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13 オン・ザ・ロード・アゲイン

 五十キロに近かった熊肉をすべて処理すると、時刻はもうお昼過ぎ。近隣のカラスすべてが集まってきたのではないか、と思うほどの騒ぎ。エリスが無造作にぽいぽいと放り投げた内臓や端肉、骨に群がっている。彼女に言わせれば、埋めるより自然でいいじゃん、とのことだが……まあ、景虎にそれをどうこう言う気はなかった。オマエが埋めるの面倒臭いだけじゃ……? とは思ったが、思っただけで、コンビニの駐車場からカラスたちを見つめ、カセットコンロを囲んで昼食をとった。カラスたちは概ね、解体した熊の余りに満足しているようで、二人には近づいてこなかった。景虎は少し、ネズミが出てこないか心配になったが、どうせここにはもう来ない。すべての場所を使い捨てできて、いつでも失踪できるのはポストアポカリプスならではだな、などとふと思う。


 ポリ袋炊飯で米を炊き、エリスのすすめ通り、一口サイズに切った熊肉を湯がく。


 炸裂したバッテリーの化学物質が混ざったのかと思うほど多量のアクが出て少し驚いたが、その系統の悪臭はしなかった。純粋な獣肉、肉と脂の匂い。アクが少しおさまったら湯から上げ、丁寧に、市販の焼き肉のタレを塗り重ねながら焼く。タレの賞味期限は一年半だった。食品加工技術に万歳だ。


 焼きはなんでも強火が基本の景虎だが、初めて焼く肉ということもあって、少し慎重になっていた。噛み切りやすいよう、飾り包丁めいた切れ目も入れた。照りと香りが十分に出たら炊いた白飯の上に乗せ、脇に缶詰のアスパラを散らす。今回に関しては味見しない。ネタバレだ。多少失敗しても、その方が楽しい。調味料や缶詰は現地調達。飲み物は濃い目の麦茶を水筒に作ってある。


 そうして、二人して、コンビニの前、駐車場の縁石に並んで座り、丼を手にする。


「……いやマジでアンタ、ユーチューバーなったほうがいいよ……なんかほら、こういう、防災情報を専門にして、週に一回は料理動画をあげてさ」


 コンビニの奥に引っ込んで身繕いを済ませたエリスは、さっぱりした顔で、熊肉丼を両手でしっかりと持ち、見つめながら言った。血の染みついた服は脱ぎ捨て、作業用具店で見つけたスポーティな上下に着替えている。髪も少し洗ったらしい。わずかに濡れている。


 長い黒髪をアップでまとめているのは解体中と同じだったけれど、今は顔のサイドに一房の黒髪が垂れている。


 ……オタク臭い髪型、というか、二次元キャラの髪型だなあ、食事に邪魔じゃないのか……? あの顔の脇にたれてる髪に巫女っぽい謎の飾りがついてたらムカシのキャラになんかいるよな……と思ったけれど……それだけで別人のように印象が変わった。いつもと同じ眼鏡なのに……今はどうしてか、遙か年上のきれいなお姉さん、に見えて仕方がなかった。


 ちらちら、へそが見えそうで見えない、短めのタンクトップにピンクのラインが目立つグレーのジャージ上下。それから黒いキャップ。さながら、丸の内で働く有能なビジネスパーソンが休暇に趣味の皇居ランに励んでいるような格好だったが……似合っていた。適当に動きやすそうな服を選んだだけらしく、彼女自身も自分の服については何も言わなかったら、口には出せなかったけれど。


 それに……それに、今はそれと同じぐらい、重要なものがある。




 タレでてらつく熊肉が、とんかつ一切れ程度の大きさとなって丼の上に乗り、ほかほか、白飯と合わさり湯気を立てている。




 キャンプ用の、少し深さがあるだけの紙皿だったが、丼の上の景色はその侘しさを感じさせなかった。缶のアスパラの少し頼りない黄緑も、黒みがかった熊肉と合わさるとまるで、高級店の専門料理に見える。その道十数年の職人がしかめ面をしながら丁寧に菜箸で置いた瞬間が目に浮かんでくるようだった。


 焼き加減は我ながら、見事だった。


 ぺたぁん、と、十二切れ、白飯の上に並ぶ熊肉は見事に、タレをつけて焼いた肉独特の、焼き網で鍛えられた宝石とでも言うような、輝く(まだら)のダーク・ブラウン。人間の原始的本能に直接電極を刺して刺激するような色合いと艶めき。見ているだけで唾がわいてくるし……その香りときたら……ああその香りときたら! ここ数日、まずいわけでは決してなかったけれど、缶詰、レトルトの食品に慣れてしまっていた体が、全身で叫んでいる。


 肉だ、肉だ、新鮮な肉だ、食らえ、食らえ、食らいつくせ!


 見惚れていると思わず、崩壊後の世界でもユーチューバーになった方がいい、などと馬鹿なことさえ口にしてしまう、見事なできばえだった。


「もう結構いるよ、防災情報系ユーチューバーは。大体みんな非常食レビューをやるんだ……でもオマエ……非常時は熊を狩って食え、なんてどんな動画だっつうの」


 景虎は少々苦笑しながら答えた。もちろん二人とも、もう、すべてのユーチューバー、配信者はいなくなり、それどころかインターネット自体が廃墟となっているのは重々承知の上だったけれど……生まれた頃から慣れ親しんでいるメディアを、ないものとして考えるのにはまだ少し、時間が必要なようだった。それに少し、面白かった。もうそんなことはできない、ないと知りつつ、それをあるものとして話すのはまるで、演劇かコントだ。


「あはは、いいじゃん、オモシロ動画になるよ。もし震災の時に、動物園から逃げ出した動物に襲われたら……? って導入でさ……はい、ということで今回は、もしもの時に一番役立つ、動物園から逃げ出した動物の狩り方と食べ方をご紹介します! 本日はライオン丼……的な」

「どこ方面にどういう炎上の仕方をするかはわからんが、とても激しく燃えるだろう、とはわかるな」

「え~、そうかな~、珍しいお肉のグルメ動画として結構数字出るんじゃない?」


 そう言うと二人はくすくす笑い、そして、があがあと叫ぶカラスたちに負けない音量で言った。


「じゃ……いっただっきま~~~~っす!」

「はい、いただきます」


 があがあがあがあ~!


 二人の声に負けないほどの音量でまた、カラスが鳴いた。まるで二人の食卓を祝福しているか……あるいは、ずるいぞ俺たちにもよこせ、と言っているようだった。




 生まれて初めて熊肉を食べた景虎は……こんなの、カラスなんかに、一ミリたりともやるもんか、と思った。




 ぱさつきを一切感じさせないマットな肉質。まるで原始の味。


 肉が持っている、肉そのものの、肉の味。歯がその肉に触れた瞬間、脊髄が思う。これは肉で、肉を食うのはいいことで、だから我々はこうしてここまできたのだ、と。数ミリ程度、肉の端、スカートの端を彩るフリルのように残して切った脂身は、しゅ、と口の中であっさり溶ける。初体験の食感だった。肉の脂のくせに、バターのように溶けていく。そして肉を覆い、まろやかにする。顔に入れ墨の入った小太りの大男が真夏日に無言のまま鈍器で殴ってくるような、ともすれば乱暴すぎる、強すぎる、直接的過ぎる肉の味に、ふわり、脂の甘みが混ざる。見かけ通り天女の羽衣じみた脂の甘みはさながら、原始時代、大物を仕留めた勇者たちを祝して歌い踊る、巫女のしなやかさ、華やかさ、艶めかしさ、そんなイメージを景虎に抱かせた。軽やかで、甘い脂。都市生活をしていたとはいえ、野生動物だからこその味なのかもしれない。


 だがしかし、味は確実に現代。


 ジャンキーで、濃くて、喉の渇く、醤油ベースな、にんにくたっぷりのタレの味。


 景虎はぎゅう、と目をつぶり、タレを堪能する。その味を選んだ自分を褒めたたえたい気持ちでいっぱいになる。食べたことない種類の肉だからシンプルな味付けで……などと、気取った調理をしなくてよかった、と心の底から安堵する。


 焼き肉のタレはドラッグだ。


 ともすれば安っぽい、濃くて臭いだけの、どろりとした市販の焼き肉のタレ。しかし熱を通し、この熊肉と合わさるとさながら、ちょんまげの男たちが通りを闊歩していた時代から脈々と受け継がれてきた秘伝のタレに思えてしまう。


 これ以上、炊きたての白いご飯に合うものがあるだろうか?

 そしてこれ以上に、ご飯をかっ込むのが気持ちのいい味は?


 自問しながらわし、わし、がしゅ、がしゅ、大口を開けて熊肉丼をかっこむ。快楽だ、これは快楽の料理だ……そんなことを思いながら。エリスにしてもそれは同じで、二人は夢中でむさぼった。


 通りを挟んだ向こうではカラスたちがまだ熊の残骸をむさぼっていたが、それに負けない勢いだった。いや、それ以上だったかもしれない。カラスたちが漏らすがあがあ、という耳障りな声も今は、二人が漏らす、はふ、はむっ、むしゅっ、がしゅっ、という、丼をかきこむ時にだけしかしない音に混じり、饗宴を彩る音楽となっていた。


「ふんむっ……うまっ、これっ、あ、まじっ、うまっ……!」


 まるで思い出したかのようにエリスが時折漏らす言葉も、その音楽に混じる。味の濃い熊肉と、さらに味の濃い、わずかに焦げの混じる焼き肉のタレの味。あまりの味の強さに口の中がもったりとして、少し、箸が止まりそうになる。だがそうすると、丼の端のアスパラが輝いて見える。入院中の病弱な少年のように頼りない見た目のアスパラは、しかし、タレの混ざった米と肉が占領している口の中に、野菜だけが持つ清涼の風を吹かせる。まるで真夏日にたどりついたコンビニの、自動ドアを開けた瞬間体を包む冷気のよう。


 唇も歯も舌も、まるで飽きない。それどころか頬の内側の肉、喉の食道の手前、そんな部分でさえ、食事の快楽を味わっているかに思えた。いや、食道も、そして胃も、悦びに悶えている。


 ……いや、いや、体中だ。


 体中の細胞一つ一つが、歓喜の声をあげている。細胞の一つ一つが原始部族の男女となって、仕留めた獲物を巨大なかがり火の中にたたき込み、踊り狂い、焼けたそばから肉をむしり取り、食らっている。そうしてまた、踊り狂っている。グルメ漫画でもあまりお目にかかれないようなイメージが景虎を覆う。


「っ……んっ……んむっ……」


 あまりに勢いよくかき込みすぎて、そして熊肉が強すぎて、喉につっかえそうになったところで、水筒で口を洗い流す。ぬるい麦茶にもみくちゃにされながら、口の中の米と肉が胃の中に落ちていく感触さえ、快い。渋さすら感じる濃いめの麦茶は、強すぎる味にぴったりだった。


 二人が丼をきれいさっぱり片付けるまで、十五分、いや、十分もかからなかっただろう。唇を脂でてらつかせ、端に少し米粒をつけながら、二人は顔を見合わせた。


「う……うんまぁ……なにこれうまぁ……」


 熊肉を食べ慣れていたエリスでさえ、驚愕する味だった。


 彼女にとって熊肉は、まあおいしいけど、でも一回おじいちゃんにつれてってもらった高い焼き肉屋さんの方がおいしかったな、程度。けれどこれは……これは違う。全然、違う。


「え……熊肉って……え、こういう味じゃ、ないの?」


 景虎が言うとエリスはぷるぷる、首を振った。


「い、いや……なんか普通、もっと……大味っていうか……なんか、雑な味がしたと、思ったけど……」

「…………あ、そうか……人間の食い物食ってるツキノワは、うまいんだろ。生ゴミとか畑とかあさりに来るような。こいつは……この一年、ずっと、人間の食い物ばっか、食ってたわけだ……」


 山から下りてきた熊が、コンビニにのそりと入り、棚の食べ物をむしゃむしゃやっているところを想像すると、少し、頬が緩んだ。


「はぁ~……なに食ってたんだこいつ……熊が店に入って食べられそうなものって……」

「さあなあ……ポテチばりばり食ってたのかね……あ、マヨのチューブとかかもな。動物がゴミ捨て場あさると大抵マヨ系からいくだろ」

「ええ~? じゃこいつマヨラーの熊だったってこと?」

「かもな、油と卵と酢と……栄養満点じゃねえか。木の実食ってるよりうまくなるんじゃねえか?」

「は~……食べ物って、重要なんだねえ~……あ、じゃあ、それで怪我してたのかな、こいつ……」

「それで、って?」

「自然の中ってさ、直線ないじゃん。道路、コンクリみたいな直線。だから野生の動物ってさ、慣れるまでは道路とか、街中で暮らすのマジへったくそなの。猫でも……犬でも、ぴょんぴょん行けるような場所でも、普通に転んだりしてちょっとオモロい」

「……あ~……なるほど。でもそれで、足鈍くなるぐらいの怪我すんの? 野生動物が怪我してるイメージってないけど」

「そりゃ怪我した個体ってすぐ死ぬからね。食われたり餓死したり。けど……山の土の上ならしないような怪我も、アスファルトとかコンクリの上じゃ、しちゃうんじゃないかなぁ。それでも、街中にこんなに食料あふれてて、熊ぐらいガタイが強かったら、頂点でしょ、それで一年生き延びられた」

「なるほど……」

「ん~~~……にしても、うンまかったぁ……!」

「くそ……痩せたことがマジで悔やまれる……いつもなら後二杯はイケるのに……」

「あはは、いいじゃん、しばらくはこの熊肉がメニューに加わるわけでしょ、いひひっ! 干し肉、ちょーーーー楽しみっっ!」

「いや……こんな量やったことなんてねえし、どれぐらい持つか、わからんぜ、大抵パックの肉で、多くて一キロ程度だったから」

「まあそれで全然オッケーじゃん? なくてもアンタ、マジ料理うまいし、えへへ、あんがとね、ごちそーさまでしたっ!」


 少し照れながら、けれどはっきり、笑みを浮かべてエリスが言った。


 それを見ていた景虎の頭の中で。


 音がした、気がした。


 ぱちり、だとか、かちり、だとか……どこかでなにかのスイッチが入る音。あるいは、どこかでなにかが、ブロックおもちゃのように、ぴったり、はまりこむ音。


「お……おう、お……オマエこそ、その、あんがとな、あ、だから……そ、の……熊、相手……あ……いや、だから、そういう、の……」


 自分の中で何が起こったかわからなくて、まるで、インターネットの悪人たちがオーバーに再現する、挙動不審なオタクのマネじみた口調になってしまう景虎。


「え……ちょ、あ、え、な、なんで今、て、照れたん?」


 景虎の顔が赤くなっているのを見て、エリスの顔も赤くなる。


「……い、いや……オマエがなんか、そんな素直だと調子狂うっての」

「え……え~、いつも素直じゃん私~、あはは、え、髪上げたら美少女過ぎてキョドっちゃった?」


 どこからともなく湧いた正体不明の恥ずかしさを吹き飛ばすかのように、エリスはけらけら、笑いながら言う。けれど、笑うと、また、景虎の中で、音がした。ぱちり、かちり。一体全体その音がなんなのか、わからないまま彼女を見つめてしまう。そうすると、


 宙をひらひら、ふわふわと舞うその髪を見ていると、景虎は何を言ったらいいかわからなくなった。


 重たげな長い黒髪に隠れ、いつもはっきりとは見えない首筋。


 その細さ、その白さ。意識していないと視線が吸い付いていってしまう。かといって視線をそらそうとすれば……耳元のわずかな後れ毛が、風にふわふわと遊ばれているのがわかる。


「……その、か、髪型……」

「……あ、や……やっぱ……な、なんか……ヘン……だった……?」


 小学生のように、似合ってねーよブース、と言うか、はたまたいかにもな色男キャラのように、キミにお似合いだねハニー、と言うか、迷う。しかし一気に不安げな顔になったエリスが、まるで命綱をつかむように顔の脇に垂らしたサイドヘアを両手でつかむと、ぐっ、と胸がつかえた。


「い、いや、ヘンじゃないけど……その、一瞬、びびった。あ……いや、なんか、別人に、見えて……」

「うぁ……や、やっぱ、ヘン…………だよ、ね……あ、あはははは、いいでしょ、憧れてたの、この、垂らすヤツ! ほらほら、陽キャがよくやってるこういうの!」


 瞳が潤み、それでも、どこかふざけている態を崩さず、つかんだサイドヘアーをちょびひげのようにして、ついでに顔を隠すエリス。


「あ、いや、い、いや! へ、ヘンじゃ、ねえよ、別に……その……だから……」

「じゃ、じゃあ、あはは、やっぱ、美少女過ぎてビビってるんでしょ」

「そ、あ、ちがっ……いや、だから、美少女ではねえって」

「あ、あはは、し、知ってるよ、もう、ボケただけだよ」

「い、いや、だから、美少女ってより、美女だから…………」


 景虎が何気なく、当たり前のように言った言葉がエリスの中に染み入ると。




 ぼんっ!




 と音が聞こえそうなほど激しく、エリスの顔が真っ赤になった。それを見た景虎は、一体全体ここまでの会話のどこにそんな要素が……? と謎になったけれど、数秒後、それに気づいて、ぼんっっ! と彼の顔も真っ赤に染まった。


「…………ぁ……ぁはははっ……ふふっ、そ、そうだよ、そういうコンセプト、し、仕事のできる(しごでき)美女上司……?」


 真っ赤な顔をくしゃくしゃにして、少し瞳を潤ませ、肩で息をしながら、それでもおふざけの仮面をかぶりつつ、エリスが答える。




 今、針でつつかれたらきっと、中でぱんぱんになっている恥ずかしさが吹き出して空を飛んで、月も飛び越して、太陽に突き刺さって燃え尽きてしまう。エリスはそんなことを思った。




 髪型を変えたのは……別に、深い意味のあったことでは、なかった。熊の解体に合わないものはいろいろあるけれど、ロングヘアはそのトップだ。だからまとめて……そして解体を終え、コンビニの化粧室で汚れを落としているとき、鏡を見て、ふと、気づいた。


 今なら誰にも、なにも、言われない。


 艶めく長い黒髪に憧れて風呂上がりに髪をケアしていても「髪だけやってもどうにもなるわけないじゃんね」と、wが見えそうな口調で言ってくる叔母はいないし、街中で好きなワンピースを着ているのを見られて「白鷺さんって私服そんな感じなんだね~~」と、これまたwが見えそうな口調で言ってくるクラスメイトもいない。


 …………それでも、景虎はいるけど……。


 鏡を見つめながら、少し、息をのんだ。


 ……まあ、あいつなら、別に、何を言われてもいいし……いや……そもそもあいつ、私が髪型を変えたとしても……気付かないんじゃない? あり得る、けど……なら、ますます……。


 と数分葛藤したあげくの、サイドヘアーだった。たかだか数百本にも満たないだろう一房の髪の毛を、顔の脇に垂らすだけなのに……長期連載のコミックス四十巻超が詰まった箱をベッドの下に片付けるより、苦労した。




 この世の中でおしゃれより恥ずかしいことってあるんだろうか?

 



 鏡を見ながら自問を繰り返し……やがて、大きく息をついた。今さっき熊を轢き殺して解体してた女が何を言ってるんだろう? ざざっ、と手早く髪をセットして、どうせ気づかない、と決め込んで外に出た。




 そして今。




「あ、いや、だから……あ、いや、ちがっ……違わない、けど、あ、だから、あ……ま、まあ、たしかに、そんな……しごでき女上司感、あ、あるな……」


 どんなに悪意あるものまねでもここまでしないだろう、というほどに、挙動不審でコミュ障のオタクと化した景虎。それを見ながらエリスは少し、笑った。嘘がつけない……というか、気をつかって嘘をつく、とか、そういう機能が、景虎についていないことは知っている。


「あは、あはは、でしょ~。ほ……ほ~れほれ」


 ぺちり、ぺちり。


 ふりふりと頭を振り、サイドヘアーをしならせ鞭のようにして景虎の顔にぺちぺちと当てた。胸の半ばまである長い髪はよくしなり、景虎の顔にまとわりつく。こうでもしていないと、叫んで、飛び上がって、あさっての方向に向かって走り出してしまいそうだった。


 けれどそれは、景虎も一緒だった。


 ……どうして、どうして、どうして。

 こんないい匂いを振りまいて、どうしようってんだ?

 甘くて、爽やかで、包まれそうで、狂いそうな香りをさせて、俺をどうしようっていうんだこいつは? 発狂させたいのか? 爆発させたいのか? 殺したいのか? なんなんだ?


「んがっ、や、やめっ……んっ、んぐっ……むっ……ふんぐっ……」

「……ちょ、ま、あ、あんたなんで息、止めて……あ、ごめっ、くさっ、くさか、った……っ……?」

「ちがっっっ!!!!」

「ぴゃっっっ!!!!」


 至近距離で怒鳴られ思わず体がすくみ妙な声が出る。

 が、景虎は真剣な顔になって、真剣な挙動不審になった。


「ごめっ、ちがっ、あっ、いやっ、ごめん、だから、ちがう、ちがう、だ、だから……あ、え、ぅ……」

「ふぁ、え、あ……」


 いつの間にかエリスは、がっしり、景虎に肩をつかまれていた。その力強い感触に、ただでさえばくんばくんと言っていた心臓がさらに、跳ね上がる。喉の奥から飛び出てきそうなほどに。なのに……景虎ときたら、まるで見たことがないような真剣な顔。さながら、実は自分は余命六ヶ月なんだ、と告白するような……あるいは……小学生の頃からずっと好きでした、とでも告白するような。エリスは景虎のそんな顔を見て、一瞬、あっけにとられた。こいつのことなら大抵はなんでも知ってる、と思ってたのに……こんな、こんな真面目な顔ができるなんてまるで、知らなかった。


「ど、怒鳴って、ごめん、で、でも、その、だから、臭くない、その、あ、だから、な、なんか、いい匂い、だから、いい匂い、あの、だから、シャンプーの、あの、女の子の……」

「あ……う……う、ん……あ、え、か、景虎……」

「あっっ! いやっ、ごめんっ、すまんっ……その、本当に、ごめん、あ、いや、だから、臭くないって、いい匂い、って言い、たくて……」


 景虎がはじかれたように手を放し、輪をかけて挙動不審になる。まるで迷子になったことをようやく実感して、今にも泣き出しそうな子どもの顔。そこでようやく、エリスは思い出す。




 (くさ)い、という言葉がどうしてか、景虎には禁句だったことを。




 ……まあ、大体、想像は、つくけどさ……。




 内心で、ため息をつく。理由を尋ねる気にもならない。


 自分が、おしゃれをすると想像しただけで羞恥で身もだえしてそのまま火がついて焼死してしまいそうなのと同じく、景虎は、誰かに臭いと言われる、誰かに臭いという、そういうのを恐れている。ポストアポカリプスだというのにお風呂に入れだの歯を磨けだの小うるさいのも、半分はそれが原因だろう。それは……それはきっと……。


 今度は大きく、実際に、ため息をつく。




 ばかみたいな理由だ、きっと。


 私とおんなじ。




 大体、想像はつく。自分で自分をキモオタ陰キャくん、などと言うような高校生が、小学校、中学校でどんな生活を送ってきたか。どんな言葉をかけられてきたか。何をされてきたか。それでどう思ってきたか。


 それは私が中学の時、トイレでご飯を食べながら思ってたことと、きっと、全然、変わらないだろう。


 そう思うと、どうしてか、胸の奥がきゅうぅん、と、きしんだような気がした。切なくて、いてもたってもいられなくって、でも、どうしていいかわからなくて。それで、こてん、と彼の肩に、頭をあずけた。


「あなっ、なっ……なんっ、だよ、急、に……」


 もはや、命を脅かされているような声になった景虎の顔は見ず……肩に頭を預け、うりうりとひねくりながら答える。


「……臭くないんでしょ、いい匂いなんでしょ……」

「ぁ……ぅ……………………う、ん……」

「じゃあ……ぃ……いい、じゃん……ほ、ほら、たんのー、しなよ……」

「ぁ、な、なにを……」

「はすはすくんかくんかしたらいいじゃない!」

「……ぉ、オマエ、なあ、そういう……一番キモいこと言えたヤツが優勝、みたいな、じ、自分を……ぉ……オモシロだと思ってる糞寒いオタクのノリを、現実に、ぃ、やるようなのは……」

「……言いながら自分で傷つくなら言うなばーか」

「……っ……それ、は……」

「も~……いいから……」

「い……いいから、って」

「だから……いい、から」


 だから、少しの間そのままでいた。


 景虎は、どうして自分がこんな状況に追い込まれてしまったのかわからないまま、エリスの頭の重さを感じながら、その場に固まったままでいた。預けられた他人の、女の子の頭の重さは、なんだか泣いてしまいそうで、それなのにどうしてか、胸が破裂してしまいそうで、まったく、わけがわからなかった。


 エリスは、どうして自分がこんなことをしているのか、わかっている気がしたけれど……言葉には、できなかった。なにやら名台詞っぽいことはいくらでも思いついたけれど……それはしたくなかった。でもどうしても思うのは、きっとこの場の正解は彼を抱きしめることだったんじゃないか、ということ……だったけれど、そんなことを思っている自分に少し、びっくりした。


「……………………な、なんだ、これ……?」


 やがて数分、ひょっとしたら数十分。

 景虎がぼそり、呟き、エリスはくすり、笑った。


「……なんだろね、あは、わかんないや」


 そう言うと頭を離し、景虎を見た。顔はすっかり落ち着いていて、顔色も戻っている。少しまだ、頬が朱色だったけれど。


 ……うん、やっぱり、景虎だ。


 エリスは思って、また笑った。痩せようがどうなろうが、こいつは景虎だ。世界唯一の、人生でただ一人の、気兼ねなく、なんでも話せる相手。背中を預けられて、一緒の方向に向かって歩いて行ける相手。




 ……だから……まあ……なんか…………カッコよくなってるのは、だから、関係ない、ない……ない、と思うけど…………なく、なくても、いい……の、かなあ……?




「な……なんだよ……」

「なんでも…………さ、食休み終了! 行こ行こ!」


 そう言って大げさに肩を伸ばし、丼のごみやらなにやらを片付け、車に向かった。景虎は少しの間、まだまごついていたけれど、やがて諦めたのか息を吐き、エリスに習って車に向かった。


 二人はフロントグリルのへこんだ電気自動車に荷物を積み込み、当初の目的である車用品店に向かう。


 コントロールパネルを見れば、車のバッテリー残量は半分ほど。作動した後のエアバッグの処理はわからなさすぎて結局、切って捨てるしかなかった。一応、まだ車自体は動くが……熊を一頭、かなりの速度で轢いた、ハイテクの塊の電気自動車がいつ止まってしまうかはわからない。そんな状況にも関わらず、二人はどこか、浮かれていた。なにか、腹の中に風船が入っていて、それでふわふわ、宙に浮いているような、そんな気分だった。




「……私ら、うまくやってるよね」


 今度は慎重に、安全運転で幹線道路を走り始めたエリスがぽつり、呟いた。景虎は無人の道路を眺めつつ頷き、答える。


「……俺とオマエなら、やれるさ、なんでも」


 かっこつけて、ふざけて言ったつもりだった。

 けれど……帰ってきたのは満足げな声。


「ん」


 おいおいツッコミ待ちだったんだよ、と言おうとしたけれど……彼女の満足げな横顔を見ると、その言葉は引っ込んで、しばらく、無言でいた。




 生まれて初めて、沈黙が苦にならなかった。

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