10 (ネタバレ)二人は華麗に熊を退治する part.01
「ななななななんでぇっっっ!?」
「ししししししるかぁぁぁぁッ!」
「ヴゥゥゥゥゥ!」
熊、だった。
見間違えようもなく熊だった。
六車線の幹線道路を東京、品川方面に向けて走っていた二人。アジトから数キロ走ると路肩のトラック、開け放たれた荷台から、のそり、どさり、熊があらわれ、吠えたのだ。
つぶらな瞳は愛らしく、丸い耳はどこか間抜けで、少し太く見える顔はなんとも愛嬌に満ちていて、よく知る種類の四足獣とはまるで違った体つきはどこか奇妙で、好奇心をそそられたけれど。
口元は赤黒く血に染まり、凶暴な牙を剥きだしに唸り、どすどす、鈍重そうな体つきにはまるで似合わないスピードで、二人に迫ってくる。たしかに、熊だった。体長百四十センチ程度と、メディアで見るような熊と比べれば少し小柄。しかしその胴、手足の太さは確実に、のしかかられたら貪られる、と対峙する者に容易に想像させる。いや、のしかかられなかったとしても……クロスバイクを全力で漕ぐ十七歳を追いかけられるスピードの、体重百キロは超えていそうな巨体に体当たりされただけで、致命傷を負うだろう。そこで死ねれば御の字、後は、後は……生きながら、喰われる。
「なんで、なんでなんで……っ!? オスのツキノワて!?」
エリスが半泣きになりながら叫ぶ。
「ちょ、ま……クマ、熊って……」
景虎の頭に、ネットで聞きかじった熊知識が高速でスクロールしていく。
曰く、熊が全力を出すと車と併走できる。基本は雑食だが一度人の肉を覚えると人間を襲うようになる。縄張りの中に入った相手には容赦しない…………。
…………え、じゃあ、詰みじゃん。
耳元で風が鳴るごうごうという音を感じながら、ペダルを全力で回しながら、体中の筋肉がぼうぼうと燃えるような熱を帯びながら、しかし、景虎の血の気が引いていく。
立ちこぎする自分の背中に熊が飛びかかり、首をかじられ、ぶちり、ぼろり、ごとごろり。自分の頭がアスファルトに落ちるところを想像してしまい、首を振る。六車線の幹線道路のど真ん中では到底聞こえるはずもない、どっすどっすどっすどっすぶふぉ、ヴフォぉ、ぐっふぅ、というなまなましい音に声。景虎は思う。
ああ。
熊て。
死因、熊て。
あーあ。
くそ。
だが。
「か……景、虎っっ……!」
エリスが叫び、背後の熊に首を向ける。
「こい、つ……怪我、してる……っ! 逃げ、きれる……っ!」
がしゅがしゅがしゅがしゅ、全力でペダルを回しながら、エリスの言葉に、はっとする景虎。背後を振り向いてみると……たしかに、そうだった。
五メートル程度の距離を開け、つかず離れず自分たちを追ってくる熊は……なぜか、左足を引きずるように、かばうように走っている。頭の中にこの熊がトラバサミにかかっているシーンが浮かんだが、すぐに首を振る。こんな街中にトラバサミを仕掛けている人間がいたとしたら熊より怖い。しかも今。けれどそんなこと考えているヒマはない。
「この……まま……走り、続け、られれば……っっ! どっか、建物で、まければ……!」
幸い幹線道路は当分一直線、障害物は見えない。だがうまいこと熊をまけそうな建物も見当たらない。ということはつまり、この熊も気の済むまで自分たちを追ってくるだろう、ということだが……エリスの心に少し、余裕が生まれる。
こんなの、ピンチの内に入らない。
小学校四年生の頃、学校からの帰り道、熊と出くわしたことがある。山道の草むらからのそり、体長一メートルにも満たない熊があらわれ、じっとこちらを見つめてきた。瞬時、祖父から言われていたことが頭の中に蘇り、その通り行動した。
『いいか。ケダモノも人間と同じだ。つまり……』
ナメられたら、殺される。
「……ぁぁぁああああああああああああッッ!」
エリスは、叫ぶ。
あの時、熊よけスプレーを携帯していなかったらきっと、こちらの出方をうかがっているような熊の顔面に向けてそれを放てなかったらきっと、自分は今ここにはいない。猪だろうが、熊だろうが、猿の群れだろうが、怖いものか。たかだか、体をずたずたにされるだけだ。トーキョーから来たギャクタイされてたカワイソーでハイリョがヒツヨーな子として、雑巾を飾り立てられるようなことばかりされる教室と比べ、なにが怖いというのか。
絶滅寸前で、かわいそうで、保護しなきゃいけない野生動物さんなんかに、人間が負けるわけない。熊相手に使えそうなものなんて今は何も持っていないけれど、たとえ素手で相対することになったとしたって、ケダモノなんかに自分をナメさせない。絶対、絶対に。くそ、最初に逃げちゃったのがまずかった、銃砲店がどこかにあったら……いやなくても絶対、ぶっ殺してやる! ぶっ殺して、切り刻んで、解体して、百グラム八百八十円で楽天限定山のジジイ印のジビエマーケットのクール便にして売りさばいてやる!
「……ッ……だ…………ダメ、そう、だぜ……ッ」
だが、鬨の声じみたエリスとは真逆の、今にも事切れそうな景虎の声がした。
「だ、ダメっ、て、な……っ!?」
「五分……持つか、どうかも…………あやしい、ぜ……」
全力疾走を始めてまだ数分だったけれど……すでに、景虎の体は汗まみれ、顔はさながら、腹に銃弾を受けたかのよう。エリスは湧き出るアドレナリン、痩せて軽くなった体、そして小さな頃に鍛えられた体力でもって後一時間は走っていられる余裕があったが、驚きに顔を歪めた。
「なっ、なんでよ!?」
ぜーはーと肩で息をする景虎は、ともすれば今にも、倒れてしまいそうだった。唇が紫だ。
「お、オマエと、一緒にすんなっ……こちとら、運動、なんて……っ」
「バッ、バカッ! 捕まったら、絶対、死ぬよっ! し、しかも、あの、あの、あの、くっ、熊に、喰われて、しぬ、って、たぶ、たぶんっ、いちばん、いたいしっ、ひどいよっ!」
「あっ、あしが、なえるよーな、こと……っっ!」
「あーもーっっ! と、とにかく漕いで! 逃げ切れるっ! 絶対! 縄張りだって思ってるところから逃げられれば、それ以上は……っ!」
追ってこないはず……だが。
「ヴゥゥゥォゥ! ヴァフっ、がっふっっ!」
そもそも熊が、こんな都市部にいるはずがない。山の熊の常識が通じるかどうかもわからない。この一年の間、人間がいないのをいいことに山から下りてきて、あさりやすいエサをあさるうち、流れ流れてこんな場所にまで来たのだろうが……東京近郊の山に熊がいたというのか? いや、それとも横浜、川崎方面からわざわざ橋を渡って来たというのか? 距離を考えれば後者の方があり得そうだけれど……どちらにせよ、なんにせよ。
このままじゃ、景虎が、死ぬ。
「くそっ……くそっ、くそっ……」
景虎は自分を呪った。
いくら痩せようが、体に筋肉がついたわけではなかった。体力が備わったわけでもなかった。細マッチョ体型に見えたのも、単に贅肉が落ちただけだった。
小学校の五十メートル走は十一秒ちょうど。サッカーボールも野球のボールも魔法のように顔や股間に吸い込まれていく。逆上がりを練習すれば乳歯が三本折れ抜ける。水泳の授業で溺死しかける。縄跳びをすれば体中にミミズ腫れ。
嘲笑。
憫笑。
冷笑。
自嘲してすり切れていく自尊心。
運動が苦手、というよりもはや、体を操縦するのが不慣れ、人間初心者、とでも言うべき運動センスのなさと、それに付随する体力のなさは相変わらずだった。これがゲームなら、ドロップアイテムの厳選作業を延々と続けられる妙な根気があるし、何より彼はスポーツは嫌いだけど運動はそこまで嫌いではない、という性質。一人延々と穴を掘り続けるような作業をやれば、彼もそれなりに持久力を発揮するのだが……自転車の全力疾走を死ぬ気で続ける、のような無酸素運動と有酸素運動の融合は、そもそも彼には向いていない。
体育の授業の数々が、景虎の頭をよぎっていく。体育教師のクソみたいな言葉と、クラスメイトのクソを見るような視線の数々も。
「くっ、そっ……!」
背後に迫る熊の圧力は、圧倒的だった。脚がペダルを回す、回す、回す。しかし、徐々に徐々に、エリスとの距離は開いていき、熊との距離が狭まっていく。
「景虎ぁッ!」
エリスが泣きそうな顔をする。そんな顔を見ても、泣きたいのはこっちだ、としか思えない。遠くなっていく彼女の声と比例するように、大きくなる熊の声。ヴァッフ、ヴォフ、とでもいうような、低く響き、轟き、内臓を揺らす、大型動物の声。理性を消し飛ばし、原始的恐怖で体を縛り付ける声。
クソが……!
なにか、なにかないか……持ってきた荷物……ライター、ガスボンベ、コンロ……くそっ、スプレー缶、でもありゃ……きかねえかそんなの……ああくそ、アメリカならきっと、ボンベを熊に銜えさせて、そこをマグナムで……ああくそ、だめだ、脚が、だめだ、足が熱い、千切れる、痛い、肺が、痛い、はじけそうだ、きっと穴が開いてる、くそ、なんだってんだ、なんでこんな、世界が滅びてまで、体育の授業みてえなど根性……くそ、くそくそくそくそッ! 文明人なんだぞこっちは! エアコンの効いた部屋で、バリバリ電気使って! キンキンに冷やしたレモネード飲みながらピザポテバリバリ喰ってPCで……! 電気を……! じゃぶじゃぶ……!
まるで走馬灯のように、快適だった暮らしの記憶が高速で巡る。いかにも死亡フラグの立ったキャラのようになった自分がバカみたいで、首を振り、ぶるぶると唇を鳴らして息を吐き、漕ぐ、漕ぐ、漕ぐ。
ああくそ、電気、電気……電気……発電……電気……。
酸素の足りない脳みそは徐々に思考を曖昧にし、意味のあることが考えられなくなっていく。
今にも、死ぬ。
熊の爪が背中にかかり、服も皮膚も肉も骨もぐちゃぐちゃに引き裂かれ、死ぬ。死ぬ。俺は、死ぬ。体力がなかったせいで、運動音痴のデブだった罪で死ぬ、熊に喰われて死ぬ……!
「景虎っ、景虎ぁぁっ! やだっ、やだよっ! だ、だめっ、やだっ、おねがいっ、景虎ぁぁぁぁっっっ!」
悲鳴に近くなっていくエリスの叫びさえ、まるで数キロ先から聞こえてくるようだった。
電気……電気……電気……電気ッ……電気ッッ!
空転を続ける景虎の脳が、視界の情報と結びつき、しかし、一つの可能性にたどり着いた。
これは自転車配達の自転車。
ならば、当然。
そして、路肩に止まった車。
その一群の中に。
それがあった。
景虎の記憶が確かなら。
アレ、なら。
アレなら。
賭けるだけの、価値は。
「ヴォッフ、ヴゥゥフ、グゥウッッ!」
熊が顔を突き出し、回転を続ける景虎の自転車、後輪に食いつこうとして空を切り、がちんっ、と音を立てる。
へろへろになった腕が、自転車のフレームにつけられているバッグをあさる。はずみで自転車が揺らめき、一瞬転びかけ、しかし、持ち直し、熊は獲物が弱ったと思ったのか、自転車の斜め後ろに張り付く。もはやよろよろ、ゆるゆる、としか動かなくなった景虎の右足を狙い、大口を開ける。
どうせ……外れんだろうけど、な……。
熊の大口めがけ、自転車バッグから取り出したモバイルバッテリーを勢いよく投げ込んだ。
がぎゃりごぎゃんんっっっ!
熊が顎をかみ合わせるコンマ数秒前。
バッテリーは熊の口の中に飛び込み。
プラスチックの外壁を鋭利な歯が突き破り、中に仕掛けられた燃焼・爆発防止のキャパシタをぐちゃぐちゃにかき回し、セパレーターをぶち破り、釘を突き刺す過酷な動作試験の数十倍の衝撃を与えられ、そして。
炸裂した。
同時、バランスを失った景虎は盛大に自転車を倒し、数メートル、車道の上をごろごろと転がった。