03 一年後
2026/05/05 08:42:53
「…………ぁ」
「……ぇ」
なんとか非常梯子を下り、パンデミックで溢れたゾンビ、バイオハザードの起きた研究所から溢れた怪物、果てはトゲつき肩パッドモヒカン男たちが駆るバギーに怯えながら路地裏を抜ける。無言のまま駅前にたどり着いた二人は、そこでようやく、声を漏らした。
東京最大ターミナル駅の一つ、品川の隣、JR大森駅、その西口。
体育館二つ分はありそうなロータリー中央、ちょっとした広場、植え込み、喫煙所、公衆トイレを構える駅前はかなりの大きさ。二人が暮らす街――かろうじて東京ではあるし駅ビルもあるにはあるが――の駅前に比べれば天と地の差。
だが。
「…………あ……こ……」
「……ぁ、え……」
二人はまた、呟いた。
言葉には、ならなかったけど。
駅前広場に大きな石碑がある。この地方で過去盛んだったという海苔養殖の歴史を書き連ねた石碑の上には、巨大な時計。ソーラーパネルをつけたそれは、ちか、ちか、デジタル表示の「:」を明滅させながら、時を刻んでいる。
2026/05/05 08:43:49
「……だれ、か……誰か……」
そこでようやく、エリスの口から言葉らしきモノが出た。
喉を絞められているかのようにか細く、今にもかき消えそうな声。
それを聞いて景虎の顔がくしゃりと歪み、目に涙がにじむ。
振り払うかのように、彼はあらん限りの大声で叫ぶ。
「誰かいませんかぁぁぁぁ……っっっ!?」
ぁぁぁ……ぁぁ……ぁ…………。
声はただ、ビルの隙間に、道路の向こうに、消えていく。
誰もいない街に、吸い込まれていく。
「どういう……な……なんで……なんでぇ……?」
へなり、歩道に座り込んでしまうエリス。その顔はどこか、へらへら笑っているようだった。同時に、目に大粒の涙。どういう感情で、何を思えばいいのか、さっぱりわからない。
一方景虎は、自分の声がただただ、無人の街に吸い込まれていったのに納得がいかないのか、もう一度、二度、何度も叫ぶ。
「誰かぁぁぁっ! 誰かっ! いませんかっ!」
かっ……かっ……かぁっ……ぁぁ……ぁ……。
だが、何度叫んでも同じだった。
ゴールデンウィーク中とはいえ東京都市部の駅前に、誰もいない。いる気配もない。いた気配さえ薄い。歩道のタイルがめくれ上がり、車道のアスファルトがひび割れ、あちこちから背の低い雑草が生えていた。ビルの壁面を彩る蔦葉と共に、五月の穏やかな風に揺れている。
道路に何かがいた、動いた、と思って見てみればそれは、景虎の大声に驚いたらしいハト。ビルから何か出てきた、と思って見てみればそれは、丸々太ったネズミ。そんなネズミが走り出した、と思えば上空から舞い降りるのは、朝の日を受け黒紫に毛を艶めかせるカラス。
かつて街を満たしていたはずの人はすべて、消え失せていた。
「うそ、だろ、なんで……なんで……」
無人の街に取り囲まれ、どうしてか、押しつぶされそうな気分になる景虎は首を振り、あちこちの店を見て回る。だがどこも同じだ。明かり一つついていない商店の中にも、人の姿は一切ない。それどころか、自動ドアが開け放たれているコンビニの床には側溝から溢れた水が入り込んでたまり、コケが繁り、アメンボが泳いでいる。
道路の信号機はすべてが暗く、路肩のバスや車はただ沈黙している。
交番の中、吹き込むそよ風でひらひら、色あせた地図が揺らめく。
昨晩はぎらぎらと明かりを放っていた、飲み屋に焼肉屋にラーメン屋も、しん、と、雪に降り込められる無人駅のようにひっそりとしている。
駅ビルの搬入口はがらんとして、まるで巨大な生き物が大口を開けたまま絶命しているような、そんな風に見えた。
「……あ、あは、あはは……あははは……ど、どうしよ、景虎、わた、私たち……あははは……な、なんか……」
へらへら笑いながら、ぽろぽろ涙をこぼしながら、エリスが呟く。
「ね……寝過ごし、ちゃった、ね……」
あは、あははは、力なく笑い続け、泣き続け、呟くように言う。
「あはははは……い、いち、一年……一年も、寝過ごす、なんて……あははははは……」
景虎は泣き出したい気持ちをこらえ、駅前の時計をもう一度見る。
2026/05/05 08:44:56
その表示がたしかなら、今自分に見えている光景がたしかなら……。
景虎は、ごくり、唾を飲む。
……俺たちはあのラブホテルの中で、丸々一年、寝てたってことになる。いや……それは、きっと、あの時計が狂ってるだけ……いやでもここはこんなに寂れた街なのか……? 品川から一駅の街が……? 朝の八時……大型連休の朝だから、きっとみんな寝てて……でもコンビニに水たまりがあってちょっとした生態系ができてるのは? 駅前ロータリーのクセして歩道も道路も山中の廃道みたいな有様なのは? ネズミが堂々、回転寿司の席に巣を作ってるのは……? いや、違う、だから……。
ぐるぐる、頭の中でいくつもの考えが生まれては消えていく。
……一体全体、なんで、なんでこんな……。
「な……なあ、なあ、エリス、その、昨日、俺たち……俺たち……?」
ふらふら、エリスの隣に腰を下ろし、尋ねる。だが何を尋ねればいいかはわからない。
「何も、何もしてない、何もしてないじゃんっ! ふっ……ふつうっ、普通に、寝て、起きて、起きたら……っっ!」
あらゆる意味でそうだった。
だが何かが起きた。いや、起きている。
思うと同時、口に出てしまう。
「起きたら、痩せてた。普通に寝て起きたら、痩せてた。こんな……こんなっ……」
改めてぺたぺたと自分の体を触る。それを見たエリスは、ひゅっ、と喉を鳴らす。
「……あり得るのか、そんな……一晩で、こんなに痩せるなんて……?」
小学校低学年の頃から太りすぎの烙印を押されてきた景虎は、そんなことあるわけない、と、よくよく知っている。知り抜いている。
プールの授業のたび「オメーおっぱいあんじゃん!」などとイジられていた体に合わせていたTシャツは今や、腿の半ばまで垂れ下がり、肩が片方出て、子どもがムリをして大人服を着ようとしているかのよう。ズボンはベルトを極限まで締め付けていないと今にもずり落ちてしまいそうで、腰の辺りだけが急にくびれ、ひょうたんのような有様。おまけにその中では、腹肉に押され伸びきっていたトランクスも一緒。着替えの前に、着ている意味がないのでノーパンでいようかと真剣に悩んだほど。
「あは、あははは……だ、だから、一年、ホントに、経ってる、ってことでしょ……」
エリスは諦めたのか、ため息をつきながら自分の体を見回す。
必死で貯めたお金で買った、二着の内一着。
大事な時にしか着ないようにしよう、と心に決めていたワンピースは煤け、汚れ、酷い有様な上、サイズがぶかぶかもいいところ。今ならもう一人服の中に入りそうな上、密かに自慢だった胸までワンサイズ小さくなっている。ブラジャーはつけている意味がなさそうだったから諦め、ババシャツ一枚を中に着ているけれどそれさえ、末期の筋トレ中毒者が着るタンクトップ並みのゆるゆるぶりだった。
「ま……マジで、か……? マジで、一年……?」
「た、経ってなかった、と、したって……」
誰もいない。
東京の街中に、人っ子一人歩いていない。
車も通らない。飛行機も見えない。バスも走っていない。おまわりさんもいない。コンビニ店員もいない。客もいない。通行人もいない。誰もいない。
「あはははは……ふたりきり、だね……」
ぽつり、呟いてしまった。
昨日の夜、自分たちのようなクソキモ陰キャが二人でラブホテルに泊まる、という状況が面白くてふざけて言った言葉。典型的なカップルがやりそうなことを一生恋人なんかできそうな自分たちがあえてやる、というのがなんだか、妙に面白かったのだ。景虎相手なら……クラスで自分と同じく、クソキモ陰キャオタクとしていないもの扱いされてる彼なら、そのノリ、意味がわかるだろうし、そういうことをそういう場所でしても大丈夫だと思ったし、普段からそんなノリで話していたし。
けれど今、そう呟いてみると、昨日とはまるで違って聞こえた。
景虎はまた昨晩の……あるいは一年前の昨晩のように、吹き出した。今は少し、寂しい笑い方だったけれど。
「……デスゲームか?」
「へ?」
「デスゲームじゃね?」
一瞬、景虎が狂ったのかと思ったけれど……言葉の意味が数秒遅れでわかって、今度はエリスが吹き出してしまった。
「いや……デスゲームではないんじゃ、ない……?」
先ほどの台詞をわかりやすい日本語に訳せば、次の通り。
この状況はマンガや小説でよく見る、謎の主催者に参加者が集められ、互いに殺し合うゲームをやらされる、いわゆるデスゲームもののような状況ではありませんか? と。
「デスゲームものって言うより……なんだろ、異世界転生、転移……?」
エリスの言葉に、景虎の顔が少しだけ明るくなる。
「異世界にJRがあるかよ、ファミマと車も」
「ほら、転生者が再現したんだよ、チートで」
「実名使うかねえ?」
「TRとかパミマとかになってるはず?」
「だからデスゲームだぜきっと、もう少ししたらなんか放送があって、駅前ビジョンに仮面の男が映し出されて、皆様方にとっておきのゲームをご用意しました! って……」
「あはは、ないじゃんここ、駅前ビジョンなんて。それになんで私たち痩せてるのさ」
「デスゲームの超科学だよ、なんかこう、ハンデを解消してくれたんだよ。それにそっちの方が放送ウケがいいだろきっと。俺たちが他の参加者と殺し合う様をどっかで放映して、ギャンブルもして、主催者はボロ儲けってこと」
「寝てるだけで人を痩せさせられる超科学を素直に使った方が、イーロンマスク並の億万長者になれんじゃない?」
「たしかに」
いつものような馬鹿話を、いつものようにすると、いつものように互いに顔を見合わせ、今度ははっきり、笑った。
「……よかった、景虎だ」
滲んだ涙を拭って、エリスは言う。それを聞いて景虎は少し息を吐き、わざとらしく笑ってみせる。
「おい、ルッキズムはよしたまえよキミぃ、どういう外見になってもワタクシは黒丸景虎ですよォ、こんなスリムな色男になってもォ」
いつもの妙な口調に、いつものにやにや笑い。目は潤んだままで、肩は震えていて、強がっているのがエリスには丸わかりだったけれど、今はそれが頼もしかった。二十四時間三百六十五日、常にイキって、俺は他のよくいるオタクとは違うんだゼ、と主張する鬱陶しい彼が、昨日のままの日常そのものに見えた。
「いや、アンタ痩せてさらに老け顔小学生感が強くなってるからね?」
「えーマジで?」
「なんか、前は住宅ローン背負ってそうだったけど……今は……なんだろ、家族みんなにうっすら嫌われてるから一人でキャンピングカーの趣味にのめりこんでそうな感じ?」
「……悲しすぎる!」
また二人で笑い、今度は景虎が呟いた。
「オマエも……エリスだな。白鷺エリス」
そう言われると少し、落ち着く。景虎にならって、エリスもにやにやに、わざとらしく笑ってみせた。
「当たり前でしょ、どーよ、痩せてかなり可愛くなったんじゃない?」
「うーん……面白い、ということで人気が出る声優さんっぽい」
「アンタ一回ちゃんと炎上しろ」
今度ははっきり、二人でげらげら笑った。
無人の街に、二人の笑いが転げるように響き渡る。家族や学校よりもインターネットに育てられたオタクの語彙でいつものように互いを小馬鹿にしあうと、混乱しかなかった頭の中も、少しはすっきりしてくる。同時に。
……ぐきゅる~……。
二人の笑いが少しおさまったあたりでタイミング良く景虎の腹が鳴ったものだから、またげらげら、笑い転げた。
「…………よしっ、飯食うか」
勢いよく立ちあがると、少し晴れ晴れとした顔のエリスも頷き、立ちあがった。
「でも、どうする? どこかに……あるかな?」
まだ、なにかを食べられる場所が、と言いそうになって、エリスは言葉を飲んだ。けれど景虎はいかにも自信満々に言うのだった。
「任せとけって、いい店知ってんだ、俺」
学校の中では教師と自分以外に名字も覚えられていない存在のクセして、いかにも世事になれたおっさん風に言うモノだからおかしくて、エリスはまた笑った。どうして景虎は、おっさん風に振る舞いたがるのだろう。好きな男キャラも大抵、実は最強の実力者だがいつもは昼行灯のさえないおっさん、もしくは陰キャ……みたいなの。そういう好みは結局、自分は失われた王国の姫の生まれ変わり、もしくは霊感があっていろんなものが見える、なんて言ってる女の子とあんまり変わらないんじゃないか、とは思うけれど……今はそれが、ほっとした。どれだけ痩せようがコイツはやっぱり、あの景虎だ。そして……少しだけ思った。
こんな状況で、隣にいるのがコイツで良かった、なんて。
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