2章
父が帰国してから、家庭内の空気は一変した。軟弱な地盤の上で成り立っていた家族という形が崩壊する音が聞こえた。父と母は何かにつけて揉め、怒鳴り合い、ときには暴力さえも振るっていた。壁を伝う怒声が家中に響き、食卓は静寂か罵声のどちらかでしか埋まらなかった。私は二階にある自室に引き篭もり、階下の惨劇の音を聞くことが段々と増えていった。そんな状況でも高校生の兄は無関心を貫き、逃げるようにテレビゲームに没頭していた。小学生の弟は何をしていたのか、それすら私には記憶がない。自分を守る事で精一杯だった。喧嘩の末に母が夜逃げすることも多くあった。ヒステリックに奇声をあげて、家を出ていく姿は見ていられなかった。その頃私は13歳だった。
中学2年の14歳の頃、祖父が入院することになった。
認知症を患っていた祖父だが、胃癌を併発したのだ。私は数少ない休みを祖父のために費やした。会う度に痩せ細り、目に光が入らなくなっていく祖父を見るのは辛かった。親戚の子供の名前を忘れていく中、私の名前だけは覚えていた祖父が、私の名前を思い出せなくなったとき、胸にチクッとした痛みがあった。想像していたより何倍も痛かった。許容せざるを得ない悲しみを受け入れるしかなかった。
それから程なくして、祖父は他界した。
2018年6月14日、大粒の雨がガラス窓を叩き、大きな音を立てる中で祖父は看取られた。病室にいた十数名の親戚は目に涙を浮かべていた。
私は泣くことができなかった。
現実を受け入れられなかったのか、それほど傷心していないのか、自分でも分からなかった。しかし死者を弔う涙を流すことが出来ない、そんな人間だということを思い知らされた。
いつかの恋人にこの話をしたとき、
「優しくないね」
「最低だね」
と嘲笑されたことがあった。その通りだと思った。反論さえ出来ない自分を、また嫌いになった。
中学3年、部活動で全国大会に出ることが決まった。嬉しかった、努力が実った実感があった。しかし両親は私の部活動にはさほど関心がなかった。試合を積極的に見に来たことがなかっただけ、という話ではなく部活動をすること自体を応援されていなかった。
東京で行われた関東大会、奈良で行われた全国大会、両大会の出発の際、
「本当に行くの?」
と疑問の形をした縛りの言葉をかけられた。表情、声音、抑揚で今どんな感情で、どんな言葉が欲しいのか私は分かるようになっていた。言葉の端々にある、黒い靄がはっきり見えるようになった。
高校受験での志望校を決めるとき、私は困惑した。
「自分の行きたいところに行きなさい」
と母に言われたことが原因だった。今まで"他人の望む行動が自分の行動起因"だった私は自分の欲を出すことが出来なかった。いや自分の欲が分からなかった。母の言葉の真意が読めなかった私は、全国で見ても名が通る私立の進学校に進学することにした。勉強は好きではなかったが、得意ではあった。母に似たのだろう。合格が決まったとき、
「おめでとう」
と笑顔で母は言った。久しぶりに見た顔だった。