことをすぐに口にする人だった。嫌なことは嫌とはっきり言い、私が「会いたい」と言えば、「いいよ」と微笑んでくれた。迷惑ではないかと怯えていた私に、「そんなこと思わなくていい」と何度も言ってくれた。私は甘えていた。
彼女に出会って、私は初めて哲学というものに触れた。自分の言葉を持つことの意味を知った。誰かの言葉を借りるのではなく、自分の言葉で、自分の感情を語ることの重要さを学んだ。だからこそ、彼女に「好きだ」と伝えたとき、曖昧な返事が返ってきたことが、胸に突き刺さった。痛かった。苦しかった。それでも、何度も「好き」と言った。それが日常だったし、それ以上は望まないようにした。好きだから。
長期休暇になり、私は久しぶりに実家へ戻った。東京の生活に疲れたわけではなかった。ただ、東京にい続ける理由もなかった。
両親は相変わらずだった。小さな言い争いが絶えず、それは次第に大きくなり、夜には怒号が響いた。母の声が段々と甲高くなり、父がそれをなだめ、けれど最後には父も声を荒げた。阿鼻叫喚。私は布団を頭から被り、ただ、ひたすらにやり過ごした。聞こえないふりをした。子供のころからそうしてきたのだ。時間が過ぎれば、いつか収まる。そう信じるしかなかった。
けれど、気づけば泣いていた。布団がじっとりと湿っていた。
彼女の声が聞きたい。
私はスマホを手に取り、彼女に電話をかけた。迷惑だとわかっていた。こんな時間に、理由も告げずに、ただ誰かにすがるのは卑怯だと思った。でも、それでも、彼女に受け止めてほしかった。
コール音が響き、やがて、明るい声が耳を撫でた。
「もしもし?」
その声に、また涙がこぼれた。
「どうしたの、大丈夫?」
「大丈夫、大丈夫だよ。ただ声が聞きたくて」
「大丈夫じゃないでしょ? 声、震えてるよ。何かあった?」
「親が喧嘩してて。みんなバラバラになっちゃった。でも、もう大丈夫。声聞けてよかった。ありがとう」
それだけ言って、電話を切った。本当はまだ話していたかった。でも、これ以上、弱い自分を晒したくなかった。これ以上、彼女に嫌われるのが怖かった。
だが、私は人に頼ることができた。涙の中に僅かなその喜びが混在し、自分の感情を見失い、また涙が溢れる。
心の中にある小さな蕾が大雨を浴びているようだった。
家出した母と弟を探した。父はただ、家の中で呆然と座っていた。夜が明けるころ、ようやく母と弟は帰ってきた。家族という形が、かろうじて繋がっていることに、安堵した。
翌朝、私は逃げるように東京へ戻った。
もしかしたら、私がいないほうが、この家はまだ「家族」という形を保てるのではないか、そう思った。