3章
新型コロナウイルスが蔓延したまま高校生活が始まった。同じ制服を着て、同じようなマスクをつけて臨む入学式は没個性の象徴とも思えた。誰もが無機質な布を顔に貼りつけ、互いの表情を読み取れないまま、形式的な入学式を終えた。
友達と呼べる存在ができる前に、学校はオンライン授業へと移行した。画面越しの会話は上滑りし、日々はただ淡々と過ぎていった。特別な感情の湧かない、何も残らない時間。けれど、それが私たちのスタンダードだった。
その頃兄は専門学生として上京していた。この頃、兄とは絶縁状態だった。中学時代にひょんなことから始まった喧嘩を引きずっていた。両親はそんな状態を見て見ぬ振りをしていた。連絡先も知らない兄が倒れたことを聞いたのは高校2年のときだった。
栄養失調で倒れた兄は都内の病院に救急搬送されたらしい。東京に通勤していた父が様子を見に行くと思っていたが、母も兄のところへ向かったとき、また胸が痛んだ。片道約2時間の道のりの我が家から向かうことは容易だったが、そこに込められた距離を思い知った。どこか寂しかった。それは目に見える愛だった。
コロナ禍の日々は何も面白味がなかった。コミュニケーションを取ること自体、ハードルが高いように思え、思い描いていた高校時代の青春像を憎んだ。そんなとき、兄が短大を退学してることが分かった。両親に相談なく、自分の意思で決意したらしい。正直私は感心した。"両親の望むこと"を優先に考えてきた私とは違かった。兄は呪われていなかった。そう思えたのも束の間だった。両親の
「これから何をしたいのか」
と言う質問に兄は、
「俺は何がしたいのかわからない。今俺は何するべきなの?」
と言った。兄は立派に呪詛を受けていたのだ。そんな兄の姿は見ていられなかった。未来の自分を映す鏡のように見えた。
高校3年間を振り返ると、ほとんど思い出と言うものがなかった。文化祭も、修学旅行も、友達と一緒に食べる弁当さえ実現しなかった。人格形成に係る大きな3年間で得られたのことは、何もできなかった"無力な自分"だった。他責思考に陥り、何かを変える努力を放棄する、そんな自分だった。
学ぶことに意味を見出せなくなった私は就職の道を選択しようとと思っていた。久しぶりに両親へ自分が何をしたいかを伝えた。それは叶わなかったが。
「大学には行ってほしい」
と言われた。贅沢な悩みだと理解しているが、それは私の望むものではなかった。
存在するか分からない自分の将来について考える時間が苦痛で、目先にある就職という選択肢を取ることで未来に対しての不安を消したかった。しかし結局のところ、親の期待や教師の助言、友人の説得もあり、私は都内の芸術大学へ進学を決めた。これが、最悪の決断となった。