10 オマエを呪う~呪って殺す~!
何もかもが、輝いていた。
海も、ビルも、街も。
動くモノのなくなった都市を、変わらない夕暮れが照らしていた。
「あ……」
「……ふ……」
二人は何度目か、息を飲んでしまう。ただただ無言で、その光景を眺めることしかできない。陶然として、うっとりと感じ入ることさえ、できなかった。
ただただ、圧倒されていた。
風に揺られ波打つ海は赤橙色の夕日に照らされ輝き、とろりと溶けた液体の宝石に覆われているかのようだった。海の濃紺と日の赤橙が波打ちながら混ざりゆき、互いの色を深めていく様子は、二人がそれまでに見たどんな光景より美しかった。
百万、千万通りに色を変える海から目を離しても、今度はビルが輝いている。無傷のまま朽ちていこうとしている無人のビルは、沈みゆく日の茜色にぎらぎらと輝き、その光を海に投げかけ、辺りに散らし、ただの国道を、首都高を、お伽の国の不思議な旅路に変えてしまう。行儀よく道路脇に並ぶ車の列も、さながら、今は休息しているだけの不思議な生き物で、このまま夜になればきっと、動き出してひそひそとおしゃべりを始めるに違いない。そんなことすら思わせる光景。
「あ……っ……」
「……っ……」
二人はいつしか、体を寄せ合っていた。
寄り添って、ただ二人、無言のままでいた。
エリスの肩が、景虎にぶつかるように寄って、その手がきゅっ、と、彼のシャツを掴む。景虎はその上から、すべてがオレンジに染まっていく茜色の夕暮れ時にあってもなお白い、彼女の手を包み込むように、覆う。ふれあった肌がそれぞれの居場所を探すかのようにしばらく、むずむずと動き、やがて、指と指を絡める。そんな二人の背中をそっと押すかのように、設置したスピーカーから古い、けれど甘い歌声が響き、散っていく。崩壊した世界のラジオから流れてくるような音楽は、二人の心を甘く溶かし、絡めた指に少し、力を入れさせ、二人にそれを意識させる。
「エリ、ス……」
景虎が、傍らのエリスを見つめる。
「景、虎……」
エリスはそれに答え、彼を見上げる。
そして。
「…………」
「…………」
「…………っ」
「……っっ」
「ぷっ」
「はっ」
「あはははははははははははははっっっっ! はっ、ははっ、はははははっっっっ! かっっっ、かぜっ、風ぇぇぇっっ!」
「つっっっ! 強すぎっっっ! はははははっっっ! ひゃひゃっっっうはははははっっっっ!」
吹きすさぶ風に髪もスカートの裾もリボンも、シャツの襟もスラックスもなにもかももてあそばれながら、げらげら笑った。まったく、手をつないでいないと吹き飛ばされてしまいそうだった。
東京湾上に浮かぶ全長八百メートルの橋梁、レインボーブリッジ。
そのど真ん中で、二人は笑い転げた。
夜景を見られないなら、夜景として見られるような場所に行こう、夜景に負けない、こんな時でないと見られない景色が見られるだろう……という発想だったが……まったく、その通りではあった。街も海も何もかも夕暮れ色に染まっていく様子はさながら、神が誰もいなくなってしまったこの街を倉庫にしまうことにして、保存用に神秘のベールを一枚、ふぁさり、とかけたかのようだった。心の奥底をかきむしる夕日色に無人の街が染まっていく様は、この先数千年生きたとしてもきっと、絶対に忘れられないだろう。
おまけに……風が、強い。強すぎる。
「なっ、なんでぇっ!? こんな、こんなむーでぃーなのにっっ!」
言いながらもげらげら、笑うエリス。
「う、海の、海の上だからなっ! 風もそりゃ、吹くわなそりゃっ!」
びゅうびゅう吹く風の音に負けない声で叫ぶ景虎。
スピーカーから流れるロマンチックな音楽も、ぶつ切り状態になるほどの風。
「あーもーっ! 髪、ぐちゃぐちゃじゃーんっ!」
「あははっ、ははっ、ひゃひゃっ、おまっ、オマエ、すげーぞ、怖い話で包丁持って追っかけてくるヤツみたいになってんぞ!」
エレガントなハーフアップにまとめたエリスの黒髪は乱れに乱れ、景虎の言うとおりになっていた。ようやく景虎の手を離し、車のサイドミラーでそれを確認したエリスは、また吹き出して笑った。
「すごーーーっ! テレビから這いずり出てくるじゃん私!」
思わず両手を前にあげ、うらめしそうな幽霊のマネをして景虎に近づくエリス。
「オマエを呪う~呪って殺す~っ!」
「呪われる~っ!」
二人してまた、げらげら笑い転げた。
「いや、いや、いや、こりゃ、こりゃあ、失敗、いや、成功、いや……いや、わからんなこりゃ!」
無人の、だだっ広い道路の上を見てみると、先ほど設置したテーブルに椅子はかろうじて生き残っているモノの……純白のテーブルクロスはばさばさと風にあおられ今にも、上に乗っけた花瓶ごと飛んでいってしまいそうな有様だった。路傍で摘んで刺した花はとっくに消えている。
レインボーブリッジの路上にセレブな家具を設置し、セレブっぽいご飯を食べれば、ステキなディナーになるのでは、という二人の企みはその点では、大失敗もいいところだった。
「あはっ、あはははっ、いや、いやいいよっ、ふふっ、楽しっ、これっ、ねー、ディナー食べよーよ! 車、テーブルの横に移動させるね! 片っぽだけでも風が塞げればちょっとはマシでしょ!」
料理自体はトラックの荷台ですでに、作ってある。ここに到着した直後はそこまで風が強くなく、二人はエプロンをつけて料理に励んでいたのだが……料理を作り終え、太陽の光が赤と橙を帯び始めたところで、風が強くなり始めたのだ。
「お、おめー、根性入ってんなやっぱ!」
「あたぼーよっ!」
数分後。
「ふふっ、じゃあ……かんぱ~~~いっ!」
「乾杯っ!」
かちんっ。
トラックを横付けしたなんとかテーブル近辺はどうにか、微風、程度で済むようになった。エリスは髪をとかし直し、景虎もシャツの襟を整え、改めて。
夕日の色よりなお紅い、ルビー色のワインが注がれたグラスを打ち合わせると、二人はそれに口をつけ……
「うぼぇお~……やっぱお酒だ~~……」
「ごっひゅっっ……」
二人同時に顔をしかめ、グラスを置いた。景虎は少し飲み込んでしまったらしく、ごほごほと咳き込んでいる。エリスが足下に置いたジュースのペットボトルを差し出すと、ごぶごぶと飲む。
「あはは、やっぱさ、ムリするもんじゃないね」
「……っっ、だなぁ……っ……」
二人は顔を見合わせて笑う。セレブっぽいディナーなら必要だろう、と雰囲気作りのためだけに調達してきたワインだが……まあ、あるだけで雰囲気は出る。
改めて、テーブルの上に目を落とす。
深紅を纏ったパスタ皿。
トマトの紅と、唐辛子の赤に染まった太めのペンネが散らばる中、ふんだんに入ったマッシュルームが、ぽてり、ころり、散らばっている。まだまだ湯気を立てるそれにフォークを突き立てたらきっと、弾む感触が持つ手にまで伝わってくるだろう。
「でも……ふふっ、料理は超おいしそ~~……っ……」
エリスが眼鏡の奥、食欲に目を光らせる。
「ははっ、まさか……いつか、野外で実際に避難食を食う日が来るんだろうな、なんて考えてたが……それが……」
景虎は橋の外の景色に少し、目をやる。
「レインボーブリッジの上……なんてね。ふふっ」
「んでフォーマルな格好して、オマエと向かい合ってる、なんてな」
「あはははっ、それもそーだ。しかも、その避難食、料理が……なんか、こんな、太いマカロニの、なんかおしゃれなやつだなんて」
「だーかーらー、マカロニってのは総称、麺、みたいなもん。この太くて斜めに切ってあるヤツはペンネ……麺、は実際は小麦粉を練ったヤツの総称だけど」
「しかもこんな、いらない豆知識を振り回すヤツと向かい合いながらだなんて」
「おや、じゃあいりませんか、そんなヤツが作った料理は」
「はいはいごめんなさ~い! ね、早く食べよっ! 笑い転げたらお腹ぺこぺこっ!」
「だな、いただきますっ」
「うんっっ! いただきまーすっ!」
ぷっつ、むにぃ、ぷちんっ、と手応えの快いペンネをフォークで突き刺していくのは、お腹と背中がくっつきそうな状況だとかなりもどかしかったけれど……口の中に放ると、もどかしさは一気に吹き飛んだ。
唐辛子の辛みと濃厚に絡み合うトマトソースの、太陽を凝縮したような旨み。そしてどっしりとしたペンネがコンソメ味と共にそれを受け止め、渾然一体となる。むちんっ、ぷちんっ、と歯に快く切れていくペンネの感触と共にそれを堪能していると、鼻の奥、喉の奥に、乾麺になった小麦粉独特の香りと味がほんのり、広がっていく。エリスの旺盛な想像力は、南イタリアの太陽をそこに感じた。行ったことも見たこともないけれど、どうしてか、そんな単語が脳裏に浮かんでくる味だった。
「ん~~~~~っっ! ばっちりっっ!」
口いっぱいにペンネを頬張り、左手で口を押さえ、右手でサムズアップして、エリスが顔を輝かせる。ワンパン、フライパンだけでペンネを作るのは初めてだったけれど……挑戦した甲斐はあった。なつかない野良猫が差し出した猫缶をむさぼるのを見た時のように、顔が緩みそうになるのを少し我慢する景虎。
「辛さどうだ? 辛すぎないか?」
「ん~んっ! これぐらいが私一番っ!」
チリパウダーの辛さが抜けきっているのが心配だったけれど、完全密封された缶詰のものだったから、そこまででもなかったようだ。
景虎が作ったのは、ペンネ・アラビアータ。
唐辛子を効かせたトマトソースとペンネを絡めて食べる、かなり辛めの一皿。葉物の野菜がないのを缶詰のマッシュルームでカバーし、にんくは瓶詰めのオリーブオイル漬けになっているものでカバー。辛いトマトソースの根底を、しっかり支えてくれている。
「んむっ、ほんとっ、おいひっ、んぐっ」
むちむちんっ、ぷちんっ、ぷりゅんっっ、と、絶妙な歯ごたえのペンネは、噛めば噛むほど面白くて、そして、噛めば噛むほど辛みと旨みが絡みついて、食べれば食べるほど、もっと食べたくなる。噛むのが楽しいのに、もっと食べたくてすぐに飲み込んでしまってそれで、もっと、もっと、口に詰め込みたくなる。フォークに刺すのがもどかしい。箸でかきこんで口いっぱい頬張ってみたくなる。トマトの甘さと唐辛子の辛さは、その一連の流れをさらに加速させる。
こいつ、ほんと……美味そうに食うよなあ……。
頬を緩ませながら、景虎はエリスを見つめた。とかし直したとはいえ、少しちょろちょろ、跳ねている髪を力業気味のアップでまとめ、高速でフォークを回転させる様は、小気味よかった。何より、黒いベロアドレスの彼女はそんな姿になっても、やっぱり、キレイだった……これはまあ、周囲の環境もあるのかもしれないけれど。なにせ、スイートルームは一泊三桁万円しそうなホテルから持ってきた家具と食器だ。クリスタルの花瓶と、籐のワインバスケットまでしっかり、テーブルに並べてある。料理の材料は乾麺に缶詰に瓶詰めに顆粒ダシだったが……少し深さのある純白のパスタ皿にそれらしく盛り付けられるとまるで、イタリア料理の中でも特定地方にこだわった、知る人ぞ知るスノッブな高級リストランテで供される一皿のように見えてくるから不思議だった。
かちん、かちん、エリスのフォークが皿に当たって少しの音を立てる。リストランテの中では眉をひそめられるような仕草と音も、今はただただ、快かった。くちゃくちゃ食われるのは気分が悪いけれど、ずばずば食べられるのは爽快だ。
そうして二人はあっという間にペンネを片付け、ふ~っ、と一息。景虎は席を立ち、パスタ皿を片付けると代わりに、トラックからデザートを出してくる。だが。
「……でも……これについて私まだ、納得いってないからね……?」
途端、エリスの顔が険しくなって、景虎は笑ってしまった。まあ……ムリもない。自分もレシピだけ聞いたら、アホな小学生が家庭科の時間にふざけて作って怒られるヤツか、と突っ込むだろう。
「料理の名前、なんだっけ?」
景虎は笑いながらつまみ、ニヤニヤ笑いながら告げる。
「ボム」
一口サイズのサンドイッチじみた形をしたそれは……実際に、サンドイッチではあった。
乾パンを砕いて羊羹にまぶし、生地自体にチョコを練り込んだような甘いパンを二つに割り、そこに挟む。バターや生クリームがあればあるだけ塗り込むのだが、あいにく今は乳製品絶滅済みの時代。甘さ控えめで我慢するしかない。
「だいたい……なんでパンが……」
「食わないならもらっちゃうぜ~」
「食べるよ、食べるけど……」
エリスはまだどこか信じられないような顔をしてサンドイッチ、景虎の命名によればボムをつまむ。得体の知れない宇宙生物でもつまんでいるかのような顔つきで、よくよく眺める。
チョコの茶色味を帯びたクロワッサンのようなパンが二つに割られ、真ん中に、砕いた乾パンを鎧のように纏った、黒く輝く羊羹。羊羹なんて生っぽいお菓子が一年も過ぎて食べられるわけない、というエリスのツッコミは入ったが……おいおいこれだから素人は困っちゃうぜ、というツラをした景虎が蕩々と語ってくれたので、食べても大丈夫だとは思うのだが……。
まず缶詰のパンがこんなにふかふかに見えるのが信じられないし、パンの間に羊羹を挟んで食べるというのも信じられないし、なにより、乾パンを衣にするのも信じられない。食べ合わせについては言うに及ばずだ。
しかし景虎は勢いよく、かけらの躊躇もなく、好物の駄菓子を頬張る小学生のように、ボムを口に放り込む。エリスもそれを見て、えいやっ、と、一口で頬張る。
甘さが、爆発した。
「…………っっっ!」
「…………へへ……」
驚愕に目を見開いたエリスを、にやにや笑いながら見つめ返す景虎。
「ばっ……ばかすぎる……っっ!」
口の中で爆発した甘味の爆弾をなんとか噛んで飲み下し、エリスは言った。その言葉を聞くと景虎はゲラゲラ、心底楽しそうに笑った。
マズいのではなかった。むしろ、おいしかった。
いや……おいしい、とは少し、違うかもしれない。
ふかふかのチョコパンの、しっとりとした生地の旨みと甘みに驚愕していると、うっとりと油断した意識をぶん殴るかのように羊羹の、焼け付くような甘みが爆発する。甘ったるすぎて耐えきれなくなるところで、がりがり、ざくざく、と、乾パンのしょっぱさが口の中を中和する。けれどそうしているとまた、チョコと羊羹という甘さの二大巨頭が口の中を蹂躙する。喉に落ちていくまで、そして落ちていってからもしょっぱさに覆われた二系統の甘さが味の乱痴気騒ぎを続け、その騒々しさに頭がおかしくなりそうだった。まったく、食べ物を食べて、頭がおかしくなりそう、なんて感想が出てくるのは生まれて初めてだった。
甘くておいしいものを組み合わせたらスーパー甘くてウルトラおいしくなるに違いない……そんな、子どもじみた考えが透けて見えるデザートだった。それなのに、乾パンのアクセントが効いて食べられないわけではない……というか、おいしい。そう感じてしまうのがまた、腹立たしかった。人間は本能的に、カロリーのあるものをおいしいと思うようにできていて、甘みはその最たるモノだ。しかしこんなものをデザートに食べていたら、骨まで甘くなってしまいそう。
「こ、これ、遭難したときとかに食べるやつでしょ……!」
景虎が差し出す水のボトルをごくごく飲み、エリスは言った。
「似たような状況だろ」
「そうかもだけど……!」
にやにや、イタズラを成功させた子どものように笑う景虎を見ていると、怒る気にはなれなくて、エリスも笑ってしまった。
「オヤジに言わせりゃワインに合うらしいが……」
そう言うと景虎は、最初に舐めたきりだったワイングラスを慎重に持って……ほんの一口すすってみる。
「…………どう?」
「……………………おべべべべ~……」
顔をしかめて舌を突き出す。少年っぽいその顔に、エリスがくすりと笑う。が、景虎は少し、納得したような顔になった。
「ああ、まあ……合うって言うヤツは、合うって言うんじゃないか……たしかに、苦いもんほしくなる味だし……くそ、緑茶、持ってくるんだったな……」
エリスはその顔がおかしくて、口元に手を当てて笑った。
「ふふっ」
「なんだよ」
「えへへ~……これ、なんでしょ~?」
エリスはトラックの荷台をごそごそとあさると、なにやら黒い缶を二つ、テーブルに置いた。
「………………女神よ……」
陶然とした口調で呟いた景虎は、カフェオレの缶をまるで、天から降り注ぐ甘露の滴が満ちる聖杯かのように捧げ持ち、大げさに体を震わせた。
「あははっ、私たちにはまだ、こっちだね」
そう言うとエリスはプルタブを起こし、舌の根がうずうずするような甘さに占領された口の中を、お気に入りのカフェオレで洗い流す。景虎も、まるで風呂上がりの瓶の牛乳かのように、一気飲み。甘味と苦味が手を取り合い、口の中で落ち着き、ようやく二人とも人心地つく。
「にしても……アンタのことだからワインうんちくを語ってさ、俺は別に酒も普通に飲めますけど? みたいな顔をするのかと思ってた。訳ありバーの訳ありバーテンダーに憧れるタイプでしょ、アンタ」
「俺は、オマエの方がするのかと思ってたぜ、イイオンナぶってさ、ワインの官能が女を花開かせるのよ……的な?」
「あははははっ、私が飲んだら飲酒運転になっちゃうじゃん」
「そいつはなんともヤバそうだ……酒、飲んだことあるのか?」
と、なんだかぽかぽかしてくるお腹に体をもぞもぞ、居心地悪そうに動かしながら景虎は尋ねた。さすがの彼も、俺はガキじゃないから酒も普通に飲むゼ、とまでは思っていない。
「一回、すっごくおいしい日本酒飲ませてもらったことあった、おじいちゃんに。その後……ふらふらして楽しくなって、トラクター運転して山上ろうとして、はちゃめちゃに怒られたけど」
「なんなんだその酔っ払い方?」
「あははは、なんかさ、私、やっぱり、エンジンとか車とか、そういう……でっかくてパワフルなの、超好きなんだよね、酔っ払うともっと好きになるみたい。あんたは? 酔っ払うとどうなるの?」
「いや……ない。酔ったことは」
素直にそう言うと、エリスは意外そうな顔をした。
「…………うそぉ?」
「ほんとだよ。なんでここで嘘つくんだよ」
「いや……アンタのことだから……俺は周囲のガキとは違って酒の飲み方を心得てるゼ……みたいな感じを出してくるのかと思ってた」
「まあ……そういう風に言うなら……」
飲みもしないワイングラスをくるくる、回して考える景虎。
「……俺は周囲のガキと違って、酒を飲めばクールなワルになれるなんて思ってないゼ、ってところじゃないか?」
「ぷっ……なんなの、もう、あんた、自分の人生三人称視点でやってるの?」
「客観的に物事を見られる冷静で知的な男だゼ、俺は」
そう言うとエリスは笑い、その笑顔を見て景虎は少し、体と頬が熱くなった。一口二口程度の酒でも、こんな風になってしまうのか、と少し驚く。
「でも……あのパンすごかったね、缶詰だったよねアレ? でもマジでパンだった……しかもパン屋さんのパン……あれ、なんなのマジで……?」
「なんでも、パン種を缶の中に入れて缶を閉めてから焼く、みたいな手法が数年前に開発されたらしい」
「へ~~……非常食って進んでるんだねー……」
「非常時ほど美味いもんが必要だ、って、みんなようやく身にしみ始めたってところだろうな」
ポータブル電源やスピーカーセットを調達するために寄った店で、二人は非常食も仕入れていたのだ。缶詰のパンも一箱ほど調達済み。どこの家電量販店にもなぜか、ほぼ必ずと言っていいほど防災コーナー、非常食コーナーがある。
「ってか……ねえ、顔、赤くなってない? 酔ってる?」
「いや、あんだけじゃ、酔わないだろ」
「え~……? なんか、赤いよ~……?」
「俺は……周囲のガキとは違って、ワインなんか産湯として浸かってたぐらいだゼ」
「あはははっ、酔ってるじゃん」
「酔ってないよ」
酔っていない……ということにして、酔っているのを隠して……本当の気持ちを、押し込めておきたかった。
「ふふっ、だってなんか、口調もヘンだもん、いつもと違って、ちょっととろ~んってしてる」
エリスがくすくす笑う。
その仕草の一つ、一つ、髪の一本一本、唇の煌めき、首の白さ細さ。
すべて、すべてが……。
「ん~……じゃあ、酔ってる酔ってる」
そう言うと、苦くて酸っぱい汁にしか思えないワインをもう一口、すすった。唇がすぼまり、舌は苦味で引き攣れ、喉が焼け、腹はぽかぽかと暖まってくるけれど……アルコール程度では、どうにもならなかった。
「あはは、そんな、飲んでどうするのさ~」
脊髄が、燃えていた。
脳みそが、燃えていた。
下半身も上半身も、すべてが燃えていた。
「こんなのは、水みたいな、もんだゼ」
ほしくて、ほしくて、仕方がなかった。
「あはは、自分から言うと、ちょーバカっぽい」
テーブルに置いた電球色のランタンに照らされるエリス。顔。髪。唇。ベロアの黒いドレス。その中の体。心。楽しそうな声。ほしかった。エリスがほしかった。白鷺エリスがほしかった。ほしくてほしくて、気が狂いそうだった。
「も~……酔っ払ったこと、ないんでしょ、二日酔いになるよ」
けれど、どこか甘く言うとエリスはほほえみ、ワイングラスを探すようにテーブルの上をのたくっていた景虎の手を掴んだ。彼女の肌の温度が、肌に滲む。滲んで融けていく。
「あっ、すっごい、熱いじゃん……あはっ、お酒、弱いんだ……」
そう言うと、すり……すり、と肌の温度をさらにたしかめるように、エリスの指が、景虎の手の甲を撫でる。その仕草、動きが、どうしてか、景虎の目を、いっぺんに覚めさせた。少し、本当に酔っていたと思うのに……その酔いさえ、体中から吹き飛んだ。そして、思った。
あ。
違う。
これは。
いつもと。
絶対に違う。
いつの間にか夕暮れは終わりつつあった。
溶け合っていた海の赤橙と濃紺は、次第に濃紺が優勢となり、漆黒に至る深淵を覗かせ始めている。輝いていたビル群も、線香花火の最後の一秒じみた光を纏うのみ。
夜がその触手を、伸ばし始めていた。
風はいつしか穏やかになって、吹き付けるのではなく、くすぐるように。
そして、その夜の中に。
「ね……景虎……あのさ…………私、言いたいこと、あるんだ……」
今まで見たことのない顔をしたエリスが、いる。
※注意※
作中で未成年者が飲酒していますが、これは作者の思想を表明するものではありません。未成年者の飲酒は法律で禁止されています。また、未成年での飲酒は
・脳機能の低下
・肝臓をはじめとする内臓の障害
・性ホルモン分泌異常
・アルコール依存症
などの症状を引き起こすおそれがあります。お酒は二十歳になってから。
参考:https://stop-underagedrinking.com/