07 黒
結局、新宿には入らなかった。
というより、入れなかった。
「……まー……じぃー……?」
ばたん、トラックから降りて後ろ手にドアを閉めるエリスは、痛いほど頭上を仰ぎながら呟いた。
「こりゃあ……」
景虎もその横で呟く。彼もまた、天上を仰いでいる。
塔は、もはや、塔に見えなかった。
新宿から二駅程度、原宿を過ぎた辺りからそれはもう、はっきりとわかった。見れば見るほど、それは壁だった。いや、壁と認識することさえ難しかった。午前の太陽を吸い込み、しかし少しの輝きも見えないそれはさながら、空間に大穴が開いているかのように見える。
その黒い穴が、見渡す限り、視界を埋め尽くしている。この先にあるはずの新宿ビル街、歌舞伎町、都庁、そんなものを飲み込んでいる。
「……さ……さわって、も……大丈夫……かな……?」
トラックを数十メートル前に止めた二人は、恐る恐る穴、塔に近づきながら会話を交わす。
「わ、わからんが……さわらん方が、いいとは、思うが……」
景虎はすり足で、道路にそそり立つ黒い、物体なのかもわからないそれに近づく。怖い、といえば怖かったけれど……好奇心が勝った。第一まるきり、現実の風景に思えない。バグか、はたまた、ロードが間に合っていないゲームだ。道路がすぱり、黒い空間に断ち切られている。それが左右、ずっと広がっている。
壁面だけをこちら側に残しているビル、斜めに断ち切られたまま直立している高架、その上の電車、ちょうど運転席側を飲み込まれているパトカー。きっとこの壁を、穴を、つたっていけば……景虎は思ってしまう。上半身や下半身、右半身や左半身だけを飲み込まれた、現代芸術じみた人間がいるに違いない。
「じゃ、じゃあ……え、え~~い……」
エリスがぽいっ、と、黒い穴に向け石を放る。すると、意外にもかん、と甲高い音を立てて石が跳ね返り、ころころ、道路に転がった。すると不思議なもので途端、穴がモノに見えてくる。景虎は首を振り、さらに穴……黒い巨大な壁に、近づく。だが、近づけば近づくほど、足がすくんだ。どうしてか、体が、心が、近づくなと叫び始めている気がする。それをどうにかしようと、景虎は口を開く。
「実体は、あるんだな……」
「やっぱり触ったらまずいかな……?」
「……なんだよ、触りたいのか……?」
「みたく、ない? ……っていうか、なんか、触るのがスイッチになって、なんか、起こるかもよ……?」
「……それも、そうか……しかし……棒で、つつくところからにしようぜ……」
「…………だね」
そう言うとエリスは景虎の側に走り寄り、ぎゅっ、と身を寄せる。
「なっ……なんだよ、急に、急に……」
「お、お化け屋敷みたいなもの、だと、思おうよ、うん」
景虎の左腕をひし、と握り、身を寄せるエリス。動きやすい服装で、ということで用意したジャージとタンクトップは意外に薄手で、彼女の肌の質感さえ伝わってくる気がする……いや、実際、膨らみの感触は、はっきり、伝わってきた。
「……なっ……なあ、それ……」
「…………ぁ……あっ、あっ! あてっ、あててんのっ!」
むにゅう。
わざとらしいほど、というかわざと、エリスは自分の膨らみを景虎の腕に押しつける。景虎の顔が一気に赤くなる。どれだけ、何度、どのように触ろうとも味わった瞬間、噎び泣きたくなるほど柔らかで暖かな感触。
「そっ! そしたらっ! 男の子は、元気が、出るんでしょっ!」
「だから、オマエは、エロ漫画の、読み過ぎだっ!」
「うっさいなコレはラブコメの方だよ! ほっ、ほらっ…………きゃーーー怖いーーー!」
「……だっ、だいじょうぶだ、ゼ、え……えりす、お、おれが、つっ……ついて、いる、ゼ……」
「なっ……なんでそこはヘタになんのよアンタ急に!」
「このベタは想像したことなんかねえよ!」
「なんでよお約束でしょ!」
「イヤなんだよ俺はそういうお約束はオタクのオッサン臭いだろ!」
「なっ、あっ、アンタなんかどーせ将来的にはオタクのオッサンになるだろーが!」
「じゃあオメーはオタクのおばさんだろーが!」
「そっ、れの、なにが、いけないのさっ! 人間誰だって年とるでしょ!」
「だからっ…………じゃ、じゃあ、オマエの、お…………胸が、小さかったら、俺は……俺はオマエを、嫌いに……ならなきゃ、いけないのかよ?」
「へぁ? ……はっ、はぁ……?」
「だっ、だから、べっ、別に、お………………おっぱいが、あたったら、そりゃ、そりゃあ、う……嬉しい、けど、だっ、だからって……そっ……んなの……」
「ぅ……ぁ……」
「…………お……オマエの…………その……おっぱい、は……その……すごいし、すきだけど……でも……その、俺は、オマエをおっぱいで、すきに、なった、わけじゃ……」
「…………ご…………ごめ……ごめん……あ、あの……ちがっ……違くて……いっ、いやっ……あのっ……ごめっ……ん……」
「……怖いなら、怖いって、言えば、いいだろ、それで、くっついて、たい、って。お……俺だって、ちょっとは……こ……こわい……から……そ、れで、笑ったり、しねえよ……」
互いに顔を真っ赤にした二人は少しの間見つめ合い、そして……改めて、身を寄せた。今度はそこまで、むにゅう、とはならなかった。けれど心はさっきよりずっと、熱かった。恐怖なんて、どこかにいってしまうほど。
「か、景虎も……こ…………こわい……?」
「…………そりゃ……」
「う、うん……私も、なんか……こわい、かも……」
「……あー……べっ、別に……なんかその……体を離してろ、という、ことでは、ない、という、ことに、その、留意、して、いただければ……」
「…………っ……あははっ……ばーか……うん、ごめん、ね…………ふふっ……あははっ、今度から……言う、ね……その、くっつきたい時は、くっつきたい、って……えへへ……景虎と、くっついてたら……うん……怖く、なくなるから、って……えへへへ……」
「……い、いいよ……う、ん……その……言ってくれたら……あの……お、俺にでも……わかるし……」
「……うん…………えへへ……でもさぁ……」
「な、なんだよ……」
「……ぃ……色仕掛けがしたい時は、どしたらいい……?」
「ばっ……おっ……オマエ、なあ……」
「……あは、じっ! 事前に! 事前に書類申請しよーか!? 今夜、夜這いします、って!」
「……意外にイケるかもなそれ、無表情彼女、彼氏の事務的お誘い、みたいな」
「……あ、素直クール系の感じ? ああ、なる、あ、いいかもそれ、結局らぶらぶノリだし……え、描く人描いたらイケるくない? え、マジバズりそう、ちょい契約結婚モノっぽいし」
「あーしかし、最終的にその無表情がどうなるかで好みが別れるな」
「え嘘絶対逆転で無表情が最終的には……」
「いやしかし無表情のまましかし体は的な……」
「…………」
「…………」
「ったく……なに、やってんだ、俺たち……あほか……」
「あはは、あほあほだ」
「だな」
しっかりと手を繋ぎ、身を寄せ合いながら、二人は改めて壁を見る。
黒よりも黒い、夜よりも暗い、見ているだけで吸い込まれそうな巨大な黒い壁。液体じみて濡れているように見えて、しかし、風で雑草が揺れてぶつかるとしっかり輪郭があるのがわかる。見ているだけで頭が混乱する。あるのか、ないのか、わからない。景虎は少し、SNSで見た新しい黒の塗料を思い出す。光をほぼ反射しないその塗料が塗られた場所は、まるで世界に開いた穴のように見えた。それとよく似ている。新宿に開いた、異次元への大穴だ。
「ってか……なんか、中……ない、か……?」
「へ……? ん……い……あ、あれ……」
二人はさらに壁に歩み寄る。後数歩、歩み寄れば完全にくっついてしまう距離。幸いにしてまだ、陽は壁のこちら側に出ていて暗くはなかったけれど……周囲を見れば、日向ではあまり見ない類の植物が繁茂している。シダ系の雑草にツルツルした緑の苔、それから、茸まで。
そんな細部がわかる距離まで来てようやく、それがわかる。
黒の中に、なにかが、ある。
白い影のような、ぼんやりとしたなにか……黒い壁の中に、詰まっている。だが……よくわからない。輪郭線さえおぼろげで、さながらコーヒーの中に混ざっていく一滴のミルクのようにしか見えない。
「………………まあ、冷静に考えれば……」
景虎は呟く。するとエリスが微妙な顔をして彼を見る。二人はしばらく見つめ合い……そして頷く。大体、想像はつく。つくが……いざそれを目の当たりにする勇気は、おいそれとは出ない。
「……じゃあ、ちょっと……つついて、みる……?」
「……ん」
景虎は一歩後ずさり、腰にさしたバールを手にする。鋳鉄製の深緑色で、長さ一メートル程度のバールは、国道沿いの金物屋から調達したもの。ポストアポカリプスなら、崩壊後の世界ならコレしかねえ、と珍しく二人の意見が一致して持ってきた。景虎は、道具としてと言ったのだけれどエリスは武器、と言い張り、柄に革の持ち手をつけてマジックで、粉砕丸、などと名前まで書いた。
景虎はゆっくりとエリスの手をほどき、バール、粉砕丸を両手で構える。おそるおそる先端で、壁を突く。エリスは固唾をのみながらそれを見守る。
…………こんっ。
石をぶつけたときと同じような堅い音。そして手の中にある堅い感触。
……こんっ、こんこんっ……ごんっ。
「ぁ……なんか……やっぱ……堅いんだ……どんな感じ……?」
「わっ……わからん……石より、金属より……堅い……が……」
「……が?」
「いや、バールでモノ叩いたことなんてねえから、わかんねえんだけど……なんか……一瞬だけ、ふにょん、ってするような……」
「や……やらかい……の……?」
「わかんねえんだって……」
なにも起こらないことに安心したのか、景虎の手に少し、力が入る。だが壁は、穴は、黒は、一向にどうなる気配も見せない。突然穴が開いて二人を飲み込むようなこともなかったし、突如ひび割れて二人に向けて倒れてくるような気配もなかった。
ごぃんっ。
かなり強めに、つつくのではなく叩いてみる。ぃぃんっ、と、手の中に帰ってくる感触はさながら、ビルの壁か地面でも叩いたかのようだった。
「あっ! なんか中動いたっ!」
エリスが叫ぶ。粉砕丸で叩いた瞬間、身震いするように中の白い影が震えた……気が、する。
「強く叩くと……なんか、なるのかな……?」
「……ファンファーレ鳴って、クリアおめでとう、って、仮面の男が、出てくるのかもな。もしくは……ぱっくり割れて、中にドアがあって、開けるとポンコツ女神様」
「あはは……え……あ、でも、それ、あるかも……? え、マジ……?」
「なんにせよ……なんにもわからんからな……なにが起こったって別に……不思議では、ない……」
「ちょっと……全力、出してみる……?」
「…………よぅし」
どれだけ叩こうが簡単には壊れないだろう、と確信した景虎は、粉砕丸を両手で構え深呼吸。それから意を決して、エリスに目をやる。頷く彼女に励まされ決心がついて、かなりの強さで振り下ろす。
ぎゃぃぃぃんっっっ…………!
殴打の瞬間、粉砕丸から火花が散ったのが見えるほどの強さで叩くと、金属と金属がこすれる音がして……
黒の表面が波打った。
ぼちゃんっ、と、湖に巨大な岩を落としたかのように揺れ、その揺れが波紋と波を作り、黒の表面を走る。
そして、見えた。
顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。顔。
自分たちの、顔。
「ぃ…………っ…………ひ…………!」
「ぁ……っ……ぃ…………!」
二人の喉から、声にならない呻きが漏れる。
黒の中に、あった。いた。
そして確信した。
これから先、なにが起こるかはわからないけれど。
きっと。
これ以上に気の狂ったことは、絶対に起こらない。
黒の中に見えた顔は、すべて、景虎とエリスの顔だった。
老いた二人、幼い二人、傷だらけの二人、以前より太った二人。
数百、数千、数万にさえ思える景虎とエリスが。
黒の中を満たしている。
目を閉じ、黒の中に揺蕩い、白い体をむき出しにして重なり合っている。
まるで生きているようには見えない。溺死体のような格好の人の群れは、しかし、死体にさえ見えなかった。さながら、不気味の谷底にいるできの悪いアンドロイドか、十九世紀の蝋人形にしか見えなかった。一糸まとわぬ、人の形をした、人ではないもの。
その群れが、一斉に首を巡らせ、二人を見つめた。
無数のエリスが、無数の景虎が、無数の瞳が。
ぐいっ、と首をひねり、目を見開き、光のない瞳で、二人を射貫いた。けれど誰の瞳の中にも、なにも見えなかった。意思も知性も感情も、生も死も、なにも、なかった。そこに虚空がぽっかりと、大口を開けているような瞳だった。
「い……いっ……ぁ……ちょ……ぁっ……」
ぶるぶる震え、叫び出すことさえできないエリスは、はひっ、ひっ、とうわずった呼吸を繰り返しながら、それでも、助けを求めるように景虎の袖を握る。がらがらがんっ……と粉砕丸を取り落とした景虎は、救助のロープが来たかのようにその手を握る。
黒の中の顔たちは、無数の景虎とエリスは、ただ、二人を見つめ続けている。
だが、黒の表面の波が収まって行くにつれ、徐々にその顔はまた、見えなくなっていく。
二人とも、少しだけれど、予想はしていた。
世界から誰もいなくなって、代わりに、墓標のような黒い巨大な何かが聳えているのだから……その中に、いなくなったみんながいたとしたら、理解はできないけど納得はできる。
だが、こんな形はちっとも、予想はしていなかった。
そして次の瞬間に起こったことについては、さらに。