交錯する時間
2
「いらっしゃいませ」
店員の声に片手を挙げてこたえ、レジの横を抜けて直樹はバックヤードへの扉を押した。
一歩バックヤードに入ると、帰宅せずに寝入っている父親が視界に入ってきた。バックヤードには三畳ほどのスペースがあり、父親はそこでよく仮眠をとるのだ。
直樹は近くにある毛布を幸男かける。倒れているように、うつぶせで眠っている父親から視線を外せない。
直樹は大学卒業後、しばらく一人暮らしもしてみたが、家賃もかかり特に干渉もしない両親から離れて暮らすメリットも感じられずに、実家暮らしに戻った。
それからちょうど今月末で半年ほど経つ。一浪はしたが、大学に入り無難に四年で卒業し、実家はコンビニ経営。特に不自由はしていないが、自慢できることなど今の自分には何もない。
そんな“良いのは居心地だけ”という境遇が、個々へ着て自分を追い込むようになっていることを知った。
子どもの頃から馴染んできたバックヤードの入口が、自分に思い何かを訴えてくるようになるとも思ってもみなかった。
潮が満ちてくるように、いつの間にか目に見えない何かが自分に押し寄せて来ている。
今はコンビニになっているこの店は、もともと祖父が始めた酒屋だった。後にそこを改修し父がコンビニを始めた。地元客の多かった酒屋を改装したのは、すべて父幸男の意向だったと聞いている。
二十年勤めた会社を辞し、実家の稼業を継ぐことを決めていた幸男は七十歳になって力仕事がきつくなった祖父真吾に強引にそれを迫ったらしいのだ。重い品物を運ぶ仕事も減り、商品管理とレジ打ちで安心して飯が食えると。
しかし、いざコンビニのスーパーバイザーが来ると高齢者はコンビニのイメージにそぐわないという理由で、祖父が店に出ることは許されなくなった。
幸男は抗ったが、本社と店舗との力関係のもとでは、空しい抵抗に終った。生き甲斐だった仕事を失った真吾の老いはそれ以降加速し、間もなく認知症を患い五年経たずに他界した。
幸男がコンビニを始めて十五年が経つが、その間フランチャイズの本社が他の会社に買収され、コンビニの看板も変わった。
高齢者も働く場を与えられる時代に移り、六十歳を過ぎた幸男もレジに立ち続けているが、コンビニの乱立するのも時代の流れで、同じように働いても売り上げは右肩下がりだ。
最近は学生もコンビニでのバイトを嫌いアルバイトが以前のようには使えない。その分増えたのが外国人留学生。
店の物をよくくすねていく日本人の大学生に比べて、勤勉でよく働くが日本語も覚えたてのため仕事を教えるのも一苦労だと幸男が溢す。
幸男の愚痴も時代とともに変わってきた。心配して時折直樹がコンビニに顔を出すと、狭い畳の上に横たわっている父を見ていた。
思えば、ずっとこの場所は世の中の変化を写すスクリーンでもあったのかも知れない。ここを訪れ去っていった人々にとっては、必ずしも暖かいだけの場所ではなかったのだ。
これまでは傍観してきた現実を、自ら経験しているのが今の自分だと直樹は思った。父親のいいさ、いいさというやさしい言葉に甘えてここまで来た。
ここ最近父親の後を継ぐべきか思案している自分がいるのも事実だ。同時に、そんな知れている日常に自分の未来をはめ込んでしまうのは、自分に申し訳ないような何だかおかしな心地がして落ち着かない。
それに加えコンビニ経営が先行き明るくもないことは既に見えている。しかし、そんな家業を見限って他の仕事を選ぶことが、不義理な息子のすることのような気もするのである。
そんなことも、全部含めて口実だ。そう奥住に言われたのだ。奥住の言葉に自分の内側が共鳴していたのには自分でも驚いた。
寝息をたてる幸男の横に腰を下ろしてた。子どもの頃、この場所は店と外の合間にある土間のような場所だった。
夕方近所から男たちが集まってきて店先で一杯やっている。おぼつかない記憶の景色の中で、男たちの息吹だけは生々しく思い出せた。
喧騒の中に笑顔があり、子どもが聴いてはいけないような卑猥な話があり、近所の噂話があり、小さな喧嘩もあった。
その男たちは皆幼い直樹をかわいがってくれた。いつも店先で交わされる歓談は気だるく自堕落な空気を周囲に漂わせ、そこに流れる時間が直樹には甘くすら感じた。
夏の夕方にアスファルトから立ち昇る生暖かい上気に温められるのは体だけではなかった。夏の盛りの夕方、シャワーの様に降ってきた夕立に頭を濡らして小学校から帰った直樹。
それに付き合うように外に出て一緒に濡れて騒いだ男のことが胸からせりあがるように蘇える。
頭も髭にも半分くらい白いものを混じっていた男は、普段口数が少なく、酒屋の丸い机の空いている席を見つけて座っているような控えめな男だった。
あの男はどこへ行ってしまったのだろう。確か名前も知っていたはずだが、思い出せなかった。体の奥から押し寄せてくる眠気に抗えず直樹は幸男の傍らに自分の体を横たえた。
つづく