01 したい、されたい
暗闇の中で、エリスの体が景虎の体に、ぴったりと寄り添っている。椅子に座る景虎を立ったまま抱きしめるエリスは、豊かな胸の中に彼の頭を押し込むように抱いている。顔の下半分を胸に埋めながら、暗闇の中で鈍く光る涙の軌跡を光らせながら自分を見上げる景虎の顔に、エリスはどうしてか、ぞくぞくした。
え、これから……ちゅー……する、の……?
まるで現実感がなかった。
自分が誰かと、好きな男の子とキスする、ファーストキスをする、なんてことはさながら……さながら、なんだろう? サンバパレードの中央で葬式を開く……卒業式の最中に全然知らない人が壇上でずっとセックスしている……いろいろ場違いの比喩が頭の中を横切っていったけれど、どれも今の状況にふさわしいとは思えなかった。
電球色のLEDランタンが、ぼんやり、二人を照らしている。エリスは改めて景虎の顔を見て……少し、笑いそうになってしまった。おっぱいに顔を埋めている男の顔というのは……どうにも間抜けで、なんとも愛らしくて、でも小憎たらしくて、なのに憎めなくて、おまけにどうしてか、嗜虐心みたいなものがうずうず、うずく。いつまででも見ていられるし、いつまででも見ていたい。けれどこのままだと見つめ合うだけで今日が終わってしまう。そう思ったエリスは、のろのろ、わずかに体を離した。これから先、どういう手続きがあればいいのかはやっぱり、さっぱりわからなかったけど……彼の背中に回していた手が、自然、肩に伸びる。
……え、あ、そか、私、立ってて、景虎、座ってるから……。
肩から手が浮く。
すぐ怒る猫の背中を細心の注意で撫でるように彼の頬を指先でかすめ、それから、人差し指と親指で顎をつまむ。つままれた瞬間、景虎が目を少し、見開いたのがわかる。一瞬だけ、ふっ、と漏れた強い鼻息が手の甲をくすぐり、少し体をよじる。わずかに、ほんのわずかに手に力を入れる。
けれど、そこまでしかできなかった。
そこから先は体が凍り付いてしまったかのように、動けなかった。どうしても、怖かった。
得られないのが怖いなら、求めなければいい。
捨てられるのが怖いなら、一人でいればいい。
十七年間でエリスが思ってきたことを一、二行にまとめてしまえばきっと、そういうことだ。だからだろうか、最後の最後になって、彼女の指は動かなくなった。
どうして、私、なんで、こんな、時にまで……。
へにょ、と、眉が歪み、眉根が寄って唇が尖る。ファーストキスを控えた少女の顔ではなかった。あと一押しで泣きわめき始めてしまう赤子の顔だった。
電球色の明かりの中、そんな顔を見ていた景虎は、はじかれたように立ち上がった。転びそうなぐらい慌てふためく彼女の、背中に手を回し、きつく、きつく、体を寄せ合った。エリスのつむじ辺りがちょうど、鼻の下辺りにきて、黒髪が鼻先をくすぐる。くしゃみしてしまいそうだけど、なんとかこらえる。
「ぁ……景、虎ぁ…………」
呟いたエリスがそっと、景虎の背中に腕を回した。最初はまるで、力を入れたら景虎が壊れてしまうとでも思っているかのようにそっとだったけれど……景虎が彼女の背中をねぎらうように撫でると、徐々にその力は強くなった。
「エリス……」
今度は景虎が、エリスの頬を撫でた。
その感触に景虎は、涙が出そうになった。気がついたら窓辺に積もっていた粉雪を、そっと、指先でたしかめているかのような感触だった。やがて指先はエリスの顎に達して、お返し、とばかりに少し軽い調子で、人差し指と親指がそこをつまむ。
けれど……景虎の指も、そこから動けなかった。
「っ……ぁ……」
自分の臆病さに、染みついた卑屈な根性に、嫌気が差した。
満たされなくて辛いなら、欲しがらなければいい。
辛いのが耐えられないなら、悲しまなければいい。
十七年間で景虎が思ってきたことを一、二行にまとめてしまえばきっと、そういうことだ。だからだろうか、最後の最後になって、彼の指は動かなくなった。
二人の視線が、薄闇の中で複雑に絡み合った。唇はなにか、言葉を結ぼうとしていたけれど、どれも形にはならなかった。ただ、穏やかな風が吹き付ける橋の上、二人は体をきつく寄せ合いながら、しばらくそうしていた。するといつしか、エリスの腕が動いて、景虎の手を優しく、顎から引き離した。
「ぁ……」
しゅる……しゅるり……。
薄闇の中ではまるで、内側から光を放っているかのように白いエリスの指が、景虎の指を一本一本、絡め取っていく。
怖い。怖い。怖い。
エリスの心は叫び続けていた。けれど、叫び続けていたからだろうか、指の動きは激しくなっていった。やがてすべての指を絡ませると少し、満足げに息を吐いた。少し、不思議になる。指と指を絡ませているだけなのに、どうしてこんなに、泣きそうなほど暖かくて、叫びだしたいほど恥ずかしくて……融けそうなぐらい、気持ちいいんだろう。
それは景虎も同じだった。
少しだけ身じろぎして逆の手でエリスの手をとると、少しの性急さを動作に滲ませながら、指を絡める。
人差し指が、エリスの指の股をまさぐる。それをとがめるかのように、エリスの親指が関節を押さえる。反発するかのように残りの指が続々、エリスの指を捉えていく。中指が蛇のように絡み、薬指が寄り添い、小指がぴたり、抱き合う。
「っ……っ……」
声にならない声がエリスの唇から漏れる。景虎のシャツはそんな彼女の吐息を余すところなく肌に伝える。
「…………ぁ……あは…………ん……な……なんか…………」
うわずった声が、エリスの唇から漏れる。
景虎の鼓膜をくすぐるように震わせるその声に、どうしてか、背筋がびりびりとする。
「…………っ……ん……なん、か……?」
少しかすれた声が、景虎の喉から響く。
胸の中に直接響いてくるようなその声に、どうしてか、胸が熱くなる。
「てっ…………てれっ、ちゃぅ…………ね……」
「…………ん…………まっ…………まあ、その……」
「なっ……なんでっ……あ、あんた、まで、てれんのさ……」
「そりゃ………………おまえ…………ぁ……」
「あっ……あはは……ふふっ…………ちっ……ちんちん、ちょー、たってるよ……」
「ばっ…………そりゃ……」
「…………わっ……私と、くっついて……こーふん……した……?」
「……きょっ……今日は、ずっと……しっぱなしだ……くそっ……オマエなあ、こういうときに……」
「……あははっ……ごっ、ごめんっ……なっ、なんかっ、い…………いざ、しちゃうんだ、って思ったら……あははは……」
「くそっ……なんだってんだ……」
「あはは……ごめん……わっ、わたしっ、だめだね……じ、自分から、したい、って言ったのに……あははっ、ぁ、あっ、顎クイとか、しちゃった、のに……」
少し肩を沈ませたエリスを見ていると、胸が一杯になった。いじらしくて、愛らしくて、気が狂いそうになった。だから少し頭をかがめ、彼女の耳に唇を寄せ、囁いた。知ってしまった世界の秘密をそっと、二人だけの内緒にするような、静かな声。
「…………され、たい……か? それとも……したい……?」
びくんっ、と肩をふるわせたエリスが、囁き返す。
「さ…………最初は………………さ………………」
最後は、言葉にならなかった。しがみつくように景虎を抱きしめたエリスの体が、震えていた。
「……されたい……?」
囁かれた言葉がエリスの鼓膜を震わせると、もう、まともな意識は全部、吹き飛んでしまった。ただ、幼子のように涙目になりながら、こくこく、首を縦に振るしかできなかった。すると、景虎は優しく、右手をほどいた。
くいっ。
顎をつままれ、心臓がばくんっ、と音を立て、目を閉じる。
顔から火が出そうで、体が爆発しそうで、いますぐ逃げ出したいのに、どこにも行きたくなくて、この瞬間が永遠に続けばいいのにと思って、なのに、もう、待ちきれなくて。
「…………っっ…………」
「……っ……」
唇が触れあった瞬間、エリスの頭の中で、じゅっっ、と言う音がたしかに、聞こえた気がした。何かが蒸発した音。自分の中で何かが、今、確実に消えていった、そんな感触が、あった。
少し荒れている景虎の唇。
ごつごつして、大きな体。
ぎごちなく、力を入れすぎたら壊れるんじゃないかって思いが、見え見えの手。ちょっと引けてる腰。それでもわかっちゃう熱くておっきなところ。それなのに、そんななのに、震えながら、でも、優しく、私を上向かせて、口づけしてくれてる、景虎。そしてやっぱり、唇の、感触。
「んっ……」
「…………ふっ……」
心臓が爆発しそうなぐらい高鳴って、頭の中で火事が起きてるんじゃないかって思うぐらい熱くて、鏡を見なくても、顔も耳も首も鎖骨の辺りも真っ赤になってるのがわかる。頭の火事がどんどん延焼を起こして、体中熱くなって、じっとり、汗をかいているのもわかって。息はどんどん苦しくなって、それでも、喉もなにもかも引き攣れて、呼吸もできない。
けど、一番思うのは。
生まれて、初めて思うこと。
「っ……ぁ……ふっ……」
やがて唇を離した景虎が、少し苦しそうに息をして、その顔が愛しくて、愛しすぎて、もう、なにもかもわからなくなって、言ってしまう。
「ねえ、どうしよう、景虎、私、幸せに、なっちゃってる」