02 イイオンナとは?
「ん~、なんていうか……イイオンナ、って……概念じゃん?」
試着室の中でごそごそやりながら、エリスは言った。
「まあ……わからんでも、ないが……」
手持ち無沙汰にLEDランタンで、周囲をゆらゆらと照らしながら答える景虎。
トラックを飛ばしてたどり着いた六本木ヒルズの中はまさしく、資本主義の墓場、という言葉が駅前スーパーより遙かにふさわしかった。あちこちにネズミの糞や虫の死骸が転がっていてもなお、ハイブランドのアパレルショップだけが持つ、余裕の裏に雑に隠された優越感、とでも言うべき雰囲気は損なわれていなかった。とはいえ景虎には……なんだか居心地の悪い場所だなあ、という感想しか、もたらさなかったけれど。主張しすぎない大きさの文字で到底読めない名前を掲げたアパレルショップは、まるで異国だ。思うのはただ、すげえ……ユニクロと違う……みたいなことだけ。さながら、アニメショップで女性向けフロアに間違って入ってしまった時のようだった。
「……そういう、イイオンナになりたいって思うのは、ファッションじゃなくて、コスプレじゃん。だから、いいの、これはオシャレじゃないもんね」
一方、試着室の中にいるエリスは、どこか浮かれた声だ。
「まあ……オマエがいいってんならいいけど……しかしさ、なんなんだろうな、いや、俺もわかるんだよ、その……オシャレが恥ずかしい、ってのは。要するに……」
景虎は口ごもってしまう。
試着室に入る前エリスが言っていた、オシャレは恥ずかしい、という言葉。なんとなく、わかる。わかる気がする。けど……ファッションのことなんて、可能な限り頭の中に置かないようにしながら生きてきた彼にとって、大学レベルの数学じみて難解すぎる。
頭の中をもうちょっと整理しようと、一体全体なぜこんな……六本木ヒルズの中で、試着室で着替える女の子を待っているのかを少し、思い出してみる。
休日を迎えまず最初に何をやりたいか、とエリスに聞いてみたところ……「カシュクールニットワンピ着てみたい! イイオンナが着てるヤツ!」の一言。ニットワンピはかろうじてわかったが、カシュクール、と聞いてもなにかの木の実だろうか、はたまた、ファンタジー少女マンガに登場する槍術に長けた砂漠の国の騎士の名前か何かだろうか、ぐらいしか、景虎には思い浮かばなかった。エリスが言うには、ヒルズに行けば絶対ある、とのことなので、そこに向かった。頭の中では、ディアスゴラ王国騎士団団長、砂塵のカシュクールが使う必殺技の名前をぼんやり思い浮かべながら。熱砂纏鎧……黄砂塵切……中二精神を保っていないと、今の俺たちにはこんな店がふさわしい、などと勘違いしてしまいそうだ。
入り込んだヒルズの、完璧に無人でもなお気後れする、闇の中のハイファッションブランドの数々。ランタンの明かりを頼りに進み、たどり着いた目当ての店で、エリスはそれを見つけた。くすんだピンクのカシュクールニットワンピース。どうやらカシュクールとは……なにやら、生地を巻き付け胸の前で合わせるタイプのものらしい、とは、わかり、頭の中の騎士団長が少し肩をすくめた。
「要するに……精神をむき出しにして、歩くってことだもんな。おしゃれって。自分がなにをかっこいいと思うか、かわいいと思うか、ふさわしいと思っているか……」
騎士団長はひとまずおいて、店に並んでいる洋服の数々をぼんやり眺める。景虎の語彙では、タワマンのセレブとかが着てるヤツだな、としか表現できないレディース服の数々。
「ん~……ま、それもあるかな……ん~……え~……あ~……」
「…………なんだ? どうかしたか?」
「…………ん~……え~、あ~……そっかぁ~……」
「……サイズ、探してくるか?」
「いや、それは大丈夫なんだけど~……」
もごもごと歯切れ悪い言葉に続いて、ゆっくり、カーテンが開いた。
「…………どう?」
なんとも、微妙な顔をしたエリスがそこに立っている。
そして景虎は、上から下まで、彼女をランタンの明かりで照らし、遠慮なく、つむじからつま先まで、よくよく眺めた。
何よりもまず、オフショルダーが目を引くワンピースだった。
くすんだ、ベージュに近いピンクは少女過ぎることはなく、そしてむき出しの肩は、白く、薄く、華奢で、無造作に流れるエリスの黒いロングヘアがぱらりと重なり、何よりも女らしさを主張していた。袖はゆったりと、くしゅりとして、それが逆に、中の腕の細さを連想させる。
そしてぴったりと張り付いた胸元。
カシュクール、胸元の合わせ目がちょうど、胸の真ん中辺りに入っていて、大きな胸がさらに大きく見えた。しかも……大きく見えるだけではなく、ニットに包まれたそれは、見るからに丸く、柔らかく……暖かさを思わせる。オタク語彙で言えば、縦セーターのような編み。その上、ただでさえぴったりとしたニット素材は腰でしっかりと締め付けられていて、一抱えにできてしまいそうな細い、くびれた腰がくっきりと見てとれて、そして、そして……オタク語彙で言うところの乳袋が、しっかりできていた。値札が六桁なのを見てあきれていた景虎だったけれど、高いなりにちゃんとした、立体縫製的な作りをしているのかもしれない。
腰の下では、ゆるく張り出した腰骨と尻の丸みが少しでも体をねじるとすぐわかり、そんな艶めかしいシルエットを描くロングスカートは、美しい逆三角のシルエットを形作りつつ、膝の辺りでマーメイドのように拡がり、さながら舞踏会のような華美さと、王妃のような上品さを同時に醸し出していた。さきほど別の店で見つけた数十万するらしい、白いぺたんこの、ビジューで編んだような煌めくシューズと合わせるとさながら……なるほど、タワマンのセレブじみては、いた……。
…………顔を見なければ。
「…………なんか……池袋のショップに時々こういう人、いるよね……?」
と、半笑いのエリスが言い、景虎は吹き出してしまった。
「……だ、だな……っ……」
服装に、まったく、完全に、顔が合っていなかった。
かわいらしい、愛らしい、十七歳の少女。眼鏡をかけた、いかにも図書館が似合いそうな、清楚な顔立ちの、黒髪の乙女。
それが今の、景虎の目に映る白鷺エリスだ。そんな彼女と、タワマンセレブじみた、ともすれば、なにかの「嬢」じみたイイオンナ感特盛りのカシュクールニットワンピースは、まるで似合っていなかった。いや、似合っていない、というより……舞踏会のようなドレスを着て駅ナカをご機嫌で歩く女児、あるいは、七五三のスーツを着せられても普段通り乱暴にはしゃぐ男児、そんな微笑ましさしか、なかった。
「あ~……服装はバッキバキの地雷系とか、ゴスロリとかなのに……顔はなんつうか…………あ~……野良の……」
店前の公園が闇市じみた物々交換の場所となっている、池袋の大型アニメショップの記憶をたどりながら景虎が答える。頻繁に見るほどではないが、店内を一時間うろついていれば一人は見かけるタイプに、そっくりだった。顔と服の乖離がすさまじすぎて、顔か服のどちらかを盗んできたのか? と疑問になるほどの。
今のエリスはほぼノーメイク。高い化粧品とかあさってくれば? と、一応水を向けたこともあったのだが、化粧品も使用期限あるんだよ、と微妙な顔をして返された。さすがの景虎も、それはさっぱりわからない。とはいえ未開封なら数年単位でもつらしいが……それでもここ数日、彼女が化粧水、ファンデーション以上のことをしている場面は、見たことがない。
「やっぱ無理か~イイオンナは~あと十センチは背を伸ばして、化粧の技を磨かないと……」
へにょ、と見るからに肩をがっくりと落とすエリス。その表情がまた幼くて、服装にはまるで似合っていなくて、景虎はまた笑ってしまう。
「いや、まあ、でも、すげえよ、その……顔と合ってなさ過ぎて笑うけど……顔を隠せば……」
軽い気持ちで景虎は、ランタンを右手に、左手でエリスの顔を隠す。そして視界に飛び込んできた眺めの、あまりの衝撃に慌てて手をおろした。重めの石塊がついた鉄のぼうっきれで、ごいんっ、無造作に頭を殴られたような衝撃だった。
冗談にならなかった。
そこにいたのは……あったのは、グラビア写真でしか見たことがないような、あるいは、エロ動画のサムネイルの中にしか存在しないような、加工画像かAI画像でしかあり得ないような……完璧な、女体。
細く、白く、しなやかで、柔らかな、美しい女の体。
こいつ……なんで、こんな……と、生唾を飲み込むのを隠しながら景虎は、身のうちに湧き始めた黒い欲望を笑ってごまかした。友達をエロい目で見て気まずくなるのはゴメンだ。もう手遅れかもしれないが……それでも、その態度を貫くことに意味がある。そう思う。
「……いや、にしても……背が、なあ……う~ん……イイオンナ、にはあと五センチ、十センチ……ヒールとか、持ってくるか……?」
温泉を掘り当てた漫画的表現のように噴出した性欲を、腹の底に押しとどめながら、景虎は平静を装う。
いつも毎日欠かさずしていた自慰を、あのラブホテルで目覚めてから一度もしていない。景虎にとってそれは、エリスとの関係を良好にする上での努力で、うまくできてるぞ、などと思っていたのだけれど……こんなところでそれが、裏目に出るなんて。
「う~~~~ん……ヒール、はいてもな~……精一杯がんばってイイオンナをやってます、感が出ちゃうから……無雑作感が大事なんだよね~イイオンナには~」
「……道、だなもはや、イイオンナ道……」
「ま、いいや、諦めます~」
一方、鏡に映る自分に気をとられているエリスは、景虎の葛藤には気付かず、軽く言うと試着室に戻り、カーテンを閉めた。
景虎は中のエリスに聞こえないように深呼吸。頭の中にこびりつきそうになったイメージを、なんとか追い払う……が、できるわけがなかった。ニット越しの丸い膨らみ。まるで二次元じみた胸の袋。細くくびれた柔らかそうな腰、むき出しの華奢な肩、白い肌、体、女体、女の体、女の子の体、まるで、まるで……。
「な、なあ……なんでそんな……イイオンナ、的なのに憧れてんだ?」
黙り込んでいるとどうにかなってしまいそうだった。じわ、じわり、と理性に染みてくる性欲に、体を乗っ取られてしまいそうで、なんとかごまかそうと景虎は口を開く。
「なんだろ……えーと……あ、景虎はさ……なんていうか、こう…………トレンチコートにポークパイハット、サングラス、くわえたばこはいつもくしゃくしゃで、裏の道にも通じてて、警察からもマフィアからも一目置かれてる、皮肉ばっかり言ってる探偵、みたいなのに……憧れない?」
そう言われ、吹き出した。笑いで性欲も少し、吹き飛んでしまう。
「ああ……うん、うん、一瞬で、わかった、喫茶店かバーの二階の事務所にいて……三巻目ぐらいで五歳ぐらいの女の子が依頼人にやってくるやつな」
「鉄板~~っ! 好き~~~~っ! ……まあ、私にとってイイオンナは、そういう探偵とおんなじなの」
「なるほどねえ」
そしてすぐ試着室が開き、元のエリスが戻ってきた。幹線道路の作業用具店で調達した、スポーティな格好。だが、まだ景虎の中にこびりついている先ほどの映像が彼女に重なり、邪な空想がむくむくと広がりそうになってしまって、首をかくフリをして首を振る。
「お待たせ、ここはもういいかなー」
「え、あ、一着でいいの?」
「だって……何着たって、ほぼノーメイクだと合わないよ、この建物の中にあるような服は。今更化粧の勉強するのもめんどいし。まあわかってたけど……一回着てみたかったんだよね~」
エリスは軽く肩をすくめる。
「勉強なのか、化粧は……?」
「あはは、ほら、なんかSNSで見なかった? カードゲームのデッキなのさ、化粧品って。デッキ構築も、プレイングも、小一時間勉強しただけじゃどうにもなんないでしょ。それに私はそもそも、そのカードゲームやる気ないから」
「セレブごっこは難しいんだなあ」
「いや、まだ希望はあるよ! 男の人ならスーツ着ればどうにかなるから! 今度はあんたの服! ほら、メンズ何階だっけ!?」
と、エリスが景虎の腕をつかんだが……。
「…………いやでござる! スーツなんて着たくないでござる!」
オタクはござる言葉をしゃべる、という昭和のステレオタイプがどこから来たのか、どうやって生まれたのか、説をお持ちの方はゼヒ感想欄まで……