06 トイレとセルフイメージ
落ち込む景虎を現実に引き戻したのは、エリスの慰めでも、完璧に車を動かせないわけではないという希望でもなく……。
尿意だった。
「あ、トイレ」
と、それまでの落ち込みがウソのように平然と立ち上がったが……そこで気付く。
エリスもエリスで、気付いた。
そして顔を見合わせ……景虎が言った。
「……よし、しばらくは外だな」
と、それだけ言うと平然と外に出ようとするモノだからエリスも慌てて立ち上がる。
「待て待て待て待て! 外って! 野外って!」
「いや、流れないトイレにしてたらそのうち溢れるぞ。そんな、うんことしっこが垂れ流してある建物の中に暮らすのは、衛生的にアウトだろ。歴史的にも、下水道技術がない中で排泄場所と生活空間が近いと致命的な感染症、疫病が」
「いやあの! そうかもだけど! あの、あのね、オトコノコはそれでいいかもだけど」
「男女関係ないだろ、こういうのは……え、あ、え……? え、いや、あの、女子も……うんこ、出るよな……? しっこ、も……?」
一体全体どういう思考経路でそういう疑問が出力されたのかはわからなかったけれど、思わず脱力してしまうエリス。
「いやそれはしないわけないけどあの、でも……」
さすがに、野外は、避けたい。
だがそんなことを口に出すのはいかにも、災害時、非常時にワガママを言う使えないオンナ、みたいに思われそうで、はっきりとは口に出せない。だからなんとか自分の中の知識を使ってそれを避けようとも思うのだけれど……祖父に教わった知識は、山の中でうんこをする時は下手すると獣に狙われるので最大限注意すること、みたいなものばかりで役に立たない。股間を拭いてもかぶれない草の見分け方が、この東京でなんの役に立つというのか……。
と、そんな微妙な乙女心にようやく気付いたのか、景虎は、あっ、という顔になって、少し気まずそうに横を向く。
「あ、いや、だから……しばらく、だよ。あそこの、駅前ロータリーの、植え込み、あるだろ。紙は……ここのトイレから持ってこう。あの植え込みなら、したら埋められるし……見ないよ、見えないし、それに、しばらくだ。ちゃんと物資集めたら、トイレも作るよ」
「うそ!? あんたトイレ作れるの!?」
驚きに目を見開くエリス。
景虎は……俺が作るトイレは結局のところ、自分がしたものを自分で処理して袋に入れてどこかにまとめておくタイプのトイレだぞ、とは口に出さず、鷹揚に頷いてみせる。
「安心しろって、スーパーとか百均にあるようなので、ちゃんと作れるんだ、トイレは。だからまあ、しばらく、だよ、しばらく」
景虎の言葉に、エリスは顔を真っ赤にし……やがて、大きなため息をついて頷いた。
「しばらく、ね? その……トイレ作るの、優先順位、上げてよね……?」
「あ、オマエ、トイレを我慢するのは絶対にだめだぞ」
「なんでだよ!?」
「避難所でトイレが汚いからって行かないようにしてると、結局病院送りになるんだってよ。血栓できたり、尿路感染症になったりで。それで今度は水分摂取を控えるようになって、脱水症状で死ぬってさ」
「し……死ぬって、そんな、大げさな」
「震災関連死って聞いたことあんだろ、年寄りと子どもは特にそれで死にやすいって」
「ある、けど……」
「そもそも今、お医者さんいないんだぞ。軽い病気でもアウトなんだ」
これはシリアスな健康の問題であってそれ以外ではない、とわかるようにエリスに言うが……それでも、彼女の微妙な顔は元には戻らなかった。
「オマエ……トイレを我慢する気じゃないだろうな」
人の気持ちなんて言われないとわからないし、言われてもその尊重の仕方なんて見当もつかない、という景虎。ましてや、女の子、女子の羞恥心、というような複雑なものは、宇宙の果てになにがあるのかよりわからない。が……これはそんな問題じゃないんだ、とばかりにずい、とエリスに歩み寄り、真剣に言う。エリスは少し顔を赤くして答える。
「は、はぁ!? しないし! するしトイレ!」
「じゃあ行けよ、トイレ絶対」
「い、行くからトイレ!」
と、彼女が宣言したところで、気付いた。
「あ、一回二回ならあの公衆便所が使えるか! じゃ、行ってくるわ!」
ぽん、と手を叩き、問題は解決した、とばかりに踊るような足取りでロビーを出て、駅前の公衆便所に踊るような足取りで向かった。
「こ……っ……このっ、うんこまんッッ!」
その背中にエリスは怒声を投げつけ……そして、彼がロビーに戻ってくるとその肩をばしばし叩きながら、自分もトイレに向かった。用を済ませると贅沢にペットボトルの水で手を洗い、無駄遣いかな、と思ったものの……頭の中で景虎が、こういう状況で衛生は感染症を防ぐために重要なんだ……と偉そうに講釈を垂れ始めたので、ぷりぷり怒りながらじゃばじゃば使った。
ロビーに戻ると、午後十時頃。二人はソファに座りながら、今後の計画を練った。
「さて……どうするか。物資探しながら、人を探す、ってのが、いいと思うけど……」
「街が……私たちがこうなった原因を探る……っていうのは?」
「それも重要だとは思うが……」
「……うん、わかんないね」
「なんだよな……誰かのスマホとか漁れたら、いろいろわかりそうだけど……」
「じゃ……ええと、ちょっと待って。それは、長期目標にしない?」
「まあ、そうだな。その……世界がこうなってる原因を探って、俺たちだけしかいない原因、ひいては、俺たちが痩せて、イケメンに美少女になった原因も探る、と……」
真顔でスマホにメモしていく景虎を見て、エリスは吹き出してしまった。
「あははは、顔自体は変わってないでしょ」
「いや……さっき鏡見たけど……たしかにそうなんだが……ちょっと、思わなかった?」
探るような視線の景虎に少し、どきり、としてしまった。
公衆トイレの鏡を見て、たしかに、ちょっと思ったのだ。
……あれ、私、こんなにかわいかったっけ……?
思った瞬間、耳まで赤くなってしまったけれど……水で顔を洗い、タオルでぬぐうと、ますます、そう思えた。
形のいい、すっきりした卵形の顔に、ぱっちりした目、ぽってりした唇。今まで肉に埋もれていた顔のパーツがくっきり見えて、私、こんなはっきりした顔してたんだ、などと少しびっくりしたぐらい。眼鏡のよく似合う、いかにも大人しそうな、小柄な少女。長い黒髪がよく似合っている。
「まあその……今までが今までだったからそのギャップ、ってのがあるとは、思うんだが」
景虎にしたって、だいたい同じだった。
たしかに、若いのにフケている奇妙な顔であることは変わりないのだけれど……それがどこか、理知的で落ち着いたオトナ、休日は図書館かカフェで読書して過ごす……的な雰囲気に変わって……いるように、見えるように、思える……?
「ちょ……ま、まあ、ね……? なに、じゃあその……今、私って、アンタから見て、どう見えてるわけ?」
「………………だから、アレだよ、面白いということで人気が出る声優さん」
「……で、でしょ、何言ってんのもう、あんただって、だから、おじさんだよおじさん、図書館で雑誌の新しい号を出してもらってる系の」
少し顔を赤らめながら、互いの顔をちらちら見合って、数十秒。
ごほんっっ、んんんっっっ! と互いにわざとらしい咳払い。
「なんか……痩せてる、ってか……太ってないってだけで、自己認識ってこんなに変わるんだな……」
「……ね。私、自分じゃ大して気にしてないって思ってたんだけど……」
「俺もだ……なんつうか、やっぱり、変わると、変わるんだな……」
「だ、だね……ね、ねえ、ほんと、あの……イケメンと美少女って、あの……」
「ばっ、ばか、言っただけだよ、俺たちがそんなもんに、なれるわけねーだろ」
「あ、当たり前じゃん、なに言ってんの、だから、ちがくて…………ふ……ふう! や、やめやめ! なんか、私たちがこんなこと言い合ってても、な、なんにもならないじゃん!」
「……そ、そうだな!」
誰かと遊ぶ代わりひたすら、スマホとPC越しのオタク文化に没頭してきた二人には、男女関係どころか人間関係の機微はわからず、その場に漂う気まずさに似た浮ついた空気がなんなのかわからず、何を話していいかもわからず……。
「で……そうだ、必要な物資をリストアップしよう」
「そうだね、うん、そこから始めよ」
話す必要のあること、を、口にするしかできなかった。そうして長い間、ああでもないこうでもないと話し合い、リストが完成した時、もう、空気は以前のものに戻っていた。
※今日から使える防災知識※
トイレなんて……家が潰れたらまあなんか避難所とか行けるだろうし、そこで大丈夫だろうから、別にわざわざ買って備えておく必要ないでしょ……というそこのアナタ!!! まずは、自分の住んでいる自治体の人口を調べてみてください。そして次に、自治体の避難所収容人数を。おそらく……というかほぼ確実に、足りていないはずです。私の住んでいる場所ではおよそ300,000人が避難所から溢れる計算です。
これは防災情報を調べていくウチに私の思ったことですが……この国の防災コンセプトはおそらく、
「法律で建物は頑丈に作らせるから、基本的に自宅避難。
家が流されたり焼け落ちたりしたような人だけ避難所へ」
です。公的援助を調べるのは防災の基本でもありますが、それ以上に、まずは自助から考えましょう。