打ち上げ後雨、所により……
文化祭が終わり、迎えた次の日。
休日に開催された振り替えとして、今日は学校が休みとなっている。平日にもかかわらず、制服に袖を通していない朝に少し違和感を覚える。
それでも、頭では理解している僕は、目が醒めてもベットから動けないでいた。
体が動かない。…というと、大袈裟に聞こえるけど、実際は抜け切らなかった疲労と全てが終わったことによる虚脱感から気力を失っているだけ。
思い返してみれば、あっという間に過ぎ去った文化祭に、僕はまだ囚われていた。
嵌められて始まった文化祭を、いつの間にか僕は楽しんでいたのかもしれない。彼女を助け、助けられ、振り回され、手を取った。
そんな文化祭の記憶に、またしても最初から最後まで彼女がいる。どこを思い返しても彼女がいる。楽しそうに笑う姿、揶揄うように手を引く姿、逆に手を引かれて驚いている姿。色々な彼女が僕の記憶にある。
そんなことを思い返していれば、文化祭の日々のように、いつの間にか時間が過ぎていた。二度目に見た時計の針は、十一時を示していた。
これ以上は休み明けの生活リズムを考えるとマズイと思い、ようやく体を起こす。
そんな自堕落な僕の背中を叩くように、家のインターホンが来客を知らせる。
こんな時間…というほど早くはないが、平日に一体誰が訪ねてくるのか。宗教の勧誘かもしれないと、確固たる意志で追い返そうと思っていたが、来客を映す画面にはもっと厄介な人物が映っていた。
……
「お邪魔しまーす!」
「お邪魔します」
エレベーターで地上とはおさらばして、上がってきた家の玄関を抜けたのは二人。神原さんと小野さんだ。
二人揃ってリビングへと通すものの、インターホン越しでは碌にここへ来た理由を聞いていないので、全く状況を理解できていない。
「へぇ~、本当に一人暮らししてるんだ。それに、意外と片づいてる」
「そうなんだよね。私たちより生活力あるよ、きっと」
「でしょうね。私たち二人を足しても負けると思う」
「で、二人はどうして僕を訪ねてきたの?」
食い入るように部屋を見回す二人、神原さんは前に一度見たはずだけど。そんな物珍しいものを見るように立っている二人に座るように促しがてら、僕は自分の目覚まし用と二人の来客用にコーヒーを淹れようとキッチンに立ちながら、二人の会話を遮るように質問をする。ほぼ寝起きの今は、自分の持つ疑問の解消と眠気覚まし、そのことで頭がいっぱいになっている。
あっという間にお湯が沸く電気ケトルのおかげで、三人分のコーヒーはすぐに出来上がった。お湯を注ぐだけで完成するインスタントコーヒーだが、今のところ特に拘りもないのでこれで充分だ。
「ありがとう、いただきます」
「…………ねぇ、砂糖とミルクはないの?」
「春留にブラックは早いか~」
「もう!二人は飲めるからって、私まで飲めるようにはならないよ!」
目の前に置かれたカップに、唯一口を付けられない神原さんは砂糖とミルクを要求してくる。といっても、僕も飲めるようになったのはつい最近だけど。やむを得ず、購入せざるを得なかった文化祭のあの日以降、僕はブラックコーヒーが飲めるようになった。この苦みは、朝の目覚ましにはもってこいでもある。
「牛乳ならあるけど」
「じゃあ、それ頂戴!」
「はいはい」
冷蔵庫に残っていた牛乳を加えることで、やっと彼女も飲むことができた。ただ、やっぱりまだ少し苦かったのか、顔をしかめてはいた。
「それで?そろそろ、家を訪ねてきた理由を教えてもらっていいかな」
「それはね~……なんと!打ち上げをします!」
「打ち上げ?」
「そう!」
昨日の今日で打ち上げといえば、何のことかくらいは察しが付く。事実、彼女たちは来るまでは僕もそのことを考えていた。
「場所は?まさか、ここでやるなんて言わないよね?」
「私はここでもよかったんだけど、打ち上げのメンバーはもう一人いるからね」
「そういえば、そのもう一人には連絡ついたの?まだなら、放っておいて三人でよくない?」
「えーっとね……あ、今起きたみたい。来るってさ」
「そのもう一人、察しはつくけど教えてもらっていい?」
「坂下くん」
予想通りの人物だ。打ち上げと聞いて飛び起きる姿が想像できる。というか、打ち上げ自体は構わないけど、僕の家でやる可能性があったのか。家主に確認の一つもないまま話が進んでいたなんて、恐ろしくて寒気がしてくる。未だ湯気を立てるコーヒーカップに両手を擦り合わせる。
「ねぇ、大崎くん」
「なに?」
「大崎くんの部屋着ってそんな感じなの?」
「いや、これは寝間着」
「いつ起きたの?」
「ついさっきだね」
「もう十一時回ってるけど」
神原さんは呆れたように、僕の今の恰好を見ている。言いたいことは分かる。でも、いきなり何の連絡もなしに家を訪ねてきた人に言われたくはない。事前に連絡の一つでもあれば、僕は早く起きていただろうし、人が来る前に着替えてもいた。今、人前でこんな格好をしているのは、突然の訪問が原因だ。
「じゃあ、僕は着替えてくるよ。どうせ、僕もその打ち上げには連れてかれるんだろうし」
「人聞きの悪い言い方しないでよ。あ、そうだ!場所、どこがいいかな?何か希望はある?」
「……、着替えてる時にでも考えるよ」
「うん、後で聞くね。……大崎くん」
着替えるため、一旦部屋に戻ろうとしたところで呼び止められる。まだ、何か聞きたいことでもあるのか。と、思い足を止めると…
「なに?」
「覗いたりしないから安心してね?」
「………」
笑顔で一体何を言っているのか。僕は何も言えず、部屋に戻った。念のため、部屋の鍵を閉めてから着替え始めた。
……
マンションを出て向かったのは、学校近くのファミレス。
着替えた後、場所というよりは食べる物の候補をいくつか出した結果、ファミレスに決まった。学生でも手が出しやすい値段で、品数も多ければ、席も広い。ファミレスが最強ということらしい。
先に着いた僕たちがメニューを…というより、神原さんと小野さんが眺めていると、遅れてやって来た坂下も合流し、打ち上げは始まった。
「文化祭、お疲れ様!かんぱーい!」
「「かんぱーい!」」
ドリンクバーで注いできた飲み物を掲げ、神原さんが音頭をとる。それに合わせて、他二人も大いに盛り上がる。
一方の僕は、そんな空気には着いていけず、グラス片手に乾杯の声を聞き流すので精いっぱいだ。
「大崎!ノリ悪くないかぁ?まさか寝起きじゃーねぇだろうなぁ?」
「坂下ほどじゃない」
「とか言って、私たちが家に来る直前に起きたって言ってたじゃん」
「んだよ、俺と変わんねぇのか。……ん?どういうことだ、大崎!今の口ぶり、まさか神原たちが家に来たのか!?」
これが寝起きで出せるテンションなのか。うざいくらいに…というより、うざい絡みをしてくる。
小野さんは知っているけど、この坂下は神原さんが僕の家に来たことがあるのを知らないらしい。ついでに、その理由も僕が料理をできることも知らないのだろう。
「来た来た。今朝もこの前も」
「お前…、いつか学校の男子連中に後ろから刺されても知らないからな…」
こんなことで刺されるなんて堪ったものじゃない。そんなことをするくらいなら、自分も彼女たちを家に呼べばいい。それが可能なのかは知らないけど。
「ほらほら、そんなこと言ってないで。頼んだ料理が届いたよ」
テーブルの上に、次々と出来上がった料理が運ばれてくる。さっきまで空いていたテーブルは、瞬く間に皿で埋め尽くされた。いくら四人いて、食べ盛りの高校生だとしても、些か頼み過ぎな気がする。それほどまでに頼んだ料理の数は多い。彼女たちに任せっきりにしてしまったのが、この惨状の結果といえる。
目の前に並ぶ料理たちに不安を覚えながら、少し早い昼食も兼ねて打ち上げは行われた。
……
運ばれてきた料理を(主に僕と坂下が)食べながら、文化祭について振り返ったり、僕の知らないところで起こった出来事、多くの人が参加した後夜祭でのこと、実に様々な話が飛び交った。数えきれないほど多くのことが、あの二日間にはあった。
その中でも、特に印象的なのは僕自身の行動だ。
後夜祭のあの時、どうして僕は彼女の元へと走ったのか。未だに、その疑問に答えは出ていない。今こうして彼女の話を聞いても、疑問は疑問のままあり続ける。
そんな燻っている僕とは違い、達成感に満ちた打ち上げは終わりを迎える。坂下が最後の一口を口に運ぶと、最初に音頭をとった神原さんから、お開きの提案がされた。
これは僕の勝手な想像だったのだが、神原さんや小野さんはこういう時には夜まで遊び尽くすのだと思っていた。でも、膨れる腹は抱えて歩く坂下と、それを従える小野さんとはファミレスを出たタイミングで別れた。
残ったのは、燻った考えを引き摺る僕と、まだまだ元気が有り余っていそうな神原さんの二人。離れていく二人を見送った後、彼女は二人とは逆の方向へと歩き出す。
手招きしながら先を歩く彼女に、僕は大人しく従う。これからどこかへ行く気なのか、それとも素直に帰るのかは分からないけど、何も言わずについていくことにする。
「ちょっと歩こっか」
隣に並んだ僕に、彼女はそう語り掛けた。
……
「はい、これ」
公園のベンチに腰掛けて待っていた神原さんに、買って来た飲み物を渡す。
「ありがとう」
二人と別れたファミレス前を離れ、大通りの喧騒から逸した街並みをほとんど会話もなく歩いた。しばらく歩いた後、踏み入れた公園にて、移動販売をしている店を見つけ、そこで一息つくことになった。
視界の高さ一面に緑が立ち並ぶ公園には、平日の昼下がりという時間帯も相まって、ほとんど人がいない。車が行き交うような大きい道路が近くにないことも、それに拍車をかけている。
微かに吹く風の音と、隣に座る彼女の話し声だけが僕の耳に届く。
「これ、いくらだった?」
「いいよ、今回は僕の奢りってことで」
「ふふ、ありがとう。そう言ってくれると思ってたよ」
「なるほどね、僕はまんまと嵌められたわけだ」
「人聞きが悪いな~?君のことを信じてたんだよ」
悪戯っぽく笑う彼女の笑顔を最後に、僕たちの会話は一旦区切られる。
それでも、お喋りな彼女はすぐに口が動き始める。渡した飲み物を一口飲んだ後に。
「このジュース美味しいけど、これでちゃんと儲かってるのかな?」
「決して安売りはしてなかったから、それなりに利益は出てるんじゃない?」
「いや~、でもさ?この人のいない公園で売っても、買ってくれる人いるかな?」
「少なくとも、ここに二人はいるね」
「あ、確かに!私たちみたいな人向けってことかぁ」
もう一口飲むと、彼女はそれと僕をベンチに置き去りにして、立ち上がる。空を見上げながら、くるくると回る彼女は何かを感じ取っているように見えた。
「ねぇねぇ、雨の匂いがしない?」
「雨の匂い?」
「うん。雨の匂い、雨が降る前の匂い」
今の空は、快晴…とはいかないものの、僕たちの真上の空は青を塗りたくった色をして、光が差し込んでいる。遠くに暗い雲が見えるけど、この周囲に雨が降るようには見えない。
それでもと思い、ひくひくと鼻を動かしてみる。でも、僕の鼻が悪いのか、雨の匂いは分からない。漂うのは、手元からの甘い匂いだけ。
すると、彼女の言った通り、パラパラと小さな雨粒が落ちてくる。つられて空を見上げていた僕の顔に当たったそれは、次第に数を増やしていく。
「本当に降ってきた。神原さん、屋根のあるところに行こう」
「あ、私のも持ってって」
僕にも分かるくらいに雨の匂いが濃くなってくる。それはつまり、落ちてくる雨粒の量も増えるということ。
僕は買ってきた時と同じように、両手に二つの飲み物を持って、近くの東屋に避難する。
「神原さん、だいじょう…ぶ…?」
振り返って、後ろにいる彼女を確認しようとしたが、僕の目に入ってきたのは、全く予想だにしない別の光景だった。
「あはは!雨だー!本当に雨降って来たー!晴れてるのに降ってる!」
彼女はただ一人、広がった公園で雨に打たれながら笑っていた。
それほど強くない雨足とはいえ、小雨程度というわけでもない。傘も差さずにいる彼女は、疾うに服も体も濡れてしまっている。
それでも、彼女は降り続く雨を楽しむように笑っている。
そんな異様ともとれる光景を前に、僕はただただ魅入ることしかできなかった。雨に晒される彼女はどうしてか、とても神秘的なものに見えた。
彼女の頬を伝う雫を、降り注ぐ雨粒を、その全てを輝かせるように彼女は笑う。周囲の全てを巻き込み、彼女は煌めく。天気雨の空から降り注ぐ光は、彼女を照らすためだけに存在している。今はただ、彼女だけを照らす光になっていた。
僕の見える世界の中心、そこで彼女は踊り、輝いていた。誰よりも、そして唯一。降り続く雨音も手伝って、周囲の音はさらに数を減らしていく。聞こえるのは、自分の息遣いと体の中心から響く鼓動、僕たちを隔絶する雨音、滴る雨をも凌駕するほどに美しい彼女が発する笑い声、ただそれだけ。
まるで、終末世界を見ているようだった。僕たち以外の生物は死に絶え、壊れた世界を二人だけで生きている、そんな感覚。僕に届く音の少なさ、彼女の声、それらが僕にあり得ない光景を見せる。
でも、そんな光景は名残惜しくも終わりを迎える。
僕の脳裏に別世界を映した通り雨は、僕の気なんか知らずにさっさとどこかへ行ってしまった。過ぎ去ってしまえば、あれはただの通り雨だった、そんな気になる。
雨の止んだ空を眺める彼女の頬からは、一筋の光る雫が伝っていた。僕はそれを、もしかしたら彼女も同じことを考えていたのかもしれない、とあり得ない解釈をしてしまう。本当にあり得ない。あの別世界は、僕の頭を過った妄想でしかないのだから。
涙にも見えたそれを彼女が拭うと、今更になって東屋の下へと駆けこんでくる。
「いや~、濡れちゃった濡れちゃった~。早く拭かないと風邪引いちゃうよ~」
そうは言いつつも、彼女はどこか楽しそうだ。泣いているように見えたあの横顔も、僕と同じことを考えたのではないかということも、やはり勘違いだったのかもしれない。
「気休め程度にしかならないと思うけど、これ。ハンカチ使って」
「おぉ!ありがとう。でも、大丈夫。自分の持ってるから」
僕同様、彼女もポケットからハンカチを取り出して、濡れた頭や衣服を拭いていく。でも、拭いたそばから、ハンカチは水を吸収して重くなっていく。当然、彼女の身体も服も全く乾いてはいない。
「それにしても、大崎くんってハンカチも持ってるし、料理も出来る。かなり女子力高いね」
「そうかな。料理はともかく、ハンカチは誰でも持ってると思うけど」
「いやいや、持ってない人多いよ?」
「でも、神原さんだって持ってる。その…綺麗な刺繍の入ったハンカチ」
「おお!この刺繍に目をつけるとは…大崎くん、お目が高いね!」
目についたハンカチの刺繍を指摘すると、自慢げに神原さんはハンカチを広げる。
「これはね、お母さんが刺繍してくれたの。すごいでしょ!すごいよね!?」
「確かにすごいね。手作りとは思えない出来だよ」
「そうでしょう!そうでしょう!」
何故か、刺繍した本人ではない彼女が鼻高々としている。
「これ、私のお気に入りなんだ!とっっっても大切なもの!」
「それは充分伝わってるよ」
自分のことではないのに、彼女はとても嬉しそうにはにかむ。見ているこっちにまで、その気持ちが伝播するくらいに。
すると、やはりと言うべきか、彼女は身体を震わせたかと思うと、盛大にくしゃみをした。いくらハンカチで拭こうとも、濡れた分全てを取り除くことはできない。
本格的に冬が近づいているこの季節に、濡れ鼠のままでは風邪を引きかねない。濡れた頭と衣服は、容赦なく彼女の体温を奪っている。となれば、ここでとる行動は一つ。
「神原さん、その服着替えた方がいいんじゃない?」
「でもでも、着替えなんて持ってないよ?」
「それなら、ちょうどいい所にちょうどいい店があるよ」
「え…?」
……
雨に濡れた神原さんを伴い、僕は公園近くにある古着屋へと入った。これだけ所狭しと並んだ衣服があれば、彼女に合うサイズのものは確実にあるはず。
ただ、着替えるだけでは問題は解決できない。濡れた衣服は交換できても、体はまだ濡れている。そのままでは、着替えてもこの季節の寒さの方が勝ってしまう。
そう思い、近くのコンビニまで走ろうかと思ったが、事情を察した店の人がタオルを差し出してくれて、僕は余分に体力を使わずに済んだ。彼女も、早いとこ寒さから逃れることが出来た。この厚意に、僕は売上という形で恩を返そうと思う。
「ねぇ、本当にこれ着るの?」
だが、一方の更衣室に籠った彼女は、中から不服そうな声を上げる。カーテンで仕切られているため彼女の表情は見えないが、その声色から眉尻が下がっているのは分かる。
「文句言ってる余裕なんてないんじゃない?そもそも、服選びを僕に任せたのは神原さんの方だから」
「そうだけど~…。でも、これは…子供っぽいっというか…何というか…」
「もう支払いは済ませて、値札も取ってある。今更、返品はお断りだよ」
「むぅ~…」
どうしても不満らしい彼女は、最後の最後まで渋っていた。でも、それ以外の選択肢はないので、その嫌そうな表情を隠そうともせずに、僕の選んだ服に着替え、彼女は更衣室から出てくる。いつかの、小野さんと二人で着せ替え人形にさせられた時とは、立場が逆になっている。
「笑いたければ笑えばいいよ」
カーテンを開いた先には、頬を膨らませ、ご立腹な神原さんがいた。今まで見たことのない彼女の表情に、少し吹き出してしまう。
そう、彼女の新たな一面に笑ったのであって、決して彼女の恰好に笑ったわけではない。決して違う、うん…違うとも。
「あー!本当に笑うなんて!ひどいよ、大崎くん!私をこんなにも辱めておいて…」
「いや、笑ってない。笑ってないよ」
「本当に…?」
「本当に。大丈夫、似合ってるよ、そのオーバーオール……くくっ…」
「笑ってるじゃん!もう!最低最悪!大崎くんなんて嫌い嫌い!」
彼女の元気さに拍車をかける、少し子供っぽく見えるオーバーオール。決して似合っていないわけではない、むしろ着こなしているものの、どうしても面白さが勝ってしまう。
いつまでも吹き出してしまう僕に、彼女は店を出てもなお大変ご立腹な様子だった。
……
「今日はありがとう。素直に言う気にはなれないけど!」
無事に着替え終わった後、オーバーオール姿の彼女と並んで帰路に着く。所々に出来ている小さな水溜まりを避けながら、彼女の家を目指す。
空一面は晴れ模様。雲一つないこの空なら、少なくとももう一度降られることはなさそうだ。
キラキラと太陽の光を反射する水溜まりを、彼女は八つ当たりのように蹴り飛ばしている。
「どういたしまして。大丈夫、変な恰好じゃないから」
「君がこんな人だとは思ってなかったよ。ほんと、いい性格してる」
「ちょっとした出来心だよ。もうしない」
「二度目はないよ!あったとしても君には任せない!」
ぷりぷりと先を歩く彼女からは、どうしても僕を許さないという強い意思を感じる。
「あ、そういえば服代。また今度返すよ」
「いや、いいよ。それほど高くもなかったし、迷惑料も込みってことで」
「……わかった。じゃあ、それで許してあげる」
ついつい出てきた遊び心も、彼女の寛大な心により一応の許しを得られた。彼女の心の広さに感謝しないと。
「今度は、君の方が付き合ってもらうから」
「……それは勘弁してほしいかな」
やり返してやる、そんな気持ちが透けて見える。このままでは僕まで、何やら面白い恰好をさせられてしまう。近く、高跳びの準備をした方がいいかもしれない。少なくとも、雨具の用意は忘れずに。
……
文化祭が終わり、生徒全員が浮かれて踊り狂ってしまう振り替え休日が終わり、通常の授業が再開される日。たった一日とはいえ、特別感のある休みが終わった翌日の学校は、敷地内に瘴気でもばら撒かれたかのように、沈んだ空気で満たされていた。
それもそうだろう。大盛況だった文化祭が終わって、その余韻が抜けないままに授業を受けなければならないのだから。
そんな空気を察しているであろう先生たちだが、その職務を全うすべく、いつも通りに教鞭を執る。
そんな重苦しさが蔓延るクラスの状況を僕は好ましく受けとっていた。
というのも、普段浮ついている空気がない今は、なににも邪魔をされることなく授業を受けられる。ここしばらくは、文化祭関係で疎かになっていた勉強。今のクラスの雰囲気であれば、それを取り戻せるというもの。
できる限りこの状況が続くことを願いながら、ノートにペンを走らせた。
……
「私のクラスもすごかったよ。皆して、どよ~んってした空気になってた。まぁ、文化祭が名残惜しいのは分かるけどね」
「その割には元気そうだけど」
一日の授業が全て終わり、いつものように図書室で向かい合うや否や、彼女は勉強ではなく世間話から始めた。そんな彼女の話に相槌を打ちながら、先に来ていた僕は今もノートに文字を羅列している。
「私は満足してるから。とっても楽しい文化祭になったよ。君は?ちゃんと楽しめた?」
「不本意ながら。神原さんに振り回されたおかげで今までにない文化祭になったよ」
「振り回されるのが好きなの?」
「そうは言ってない。神原さんのおかげで楽しめたってこと」
僕に弄ばれて喜ぶ趣味はない。そんなアブノーマルな癖はなく至って普通、なはず。
「そっか~、楽しんでくれたんだ~。……えへ、えへへ」
「……」
僕が自分の癖について考えている間に、彼女はどうしてか、その整った顔の造形が歪むくらいに口角が上がっていた。かつて、見たことないほどに上がっている。
僕の視線に気がついて、必死に口元を隠しているが全く意味を成していない。口元を隠した程度では、今の彼女の表情はどうにもできない。
「うぅ…、あんまり見ないで…。ニヤニヤが止まらないの…」
「いや、なんで?そんな嬉しがるようなこと言ったかな?」
「そりゃあねぇ?君が……って、あぁ、ダメダメ。また口角上がっちゃう」
再び上昇を始めた口角を押さえ込もうと、頬をぐるぐると捏ねている。それでも、やはりと言うべきか、何も隠すことも誤魔化すことも出来ていない。
「あぁ~もう、こういう時は勉強勉強!図書室にいるんだから勉強しなきゃね」
「普段はお喋りなくせに…。まあでも、学期末テストも近づいてきたから、やる気にならないとね」
「え…、テスト?」
「あるでしょ、十二月に」
「それは知ってるよ。でもでも、まだ一ヶ月近くあるよ?」
「むしろ、一ヶ月しかないと言っていい。今日からは、みっちり勉強してもらうから」
「えぇー、もうちょっと気楽にやろうよー」
「しない」
僕の宣言を聞いて、バタバタと駄々をこねる彼女だったが、今日のところは大人しく教科書と向かい合うのだった。
──今日のところは。
……
そんな、彼女にとっては勉強漬けな日々が一週間近く続いた、ある週の中頃。
「大崎、あれ…いいの?」
「あれ?」
放課後になってすぐ、小野さんが近づいてきたと思ったら、廊下を指差す。
その方向を見ると、なんとも滑稽な姿が視界に映る。
「何してるんだろ?」
「たぶん、あんたから逃げようとしてるんじゃない?昨日、勉強したくないって愚痴ってたから」
「なるほど」
だとしたら、本当に滑稽だ。逃げようとしていることもだが、何よりその姿。腰を屈めて姿勢を低くしているが、却って目立っている。明らかに、学校でする動きでないため不審だ。周囲の人たちも、何事かとどよめいている。そんな様子に、当の本人は気づいていないらしい。
「今日も勉強するの?」
「そのつもりだよ。このまま逃げられなければ」
「そっか。じゃあ、春留のことよろしくね~」
何をよろしくされたのかは分からないけど、小野さんはそれだけ言うと教室に残っているクラスメートの元へと去っていった。
さてと、僕もそろそろ行こう。今からとても苦労するであろう捕獲作戦をしなくちゃいけない。効率的に捕獲するために何か餌のようなものがほしいけど、一体何を用意すればいいのか。
「……教科書で釣れたりしないかな」
万が一にもあり得ない可能性を考えてしまった。
……
結局、力ずくで捕まえ、そのまま図書室へと連行した。
僕を見つけた瞬間に神原さんは何やら察したのか、どうにかして逃げようとも、暴れることもなく、大人しく連れられた。
ほとんど死んだ目をしているあたり、もう諦めてしまっているのかもしれない。現に、連れてきたものの気力の気の字もないので、全く勉強は進んでいない。
捕まえるための餌を考えていたけど、やはりご褒美としての餌を考えるべきかもしれない。このままでは、彼女が廃人になってしまう。
「神原さん、神原さんってば。聞こえてる?」
「もう…むり…。べんきょう…いや……」
「それは分かった。でも、今日だけでも頑張ろう。そうすればご褒美をあげる」
「ごほうび…?」
「うん。あげる気はなかったけど、神原さんがこの状態じゃあ仕方ないかなって。僕の出来る範囲でならなんでもいいよ。無茶なものでもない限りは」
「じゃあ、クリスマスにデートしたーい!」
「なんでクリスマス?なんでデート?」
まだ十一月も上旬。些か、気が早すぎないだろうか。クリスマスなんて、冬休みに入ってからだというのに。それに、デートってなんだ。そんなものがご褒美になるのか。
「クリスマスはそういうイベントでしょうが!」
「約束するには早くない?」
「早くないよ!あと一ヶ月しかないんだよ!?」
この前のテストの時とは、まるで反応が真逆だ。彼女にとって、テストよりもクリスマスの方が大事らしい。その証拠に、さっきまで死んでいた目が一瞬の内に生気に満ちている。嘘だったかのような変わり様だ。
「で、いいの?いいよね!?」
「僕はいいけど、神原さんこそいいの?こんな形のご褒美で。しかも、僕なんかと一緒なんて」
「なんかじゃないよ!私はそうしたいから言ったの!」
いつもの、暖かさ溢れる瞳が僕を捉える。その瞳の放つ彼女の意図が理解できない。本当に僕なんかが相手でいいのだろうか。そう考えるマイナスな思考を、彼女の言葉が搔っ攫っていく。きれいさっぱり、何の不安も残さずに。
「わかった。じゃあ、予定は空けておくよ」
「ぃぃやった!絶対、絶対だからね?」
「もちろん、約束は守るよ。だから、神原さんも頑張ろうか?」
「あー……」
下を差す僕の指を目で追って、みるみる顔から血の気が引いていく。輝いていた瞳も、しおしおと光を失っていく。
「明日から本気出すってことじゃ、ダメ?」
「ダメ。少しくらいはやろう」
「あぁ~、大崎くんが鬼の目をしてるよぉ~」
今にも泣きだしそうな顔をしているが、ご褒美の存在を仄めかせば渋々シャーペンを握った。
クリスマスよりも先に、こうして準備をしている学期末テストが来るが、僕は少しだけやる気に満ちていた。
彼女が僕に見せてくれる初めての景色。それを、心のどこかで楽しみにしている僕がいるようだ。