4章
高校を卒業した春、私は恋をした。
それは、私の人生観をひっくり返すような恋だった。
「好きだ」と伝えたとき、彼女は少し驚いたような顔をして、それからふっと笑った。
「私は遊びかと思ったよ」
言葉の意味を測りかねていると、彼女は続けた。
「期待はしないでね」
理解できなかった。期待しないで、とはどういうことか。彼女は微かな笑みを浮かべながら、さらりと言った。
「期待って、自分のエゴを相手に投影することだから。『こうしてほしい』っていう願望を、“期待”って言葉にすり替えて押し付ける。そういうの、私は苦手なんだ」
彼女の声は穏やかだったが、その奥に何か沈殿しているように思えた。
「それに、私はそんなに魅力的な人間じゃないよ。自分のことは心底嫌いだし、多分、普通じゃない。だから、私に期待しないで」
私には、彼女がなぜそんなことを言うのか、まったくわからなかった。
恋人になってすぐ、彼女の両親が離婚した。
齢十八で、家族の崩壊を目の当たりにすることがどれほどの痛みを伴うのか、私には想像もつかなかった。ただ、彼女がひどく静かになったことだけはわかった。
まるで、初夏の海のようだった。
表面は穏やかで、風が吹けばさざ波が立つ。けれど、海の底では確実に何かが崩れ、ゆっくりと沈んでいく。
それが、余計に痛々しかった。
彼女の沈黙の奥にあるものを考えながら、ふと、私は自分の未来を見ているような気がした。
彼女と私は、似ているのかもしれない。
大学生活が始まると、彼女は毎週末、私の家に泊まるようになった。金曜日の夜にやってきて、月曜日の朝に帰る。そんな生活が心地よかった。週末が待ち遠しくなり、次第に「週末だけ」では物足りなくなった。気がつけば、ほとんど毎日のように一緒にいた。
私は彼女を気遣うふりをしながら、ゆっくりと依存していった。
彼女がいないと、落ち着かない。彼女の存在がなければ、世界がぼやけてしまう。大学の講義はどうでもよくなり、私の生活の中心は彼女だけになっていった。
そんな私を、彼女は拒まなかった。むしろ、優しく受け入れた。
「単純に評価される分野じゃないことを学ぶのって難しいよね。辛かったら休んでいいんだよ。頼る友人がいないなら、いつでも私が聞くから。だから、無理しないで」
彼女の声は、いつもと変わらず穏やかだった。
才能のある者だけが生き残る世界で、私はもがいていた。自分には何の才能もない。大学に通うことさえ、ただ恥を晒しているような気がした。朝がくるのが怖かった。
それでも、私は彼女に助けを求めることができなかった。
私は幼い頃から、誰かに「助けて」と言うことを知らずに生きてきた。両親にさえ気を遣い、兄弟の顔色を窺いながら、自分の言葉を飲み込むことが習慣になっていた。
「相手の立場になって考える」
それが、私の生き方だった。今、こんなことを言ったら迷惑だろうか。今、彼女に頼ったら、彼女の負担にならないだろうか。そんなことばかり考えて、私は結局、何も言えなかった。しかしこれは他責思考が招いた大きな勘違いだった。
そして、私は堕ちた。
付き合って一年目のことだった。
何もかもが、どうでもよくなった。
大学に行くこともなくなり、社会との繋がりは薄れ、私はただ沈んでいった。
気づけば、私は水底にいた。
息をするたび、胸の奥が軋んだ。
それでも、彼女は変わらなかった。
何も言わない私を、何も言わずに抱きしめてくれた。
初めは柔らかな布で包まれているようだったが、そのままでいてほしいというメッセージなのか、だんだん強く締め付けられ私は彼女によってミイラへと仕立て上げられた。
こんな優しさは、私のような人間に向けられるべきではない。
ぐるぐるに固められもう動けず、何もなし得ない私にとって、
この優しさは眩しすぎた。