02 腐るものがねえんだ
「ちょ、ちょっと待って、なに、私たち……じゃあ……」
寝間着から着替えた二人は部屋の状況を確認し、昨晩と同じようにソファに座り、昨晩と同じ場所だとは思えない部屋の中を見渡し、途方に暮れた。
電気はつかない。水道も出ない。おまけに――。
「……ね、ねえ、あの……と、とじこめ、られちゃった……とか、ないよね、あは、あはははは、ないよね、あははははっ……?」
「そ、その笑い方やめろよ、俺まで、怖くなるだろ……」
このラブホテルは玄関横の機械に宿泊代を挿入すると、部屋の錠が開いて外に出られるシステム。だが肝心の機械はランプ一つついていないし、千円札をどうねじ込んでも呑み込む気配はなく、当然のようにドアは開かなかった。がんがんとドアを叩き、叫んでも、外からは何の反応もない。非常用らしいプラスチックのケースに覆われた解錠スイッチも見えるのだが……勇気を振り絞ってケースを外し、スイッチを押しても何も起こらない。
「ま……まずは……お、落ち着け、何が……」
がさごそ、自分の鞄をあさってペットボトルを取り出し、からからに乾いた喉を潤そうとする景虎。それを見てエリスも自分の鞄に飛びつく。
だが。
「………………なる、ほど……」
イベント最中はトイレによる時間ロスを避けるため、結局飲まなかった未開封の水のペットボトル。何の変哲もないそれがわずかに、へこんでいる。景虎の頭の中で何かが疼き、窓から漏れてくる光に未開封のペットボトルをよく照らし、たしかめる。
透明なのは変わらないが、たしかに、ボトルはへこんでいた。
「え、わっ、ちょ、なにこれっ、ま、マジなんなのっっ!?」
一方エリスはバッグから取り出したミニサラミの袋を見て叫び、顔を歪ませた。袋の中に十ほど残っていたそれは、すべて、個包装の中で真っ黒に変色している。
「…………時間が、経ってる……」
ぽつり、景虎が呟く。
「ど、どういうこと……?」
「……これ」
景虎がペットボトルのへこみを見せた。彼の頭の中では、それを見たエリスがハッと息を呑むはずだったのだが……現実の彼女は、オマエなにしてんの? という顔で彼を見るだけだった。
「…………ペットボトルがへこんでるだろ、未開封なのに」
「……そういうこともあるんじゃない?」
「あるわけねーだろ未開封だぞ、どこに何が漏れるんだよ」
「いやだから……潰されて、漏れたんじゃないの?」
「だったら本が濡れてたはずだろ、ちげーよ、だから、蒸発したんだよ、水が、その分がへこんでるってこと」
「はい? 未開封なのに蒸発するわけないじゃん」
「ペットボトルってのはすんげーわずかにちょっとだけ空気を通すんだよ。だから年月単位で時間が経つと中の水蒸気が漏れて、その分が減ってボトルが凹むんだ。それで賞味期限が書いてあんだよ、中身が減ったまま売ると書いてある内容量と違って法律に引っかかるから」
景虎は鞄をあさりながら早口でまくし立てる。どうして彼にそんな知識があるのかはわからなかったエリスだけれど……知識でマウントをとれる人間がエラい、という世界観の彼のことだ、いまさらあまり気にならない。気には障るけれど。
「くそ……なんか、オマエ、日時のわかるもんねーか?」
「……ない、スマホ、なんでバッテリー切れてんの……? わた、私、昨日、ちゃんと充電しといたのに……」
二人はちらり、枕元においたままのスマホに目をやる。たしかに、コンセントに繋がれた充電器のケーブルが、スマホに刺さっている。だが何度たしかめても電源はつかなかったし、即売会中に使っていたモバイルバッテリーに繋いでも同じだった。
「……あーくそ、なんもねえか……くそ、腹、減ったな……」
「ねえ、とりあえず……ここ、出ない? ひ……非常階段とか……?」
エリスは不安を振り払うように明るい声で言った。景虎はそんな彼女を見つめ……恐怖が自分の中で鎌首をもたげるのがわかって、慌てて頷いた。
やはり、どう見ても、痩せている。
それも、数キロどころではない。
見事なデブで、たっぷり具の詰まった惣菜パンのようにぷっくりまん丸だったエリスの顔が、ちゃんとした顔の形になっている。煤け、埃で汚れてはいるモノの、白い肌は健康そうで、すっきりした細長の、小さな顔。
思わず自分の頬や首、腹にも手をやってしまう。
簡単につまめるだぶついた肉がいくらでもあったそこにはもう、引っかかりがなにもない。胸なんか、ちょっと前まではブラジャーをつけられそうなほどあったのに……今は、少し腹を引っ込ませれば、あばら骨が即座に浮き出てくる。
「ちょ、い、今は、そういうの、ナシで、あの……後で、後で考えよ?」
自分の体をぺたぺたと触る景虎を見て、エリスが泣きそうな声を出す。
「…………すまん」
景虎は手にしたボトルのキャップをねじ切り、一口、二口、水を飲む。そこでようやく自分の体が、喉が、カラカラに乾いていることに気付き、勢いで全てを飲み干しそうになってしまったが……エリスが慌てて叫んだおかげで我に返って止めた。
「えちょちょちょちょ! 大丈夫なのそんな水飲んで!?」
「未開封の水は腐んねえよ、殺菌してから詰めてあんだ。腐るモノがない。臭いがうつったりはあるらしいけど……オマエも飲んどけ」
ぶっきらぼうにボトルを差し出す景虎に、ごほん、と一つ咳払いしてから受け取り、くぴ、くぴり、遠慮がちにボトルを傾ける。間接キスだなんだかんだと言おうかと思ったけれど、そんな場合じゃないな、などと思いつつ……けれど、そんな考えはすぐに吹き飛ぶ。目を見開くほど、水がおいしかった。体中の細胞一つ一つに、染み渡っていくよう。体が震えるほどで、飲み干してしまわないように苦労する。
「……えなにこれうま……」
「六十八円の水なのにな……なあ、よし、出よう、ここ、うん、窓ぶち破って非常階段使っても、文句は言われねえだろ、こんなの」
そう言うと景虎は立ち上がり、つかつかと窓に歩み寄り、首を突き出し左右を見渡した。
「あ、ちょ、待って待って」
窓の外には、消防法や建築法のしがらみ上仕方なくつけました、と主張しているような狭いベランダ。何十年ものかはわからないが、非常梯子もある。向かいの室外機に手で触れる狭さだが、二階のここから降りるのはそこまできつくはないだろう。もっとも周囲に見えるのは廃墟じみたビルの裏側、なにかのゲームでスラム街ステージとして登場しそうな狭苦しい裏通りのどん詰まり。ビールケースやゴミ箱が散乱し、グラフィティが書き殴られた治安の悪そうな路地裏。この状況の説明になりそうなものはない。
「……外……」
ぽつり、景虎は呟いた。
一体全体、何があったというのだろう?
ただ、部屋の中が、自分たちがこんな有様ということは……。
「なんかいるとか、言わないでよ……」
「ゾンビいたりしてな! 走るタイプの!」
いきなり振り向き、妙な顔をして襲い掛かるフリをしてみせる景虎。エリスは大げさなまでに跳びすさり、背後に倒れそうになって、ベッドの上に尻餅。ばふんっっ、と、埃が舞う。
「え、あ、ごご、ご、ごめん、そ、そんな驚くとは……」
いつもと違ってしおらしいエリスに調子が狂いっぱなしで、なにか一つふざけて元気づけよう、と、彼にしては珍しく殊勝なことを思っての行動だったけれど……いつものように、やり方を間違えていたようだ。
「~~~~~っっっっ! ばっ、たっ、かっ、あ、あ、アンタっっっ! なんでそういうこと言うワケ!? マジでホント最悪! デリカシーないにもほどがあるでしょ!? 脊髄反射でしか行動できないワケ!?」
顔を真っ赤にしたエリスは景虎の肩をぼかすかと叩いた。
「いてっいたっ、いやマジで痛いって、肉が、肉がねえんだもう、ダイレクトに骨に!」
※※※※今日から使える防災知識※※※※
防災? ああなんか、この間非常食買ったから大丈夫……というそこのアナタ! 非常食よりまず、水を買いましょう。食べなくても一週間は死にませんが、水がないと三日で死ぬと言われています。国が推奨しているのは三日から一週間分の備蓄、ということで、一人分なら多めに勘定して9~21リットル、2リットルペットボトルで換算すると5~10本。2リットルボトル6本入りの箱1つで安心です。また、自治体が非常時における給水所を用意している場合もあります。場所を確認して、水を汲めるブツ(水タンクや多量のペットボトルを持ち運べる手段)を用意しておくとさらに安心です。