08 私はキレると理性がなくなって気がついたら相手が血の海に沈んでいるのです。
白いチワワと黒いチワワの姿を見て景虎の顔が少し緩み、異常なまでの警戒心と騒がしさを知っているエリスは息を呑む。
そして、二匹の後ろから出てきた大柄なブルドッグを見て、二人とも、どっ、と冷たい汗が流れた。
三匹とも首輪をしているが、しかしもちろん、飼い主の姿はどこにも見えない。
そして、さらにもちろん、友好的な様子は見せなかった。
「Grrr……Ughhhh……」
三匹とも牙を剥き出し、扇形に拡がり、ゆっくりと、しかし着実に、二人に迫ってくる。道路上の二人との距離、およそ十五メートル。野生……ではないだろうが獣にとって、一瞬の距離だろう。
エリスの脳裏に、祖父の言葉が蘇る。
『いいかエリス、イヌはな、よく覚えとけ、元オオカミだ。群れたら強い。ヤバい。訓練されてるのが三匹もいればツキノワ相手でも、まあ勝てんが、勝てんが……そこそこいい勝負する』
「エリス……逃げるぞ……」
しかし、景虎は冷静に呟いた。頭の中にあったのは、もはやこの犬たちは野生だ、ということ。犬ではなく、野犬。チワワ数頭ならともかく、のし掛かられれば一息に首を噛み千切られそうなブルドッグ相手に、なにができるとも思えない。それに……一年も経てば、狂犬病のワクチンも効力が切れているかもしれない。それが何より怖い。
「だめ……それは、絶対、だめ……」
だがエリスははっきりと首を横に振る。
「な、なんでだよ……!」
「目を合わせたまま、絶対に後ずさりしないで。ナメられたら、一気にくる」
囁くエリスに、景虎は驚愕しつつもその通りに動く。
「お……オマエ、慣れてんの、こういうの……?」
「……野犬の群れは相手にしたことないけど……猪とか、熊とか、よく出くわしてた」
東京からだと、徒歩含めて移動に丸一日かかる、山中の一軒家で暮らしていたエリスにとって、野生の獣の相手は取り立てて、特別なことでもない。もっとも東京で暮らすようになってからの年月ですっかり、ご無沙汰だけれど……。
「じゃ、じゃあ、そういうときは、どうしてたんだ……?」
やはり俺たちは選ばれたのでは……? と、景虎が再び思いそうになったのもつかの間、一気に力の抜けた口調でエリスは言った。
「……熊よけスプレーか、猟銃ぶっ放すか、爆竹鳴らすか……」
沈黙。
「Grrrr…………」
たすり、たす。
ブルドッグが獰猛に唸りながら、距離を詰めてくる。
むき出しにした牙の、黄色く染まったエナメル質に『死』と書いてあるような、そんな気分になる景虎。そんな死を口に宿す犬は上体を撓ませ、いかにも堅そうな体にみちみち、力が満ちていくのがわかる。そして、景虎は思った。だから、口にも出してしまう。
「これ、じゃあ……死……?」
「Bowoo,owowowo,wowon!!!!!」
チワワ二頭が我慢の限界を迎えたのか、威勢良く吠え、ブルドッグは撓ませた体を一気にしならせ、景虎に飛びかかった。
「ぅぎゃっっ!」
とっさに屈みこみ、なんとか直撃を避ける。が、ブルドッグの前足にリュックサックが引っかかり、バランスを崩して地面に倒れ込んでしまう。
「景虎!」
エリスが叫ぶが、そこにチワワ二頭が駆けつけ、彼女の足に食いつこうとする。近場の自転車に飛び乗るように避け、なんとか躱す。
「Gawwwwwrrrrgh!」
ブルドッグは足に絡みついたリュックサックに食いつき、乱暴に首を振る。小三の頃から大量の教科書や同人誌でパンパンにされてきたリュックサックは、あっけなく噛み千切られ、中身が地面に散乱する。替えの電池、水のボトル、そして……。
「あ"ァ#$%ーぁア"ー&#$%ーッッ$%ッッ!!!!!」
景虎が、もはや人間とは思えない叫び声をあげた。
チワワ二頭もブルドッグも、そしてエリスもその異様な叫び声に体を貫かれ、びくんっっ、と大げさに体を震わせた。
「あ! ア! あ、%$ァ&あ! あ#$ーあ、あ!」
泣きそうな顔で、珍妙な叫び声とも喘ぎ声ともつかない声をあげ、ブルドッグがいるにも関わらずリュックに駆け寄る景虎。エリスもチワワ二頭もブルドッグも、その光景を呆然と眺めるしかできなかった。
人間どころか、哺乳類が出している声にも思えなかった。
うわずって、かすれて、しかし時折低くなり、なのに張り裂けそうな大声で、聞いているとまったく、脳みその表面に鳥肌が立つような、奇妙極まりない声だった。景虎を襲う気満々に見えたブルドッグでさえ、なんだこいつ、と吹き出しをつけたくなるような顔になり、リュックから口を離し距離を取る。その顔を見てエリスは、この犬は野生じゃなく、人間の様子を感じ取ることを最優先としていた、元飼い犬なのだ、と気付く。チワワ二頭にしても、それは同じだろう。
だが、犬たちの動作が止まったことに景虎は、気付いているのかいないのか、珍妙な声を漏らしながら、びりびりに破けてしまったリュックを手に取る。ダクトテープでももはや、修復は難しそうなほど裂けてしまった、いかにも安っぽい黒いリュックを。
小学生の頃から使ってきた、リュックサック。
自分の人生でいつも、背負っていたリュック。
クソみたいな学校の時も。楽しみにしていた即売会の時も。
自分と一緒にあった、リュックサック。
特別大事だったわけではない。特別大切なものだったわけではない。
気がついたら家にあって、気がついたら自分が使うことになっていた、ただそれだけのもの。
なのにどうしてこんなに心が痛いのか、景虎本人にもわからない。
自分の持ち物が、自分以外の誰かに、好きにされてしまった。
そう思うだけで、もう死んだ方がいい、死ねないなら狂ってしまった方がいい、そんなことさえ思っている自分に、わずかに残った理性が少し、驚愕していた。
「アア、あ……あ……!」
ぶちまけられた荷物を手に取る景虎。それはまるで、撃たれてはみ出てしまった自分の臓物を、体の中に押し戻しているかのように思えた。
俺の。俺のものが。俺のリュックが。
俺が、ずっと、ずっとずっとずっと、使ってきたリュックが。
やられてしまった。
「Grrrrrrrhhhh……」
「景虎!」
エリスが叫ぶ。ブルドッグは気を取り直したのか、再び体を撓ませている。そして景虎は……。
「ア"ぁ$%&$ーーア%$&ーーーーーッッ!!!!!」
再び叫び、立ちあがった。
手には、リュックから転げ出たジッポオイルの缶とライターを手にして。
「Bowowowowowo!!!」
景虎の叫びに対抗するかのように、チワワが吠える。だがブルドッグは少し鼻白み、後ずさる。
獣の敏感な感覚は目の前の人間から、尋常ではない雰囲気を察知していた。まだ飼い主に連れられていた頃、弱そうな外見に反して飼い主が近付こうとしない種類の人間がいたのを、思い出していた。同時に、意味は分からなかったが、飼い主の言葉も。
『ああいうのは関わっちゃダメ!』
この一年で取り戻しつつあった野生と、その身に残る飼い犬としての習性が犬の体の中で矛盾を起こし、獰猛なブルドッグは一瞬、ヘンな人に戸惑うワンちゃん、に戻ってしまう。
そして景虎はその一瞬に、勢いよくTシャツを脱いだ。
「……景虎ぁっ!?」
むき出しになった白い上半身を見てエリスが叫ぶが、彼にはもはや聞こえていなかった。
「ギーーーーィーーーーッッ!」
今度はもはや、昆虫が出している声にしか聞こえなかった。エリスはそんな声が景虎の口から出ていることを少しの間、信じられなかったほど。一瞬脳裏によぎったのは遙か二十世紀の昔のB級、C級、いやZ級SF映画で、安いポリウレタンでできた悪の昆虫型宇宙人が、人間を襲う時に立てる声。人型サイズのカミキリムシが立てるならきっと、こんな音、という声。
「ギィィィーーーーーッッッッッ!!」
口の脇から泡をまき散らし、またもや昆虫じみた声を出す景虎。声が辺りに轟くたびに、はじかれたように犬は三頭とも体を震わせ、ぴょん、と見事に後ずさりする。その表情から徐々に、獰猛なものが消え失せ始めている。少しずつ、思い出しているのだ。
人間のわけのわからなさ、その恐ろしさを。
ブルドッグを睨み付ける景虎の顔を見て、エリスは強烈に、記憶の中のある一点を呼び起こされた。
中学生の頃、目に焼き付けられてしまった光景。
クラスのライングループに、自作のなろう小説のアドレスを張られた宮村くんが、教室で暴れ出した時の、あの、思い出したくもない光景。
半笑いを浮かべ見物する面々の顔から徐々に血の気が引いていって……結局、ぎりぎり、ニュースにはならなかったけれど、パトカーも救急車もやってきて、その時教室にいた誰も、幸せにならなかった事件。それ以来誰も掃除用具のロッカーに触らなくなった事件。あのクラスの同窓会はきっと、永遠にやらないだろう。
「ギギ、ギーーーッッ!! ギーーーィーーッッッ!!!」
景虎は再び叫び、文字通り口角から泡を吹き散らし、手にした荷物……ジッポオイルをそこらじゅうにふりかけた。その臭いに不穏なものを感じ取ったのか、犬たちはさらに距離をとる。だがその間にも景虎は、手にしたTシャツにもオイルをたっぷり吸わせ、ためらいなくライターで着火。ぼわっ、という少々気の抜けた音と共に、周囲の空気が渦を巻き、道路にオイルの火が踊り、景虎のTシャツがイヤな臭いと共に燃えさかり、飛び散った火の粉が犬にもかかり、犬の体にはねとんでいたオイルにも火がつく。
「kyannn!!!!」
耳の先に火がついたブルドッグは途端、叫んで飛び上がる。駐輪場のあちこちも燃え上がる。オイルに火がついているだけだから、火事にはならないだろうけれど……。
「ぅギゃぁァァぁぁぁぁ!!!!!」
完全に正気をなくした目になった上半身裸の景虎が、火のついたTシャツを振り回し、犬たちを追い回し始めた。尻に火はついていなかったが、三頭は狂ったような勢いで逃げ出した。
「kyankyan……! kyain……!」
完璧に戦意を喪失したらしい三頭は、全速力で駅とは逆の方向に逃げていったが……景虎はしばらく、右手に火のついたTシャツを持って振り回しながら、追い回していた。
エリスはそんな彼の背中を、あっけにとられながら見つめ……だすだす、と、自転車に燃え移りそうになった火を踏んで回る。そして、思う。
「……クズリかよ」
いつかなにかの映像で見た、中型犬程度のサイズしかない哺乳類の名前を突っ込みのように呟いて、一人で笑ってしまった。
野生の中でも群を抜いた凶暴性とスタミナで、狼の群れや、時には熊にさえも、こいつには関わるだけ損だ、と思わせ退け、獲物を奪うという。エリスはそんなクズリと、狂奔する景虎を重ね……それは少し言い過ぎだな、と思ってまた少し笑った。