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1章

 約20年前、あなたたちは幸せの絶頂にいたことでしょう。私はこの世の絶望を知らずに自分の意思で生まれたのです。あなたたちのその幸せそうな顔を見るために。

 私は5歳の頃に父の単身赴任先である香港で一年間生活していた。両親の他に、4つ上の兄と3つ下の弟と暮らしていた。通っていた幼稚園は様々な国の人間が在籍しており、私は彼らに揉まれながらも明るく過ごしていた。

 仕事から帰ってきた父が、上機嫌な母と安い発砲酒で乾杯する姿を眺めてから、私は兄と一緒に寝ていた。それが日常だった。たまにしていた寝小便さえも今は微笑ましい思い出になっている。



 しかし、そんな香港での生活は長くは続かなかった。私が小学校に上がる前、父の次の赴任先が決まった。今度はタイだった。両親の間でどんな話し合いが行われたのかは分からないが、私たち家族は日本へ帰ることになった。2011年3月のことだった。


 帰国の日、日本の空港に降り立った瞬間、違和感を覚えた。風景は変わらないはずなのに、空気が重く、どこか息苦しかった。祖父母は私たちの帰りを心待ちにしていたはずなのに、迎えに来た二人の表情はどこかぎこちなく、声のトーンも沈んでいた。まだ幼かった私にも、それがただの疲れではないことは分かった。そして、それが何に起因するものなのかも、すぐに察した。


 2011年3月11日。東日本大震災。


 私が帰国する僅か1週間前に、あの忌々しい地震が日本を震えさせた。被災経験のない私が「忌々しい」などと軽々しく口にするのは無礼かもしれない。しかし、あの日、日本がどれほど異質な表情をしていたかを考えると、どうしてもその言葉を使わずにはいられない。テレビから流れる津波の映像、崩れた町、瓦礫の山、呆然と立ち尽くす人々。その光景に震撼しつつも、安全圏にいる自分に安堵していた。だが、今思えば、身辺含めて被災せず済んだこの地震も、私の人生が崩れ始める前触れだったのかもしれない。


 小学校に上がると私はサッカーを始めた。理由は単純だった。祖父、父がサッカーをやっていたからである。私の活発さはそこでも輝いていた。学年が上がるにつれ、友人の数は増えていった。サッカークラブでは主将も務めていた。学校、サッカーがない日は必ず祖父母の家に行った。


 私は祖父が大好きだった。夏は扇風機の前で棒アイスを食べ、秋は庭でサッカー、冬はこたつで温まり、春は縁側で日向ぼっこした。四季折々に祖父との思い出が溢れていた。自分の居場所が数多くあることが心地よかった。


 しかしそれも長くは続かなかった。小学校卒業間近のことだった。友人関係でのいざこざで、私は多くの友人を失った。私の根本的な性格が起因していたのだ。そのとき、私のありのままを受け入れられることはもうないと悟った。快活で、能天気な性格に嫌悪を抱いてる人間が多いことを知った。私は異端だったのだ。そこから私は大きな皮を被ることにした。多くの人間から好かれる「過去の私」を取り戻すために。


 父の単身赴任は結論から言えば、間違いであったと思う。父は私が中学1年のときに日本に帰ってきた。その間、母は一人で男三兄弟の面倒を見ていた。そんなストレスに耐えかねたのか、母は私たちに手をあげるようになった。常習的でないが、「躾」として私たちは痣を作ることが多くなっていった。多感な時期の兄、まだまだ手のかかる弟、私はそんな彼らと母に気を遣い、今すべきことを考えた。彼らは今どんな気持ちで、何を欲しているのか。顔色を窺い、家族が円滑に生活できるように努めた。私が自分を表現できる場所は、祖父母の家だった。


 祖父は認知症を患っていた。


 中学生になっても私はサッカーをやっていた。名門校というわけではないが、将来を有望された世代だった。それが理由なのか、部活に休みはなかった。その分、母の負担も増えた。弟が成長した分、少し楽になったかと思ったが、私が大きな負担となっていたのだ。そんなとき、父が日本に帰ってくることが決まった、と同時に祖父が認知症を患っていることを聞かされた。今思えばこれは単なる偶然ではなかったのだ。


 "祖父が認知症を患い、その先が長くないことを悟った父は急遽帰国してきた"


 と考えるほうが幾許か、自然ではあった。


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