アスファルトの温もり
1
「オガちゃんは、いや、オガちゃんっていうか、世代だなこりゃ。おれらと価値観が全然ちがうっていうかさ」
ドヤ顔がお面の様に張り付いた奥住の目が据わり始めているのは、少し前から気づいていた。
呂律がまわらなくなり、長い話を始めた奥住は要注意なのだ。
「なにがっすか?」
「いまさ、たしかオガちゃんは親に恩返しするっていったけどさ、俺らの世代は親に恩がえしするなんてことを言う前にさ、とにかく親に迷惑をかけないってことを先に考えたわけだけど、そのためにあれこれと選ばず贅沢言わず定職に就いたわけ。今の人は違うよね。『自分が生かせる仕事』とかさ『仕事で自己実現』とかさ。まず、大きくてキラキラ光った自分が中心にあってさ、それから親とか、仕事が小さく周りにあるって構図じゃなーい。一人前になる前に恩返しなんて大きなこと絶対言えなかったけどな、おれらの世代は」
奥住は唇についた白い泡を舐めながら口角を上げて笑った。細くなった目から、射るような視線を直樹に向けている。
「ジブン、何も言えないっす・・・・・・」
「いや・・・・・・だからさ、オガちゃんを責めてるとか、そんなんじゃ全然ないのよ。何だろうね、これは時代が違うんだなあって、今の若い人と話してるとそう感じる。ご両親は心配してるんじゃないの? お父さんは教員?」
「いえ、コンビニ経営してます」
「へえ、経営者、すごいじゃん」
奥住の感嘆が、わざとらしく思えて直樹は辟易した。今のは、おじさんのはなしだよ。気にするな。と言い、直樹にレモンサワーの追加を聞いた。直樹が断ると、継ぐ言葉が見つからず、奥住は自分の空のジョッキ持ち上げて「ハイボール」と店の奥に言った。
直樹は酔いに任せて、膝を抱え、背中は壁につけた。熱のこもった背中には心地よいひんやりした硬い壁だ。その感覚にふと、思い出される光景に自分を委ねてみる。
一人の中年の男が小学生の直樹の前に立っている。酔って赤ら顔の男は、よく日に焼けていて肌に皴が深く刻まれている。口元や目尻にはよりくっきりと。太い眉の下の目尻は下がり、笑うと自然と細くなる目。無精ひげにも伸びた丸刈りの頭髪にも白髪が目立つ。夕方、直樹と男は路地でサッカーボールを蹴りあっている。
「気にすんなって」
右側から瓶ビールを勧める手が伸びてきた。直樹の視線は、その白くて細い手に引きつけられる。柏木だ。さっきから、奥住が直樹に絡んでいるのを黙って聞いていて不憫に思ったのだろう。直樹をいたわる言葉をかけた。
「わたし、おがちゃんのこと買ってるんだぞ」直樹も柏木にビールを注ぐ。自分の何を買っているのか、続く言葉を聞きたくなかった。柏木の言葉を上の空で聞き流す。今はただ、ひりひりと痛み出しそうな感傷を体の奥の方で抱えておきたい。誰にも悟られずに。直樹はコップに次がれたビールを飲み干した。ぬるくなったビールは胃に滑り落ちていき、柏木の話も店の喧騒のどこかに呑みこまれていった。
お好み焼き屋での一次会が終わり、皆は二軒目に行くようだったが、直樹は誘いを断った。執拗に誘う奥住を周りが収めた。
一人線路に沿って東西に伸びる駅前の通りをぶらぶらと歩く。点々と続く街灯に照らされた丸く白い地面がぽつぽつと遠くまで続いている。南からのぬるくて湿った風が、潮の臭いを孕んでいる。その風が砂浜を思わせたに直樹に靴を脱がせた。アスファルトの熱が歩くたびに、靴下越しに足裏からじわりじわりと腹の下まで伝わってくる。
「一人前になる前に恩返しなんて大きなこと絶対言えなかったけどな」。「おがちゃんのこと買ってるんだぞ」。
奥住と柏木の顔が交互に浮かんでくる。白い灯りが柏木の白い手を思い出させた。悪酔いしたなと呟いて、直樹は電柱にもたれてしゃがみこんだ。
悪戯めいた馬鹿らしいことを一人でしてみたいようなおかしな誘惑に駆られ、直樹は「よいしょっ」とつぶやいて、その場に仰向けになった。
目をつぶる。視界が暗くなると、にわかに今まで嗅がなかったにおいを感じた。土の臭いや草のにおい、微かにすえた臭いがどこからか漂っててきて、直樹の胸を満たした。両手を胸の上に載せ、列車が通っていく音を聞く。
轟音とともに頭を揺らす振動がなぜか心地よかった。列車が行過ぎると、歩道の上を自転車が通り過ぎていった。何か言い捨てていったが、直樹は聞き取れなかった。しばらくたって目を閉じたままゆっくり四つん這いになった。鼓動は変わらず激しく体を打っている。
目を開くと街灯に照らされた地面に、店で品出しをしている父親の背中が浮かぶ。
つづく