08 足音
ずる……ずるっ……ざずっ……。
元通り、ただ吸い込まれそうな黒い塔を前に立ち尽くす二人の背後から。なにか、音がした。風で何かが転がる音や、ネズミやカラスが小走る音でもない。
人の音。
それも、人の足音。
ゆっくり、ゆっくりと、けれど確実に、二人の背後から、誰かが近づいてくる音。
「っ……っ……ぃっ……」
恐怖と衝撃に打たれたままのエリスは、喉を引きつらせ、景虎の手を白くなるほど握った。振り返れなかった。かといって、その場から逃げ出すこともできなかった。
ざっ……ずっっ……ずるっ……ずるっ……。
ただの足音ではない、なにか、足を引きずっているような、重い荷物を地面にこすりながら運んでいるような、不吉な音だった。エリスの頭の中にむくむく、不吉なイメージが広がっていく。
ぼろきれ同然の服を着て、杖にすがりながら歩く、景虎。
腸をはみ出させ、正気を失った目で歩く、自分。
体中に景虎と自分の顔の皮膚を貼り付けた正体不明の怪物。
数万の景虎と自分を見た後の心は、まるで交通事故にあったかのようにずたぼろで、まともに働かなかった。殺しても死なないなにかに、襲われる。殺しても死なないなにかに襲われ、そして、自分もまた、その、殺しても死なないなにかに、なってしまう。されてしまう。永久に。広がるイメージは更に、最悪の想像に成長していく。
だが。
「…………すぅぅぅぅ………………」
景虎の、深呼吸が聞こえた。そして、痛いほど握りしめた彼の手が、震えているのも感じた。彼もまた、怖がっている。けれど……けど。
ずるっ、ざずっっ、がっっ……ざっ……ずるっ……。
より強く、近くなってきた足音に、立ち向かおうとしている。それは単なる強がりなのかもしれないし、結果、恐怖にまた飲み込まれてしまうのかもしれないけれど。
勇気のかけらが自分の中にも満ちてきた気分になって、一緒に深呼吸した。ぎゅっ、ぎゅっ、とノックするように手を握り直し、互いに呼吸を合わせる。そして。ばっ、と勢いよく手を離し。
「誰だ!」
エリスが叫んで、振り向く。同時、景虎は地面に落とした粉砕丸に飛びつき、構える。
「…………謎を…………と……」
数十年、砂漠の太陽で焼かれてきたような肌の男が、しわがれた声で言った。
「………………時間……が…………い……」
言い終える前に、がくんっ、と体が震え、そしてゆっくり、地面に倒れていく。その様子は数百キロを走り続けた伝令が、力尽きて倒れる様を連想させた。
「……ちょ、ちょ、ちょちょちょちょ……」
エリスが慌てて男に駆け寄り、手を差し伸べようとする。景虎も慌ててそれを手伝……おうとしたが。
二人の手は、男を、すり抜けた。
「「は?」」
地面に倒れた男は、びくんっ、と体を震わせ、ごふっ、と一つ、大きな咳をすると、そのまま動かなくなった。二人は顔を見合わせ、手をぱかぱか、開いては閉じてを繰り返し、今目にした光景のわけのわからなさを少しでも和らげようとする。が、無理な話だった。
「い、いま……」
「…………ゆ、れ、みたい、に……」
今、幽霊みたいに、手がすり抜けた。そんな簡単な言葉さえ言えないほど驚いた二人を、さらに、現実は容赦なくたたきのめした。
ざぁぁ……。
地面に倒れ伏した男の体が、砂となって風に吹かれ、消えていく。
「ひっ、ちょっ……!」
その砂を浴びそうになったエリスが慌てて飛び退く。しかし。
「ぃっっ!」
飛び退いた先に、全裸の男がいた。ぶつかりそうになって身を縮こめるも、先ほどの手と同じく、すり抜けた。何の感触もしなかった。
「………………」
男は、憔悴しきった顔のままわずかに、二人を交互に見つめ、ふ、と笑いを漏らした。山脈を走る野放図な川のように深い皺と、茶色いシミだらけの顔。けれど……はっきりとわかる。それは景虎の顔だった。景虎が数十年、砂漠で放浪していたような、そんな顔。頬を歪ませる笑いからは、感情がよくつかめない。悲しんでいるようでもあり、哀れんでいるようでもあり……なにか、羨望や嫉妬が混じっているかのようにも思えた。
男、もじゃもじゃと髭をはやした砂漠の景虎は、笑みをこぼすとそのまま、黒へと歩み寄る。当然のように塔に手を伸ばし、そして、中に吸い込まるようにして消えた。
それから数十秒。
二人は沈黙したままだった。