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私たちだけの文化祭(その五)


 閉じる瞼を貫通するほどの強烈な眩しさを感じて目を開ける。途端に、より目を眩ませる光に再び目を閉じる。三度、ゆっくりと瞼を動かすと、沈みかけた夕日が赤々と街並みを染めている様が目に映る。


 半ばはっきりしない意識のまま、真っ赤なそれへと手を伸ばす。同じ夕焼け色に染まる伸ばした手を見て、気づく。視界に広がる校舎やグラウンドのフェンス、その先に見える建物も全てが九十度角度を変えていた。いつの間にか、僕は横向きに寝転んでいた。


「あ、起きた?おはよう、大崎(おおさき)くん」


 また、耳に届く。微睡みの中でも聞いた心地の良い声が。


神原(かんばら)…さん?」


 首を回すと、すぐ横…というよりは上に彼女の笑顔が見えた。彼女もまた、赤く染められている。それでもなお、彼女の笑顔は一際輝いて見えた。目を開いた瞬間に見た夕焼けよりも。


 声を出したものの、まだ状況が理解できない。僕は一体、どこで何をしているのか。どうして、ここに彼女がいるのか。理解できるのは、時間くらいで──


「あの~…起きたなら、出来る限り早くどいてほしいかな~…なんて。もう足が限界かも…」

「え……足…?」


 そこでようやく気付く。あまりにも遅い。だけど、仕方ないと思う。ほとんど理解できていない中で、まさか経験したことのないことが起きていては反応も遅くなる。


「ご、ごめん!なんか……ごめん…」

「いいのいいの、ちょーっと足が痺れちゃったけど。あいた、あいたたたた…」


 ずっと曲げていて、且つ人の頭を載せていれば当然、足は痺れてしまうだろう。上手く動かせない足を、必死に伸ばして改善を図っている。


 そう、僕は膝枕をされていた。微睡みに落ちた後、彼女がそうしたのか、それとも僕が縋ったのか。僕の頭は草が茂る硬い地面ではなく、およそ経験したことのない弾力の太腿へと移動していた。


「もしかして、僕ずっと寝てた?こんな時間になるまで」


 改めて辺りを見回して、確認する。やはり、はっきりとした時刻は分からないけど、夕方ではあるようだ。


 となると、相当な時間眠りこけていたことになる。その間、ずっと彼女はここで同じ体勢で……


 僕が眠ってしまったばっかりに。


「いいってば。大崎くん、相当疲れてたんでしょ?どうせ、まーた一人で無理したんじゃないの?ダメだよ、誰かを頼らなきゃ」

「それは……いや、その通りだね。そうしていれば、神原さんに迷惑をかけることもなかったし」

「私はいいよ。あ、それと、美月(みつき)には連絡してあるから心配しなくていいよ。むしろ、この機会にしっかり休めって言ってた」


 僕に膝を貸すだけじゃなく、小野(おの)さんに連絡までしてくれていたなんて。それに、これでは迷惑をかけたのは彼女だけではなく、小野さんを含むクラス全体に及ぶ。


 いくら休むといっても限度がある。これでは、いくら休めと言われたとはいえ、謝らざるを得ない。小野さんに、クラスの皆に。いや、彼らより先に謝るべき人がいる。


「神原さん、本当にごめん。神原さんには無理をさせただけじゃなく、時間まで奪った。こんなことしてなかったら、今頃は自分のクラスで──」

「大丈夫だって。別に怪我をしたわけじゃないし、クラスの方も坂下(さかもと)くんがどうにかしてくれてるから」


 どうにかしてくれている、それ自体はとてもありがたいと思う。でも、それと同時に自分のクラスだけでなく、彼女のクラスにまで迷惑をかけたのかと思うと、どうやっても居た堪れない。


「それと、私は謝ってほしくて足が痺れるまで膝を貸したわけじゃないよ。どうせなら、別の言葉が欲しいかな?」


 別の言葉。彼女の意図することは分かる。それに、考えてみれば、確かにその言葉を先に口にするべきだったかもしれない。


 その相手は彼女だけではなく他にたくさんいるけど、誰よりも最初に彼女に。


「ありがとう。その…色々と」

「うん、どういたしまして。じゃあ、大崎くんも起きたことだし、お互い戻ろっか。──あ」


 と、立ち上がろうとした彼女は、まだ足が上手く動かないのか、再び尻餅をついてしまう。


「あー…あはは…。手、貸してもらってもいいかな?」

「うん。僕の責任だからね」

「そう?じゃあ、このまま連れ行ってもらおうかな」

「……わかった」


 先に立ち上がって、彼女に向けて手を差し出す。中々わがままなことを言われている気がするけど、今回に限っては仕方ない。こうなったのは僕の責任なのだから。


 差し出した手が優しく握られる。意識が途切れる直前に感じたものと同じ温もりが、手を伝って感じられる。


 ぎこちなく立ち上がる彼女を支えるように手を握り返す。伝わる体温が、より鮮明に感じる。


 伝わる熱がとても熱く感じられるのは、僕の所為なのか。それとも、彼女がそうなのか。どちらか分からないまま、一歩前を歩く。


「おおおぉ…足が…足がぷるぷるする…」


 生まれたての小鹿のように足を震わせる彼女に合わせ、ゆっくりと歩くその最中、ちらりと盗み見た彼女の頬が朱に染まっていたのは、夕日の所為なのだと思う。


 だから、きっと僕の顔が赤かろうとも、それもまた夕日の所為だ。


 ……


「あ、やっと戻ってきた~」

「えっと…、ごめん。たぶん、迷惑かけたよね」

「大丈夫…っていうと嘘になるけど、大丈夫!しっかり休めたんでしょ?それなら、今からみっちり働いてもらうから。最後までね?」

「もちろん。と言っても、後一時間もないと思うけど」


 文化祭は午後六時に終了となる。ほとんど日が沈んだ今の時間からでは、残り時間はそうないと思う。


 ただ、時間がないからといって、注文の量は減ったりしない。最後はここで、と言わんばかりに人が集まっていた。


 そのため、僕たち一組の閉店は予定よりも遅い時間となった。最後の最後まで、メイド目的の男が後を絶たなかったが、それはそれで作戦通りと言える。


 喫茶店が閉まってからは、急いで後片付けを始めた。


 文化祭実行委員の集まりで聞いたが、この後はグラウンドで後夜祭をするらしい。そちらは主に生徒会が主導する形で、学校の生徒だけで行われるとのこと。


 各々の催し物が終わり、解放された者たちによる後夜祭。これを待ち望んでいた人は多いようだ。僕のクラスでも、後夜祭の話をしながら片づけをする人がほとんどだ。


 その人たちの話を盗み聞くと、どうやら目玉イベントがあるらしい。それは何なのかと考えたが、その答えはグラウンドを見れば一目瞭然だった。


 グラウンドの真ん中、生徒会と有志らしき人たちが何本もの丸太を運んでいる。運んでは重ね、運んでは重ね、これを繰り返して作るのは──


「キャンプファイヤーだね」


 教室の片づけがほとんど終わった頃、隣にやって来た小野さんが同じように窓からグラウンドを眺めながら言った。


 教室の中を見てみると、後は使った机を元に戻すくらいの作業しか残っていなかった。皆、よほど後夜祭が楽しみなのか、準備よりも片づけの方が早い。


「知ってる?あのキャンプファイヤーを囲って踊るんだって。それでさ、なんと!」

「踊った男女は恋人になれる、とか?」

「そ!そんな感じ。好き同士で踊れば付き合える、とか。カップルで踊れば上手くいく、とか。まぁ、そういうジンクスみたいな?よくあるやつだよ」


 そんな告白の現場にされると分かっていながら、彼らはせっせとキャンプファイヤーの土台を組み立てているのだろうか。それとも、彼らもそっち側だから、何の妬み嫉みもないのだろうか。


「さて、あとちょっとだし、ちゃちゃ~っと片づけちゃお」


 自分たちの机は元に戻し、借りてきたものは返しに行く。ただ、この返しに行くのが誰もやりたがらなかった。


 それもそのはずで、校内放送で後夜祭の準備ができたという知らせが入ったのだ。そのため、少しでも早く参加したい人たちは、グラウンドとは反対方向に持っていかなければならない仕事を嫌がった。


 ちょうどいいと思った。これを僕が片づければ、眠りこけていた分を帳消しにできるんじゃないかと考えたから。


 実際、クラスの後夜祭に参加したい人たちからは、好感触の返事が返って来た。それに、後夜祭に参加しない人たちも、面倒な仕事が回ってこないのだから否定することもない。


 そうして、僕は一人、残った机の片づけを始めた。


 量としては大したことはないものの、どうしても机である以上、一度に多くを運べない。そこそこの距離を何度も往復する羽目になる。


 それなりに体力を使うけど、あれだけ休んだのだから倒れる心配はない。メインである文化祭も終わったことで、緊張とはもはや無縁である。


 後夜祭に参加する気のない僕は、ゆっくりと時間をかけて運ぶ。


 あと二往復。そんな頃に、教室に戻って来る人がいた。何か忘れたのかと思ったが、その用向きは僕だった。


「大崎くん。て、手伝うよ!今更かもしれないけど…」


 彼女──高橋さんは、今日の昼頃も同じことをしていた。皆が遠慮なく休む中、一人だけ残って手伝ってくれた。あの時と同じように、その気遣いが僕に向けられる。


「ありがとう。ちょうど、椅子が一つだけ持てなくて困ってたんだ。もう一往復しなくて済むよ」

「う、うん!任せて!椅子くらいなら持てるから」


 パタパタと近づいて、傍に置いてあった椅子を持ち上げる。


「大丈夫?」

「うん、大丈夫だよ。さすがにそこまで非力じゃないよ」


 その場で軽快に動いて見せ、何の問題もないことを示す。それもそうか。自分と比べてしまっていたけど、一般的にはこのくらいはなんてことないのか。僕が非力なだけで。


 グラウンドの方から、文化祭と同様の盛り上がりが聞こえてくる。微かに焦げ臭い匂いが漂ってきているあたり、もうキャンプファイヤーは燃え盛っているのだろう。


 反対に向かって歩く僕には分かりようもない。


「そういえば、よかったの?後夜祭。てっきり、参加しに行ったと思ってたけど」

「う、うん。そのつもりだったんだけど……色々、理由があって」


 理由、それが何かは聞かないけど、あまりいいものではなさそうだ。さっきから、俯いてほとんど喋らない。


「大崎くんこそ、誰かと後夜祭に参加しないの?」


 すると、思ってもみない返しがくる。僕が後夜祭なんてものに参加する人間に見えるのだろうか。……見えるのか?だとしたら、文化祭実行委員という立場が、そう見せているのかもしれない。


「そのつもりはないかな」

「そっか…そう、なんだ」


 こうして残って片づけをしている時点で、参加しないと言っているようなものな気がする。


 それなのにどうして聞いてきたのか、何か意図があるのかと変に勘繰ってしまう。ただの世間話にそれほどの意味はないと思うけど。


「あ、こっち。この中」


 そんなことを考えていると、危うく目的の空き教室を通り過ぎるところだった。


 所狭しと置かれた備品の山に、机たちをくっ付ける。これで片づけは終了。後は、教室に荷物を取りに戻ったら、帰るだけだ。


 と思っていたが、この文化祭という魔力にあてられてか、僕はその機会を失う。


「あ、あの!」

「なに?」

「少しだけ、見に行かない?後夜祭」

「僕と?」


 小さく、こくりと頷く。どうやら、何かの間違いではなさそうだ。聞き返した言葉を否定することなく、遠慮がちに上げられた指はグラウンドの方を指している。


 どうして僕なのか、という疑問はある。でも、何もキャンプファイヤーを囲って踊りに行くわけじゃない。それに、今も昼の時にも手伝ってもらった恩がある。


 そんな人の誘いとあれば、断るのも忍びない。この後に、何か予定があるわけでもない。


「行ってみようか。キャンプファイヤーがどんな感じか気になるし」

「うん!そ、そうだね!」


 僕たちは来た道を戻り、その途中で階段は上らずに昇降口へ向かう。


 靴を履き替え、顔を上げた先に見えたのは夜の暗闇を掻き消すような盛大な炎だった。


「結構、大きいね」

「……」


 隣からは何も聞こえない。きっと、その規模の大きさに驚いているのだろう。


 興味の薄かった僕ですら、少し呆気に取られているのだから。


「大崎く──」

「あれ?大崎?こんな所で何してるの?」


 後ろから、つまり校舎の方から名前を呼ばれる。


 振り返ると、そこにはなぜかリンゴ飴を手に持った小野さんがいた。いつの間にか服装もメイド服ではなく、いつもの制服に戻っている。


「小野さん。どうしてここに?てっきり、あの輪の中にいると思ってたけど」

「残念ながら、私には相手がいないからさ」


 わざとらしく肩を竦めてみせる。けど、小野さんに相手がいないとは思いにくい。派手な見た目、社交的な性格、男子が放っておくとは思えない。相手がいないと言いつつ、誰の誘いも受けていないだけなんじゃないかと思う。


「で、大崎は何してんの……っていうのは、野暮かな」

「いや、そういうのじゃないよ。高橋さんが片づけを手伝ってくれて、その流れでちょっと見に行ってみようってなっただけ」

「ほーん…。じゃあさ──」


 咥えていたリンゴ飴を齧る。飴を噛むを音が止むと、小野さんは口を開く。


「じゃあさ、私と踊ってみる?」

「え…?」


 リンゴ飴を片手に、誘われるのを待つように手の甲を差し出す。


 この後夜祭で、キャンプファイヤーを囲って踊ることの意味を小野さんが知らないわけがない。むしろ、そのことを教えてくれたのが小野さんなのだ。


 それでありながら、こうして提案してきている。わざわざ僕を選ぶ意図が分からない。小野さんであれば、他にも引く手は数多にあるはず。


 誘われないと言っていたけど、差し出されたこの手を取りたい人は多くいるんじゃないだろうか。


「……って、言うのは冗談なんだけどさ」

「冗談、なんだ…」

「ほら、今は手が塞がってるし。それに、あっちの方が気にならない?」


 齧られたリンゴ飴で今も大きな火柱を立てるキャンプファイヤーの方を指す。


 大きく燃える炎を囲って踊る人たちをさらに囲うように、相手がいない、もしくは探している人たちが円を作っている。


「気になるものって?」

「あそこ、春留(はる)がいるでしょ?それも、一人じゃない」


 ようやく気付く。確かに、小野さんが指すほうに彼女の姿が見える。夜の暗さと、見慣れない炎の明るさで分かりづらいけど、紛れもなく彼女だ。


「隣にいるのは誰?」

「さぁね?でも、今、あの場所で話してるだから、ただの世間話じゃないと思うよ?春留って中学の頃からモテるから」

「それって…神原さんとあの人が一緒に踊るってこと?」

「かもね。このまま何もなければ」


 彼女の後ろ、キャンプファイヤーを囲んで踊る人たちが目に入る。


 その楽し気な姿に、彼女が重なる。


 僕の知らない誰かと彼女が躍る姿。炎を囲んで、手を取り合い、笑い合って言葉を交わす。


 そんな姿を想像してしまう。


 何か、嫌な気配がした。そんな彼女を許容できない何かが、僕の中で生まれた気がした。


 でも、理由は分からない。彼女が誰と、どう踊ろうとも僕には関係ない。その後、どうなろうとも、どうしようとも関係ない。


 ──関係ないはずなのに。


「私と踊らないならさ、代わりに春留と踊って来てよ」

「小野さんは踊れないんじゃないの?」

「あんたがどうしてもって言うなら踊ってあげるよ?どうする?」

「……」


 たぶん、これは本気じゃない。小野さんは僕と踊りたいなんて、微塵も思ってない。


 だからこれは、僕に選択肢を与えている。僕に機会を与えている。僕に理由を与えている。


 僕が、彼女の元へと向かえるように。彼女の手を取れるように。


 どうして、そんなことをするのかは分からない。でも、今は、与えられる全てを、望んでいる通りに貰う。小野さんの提案、という免罪符を得て、僕は一歩を前に踏み出す。


「ごめん、小野さんとは踊らない。だから…」

「そう?それは残念。半分くらいは本気だったんだけどな~」


 小野さんの冗談かも分からない返事を聞いて、僕はグラウンドの中心に向かって走りだす。


「お、大崎くん!」


 そういえば、高橋さんがいたことを忘れていた。でも、今は──


「用事が出来たから行くよ。手伝ってくれてありがとう」


 彼女の元に向かうことが何よりも優先で、それが僕のしたいことでもある。


 振り返ることなく走る僕の背中で、誰かの謝る声が聞こえた気がした。


 ……


 近くなると、彼女の表情が分かるようになってくる。


 おそらく、先輩であろう男子から執拗に迫られている姿。手も首も横に振っているものの中々諦めてもらえずに困り果てている。


 本来であれば、僕がそこに割って入る理由も、権利もない。


 でも今の、この文化祭を終えた後の僕であれば、権利くらいはある。


「神原さん」

「え?お、大崎くん!?」

「なに、誰?」


 邪魔をされた、そんな考えを隠そうともせずに僕を睨んでくる。どうやら、理由は違えど、この人も彼女のことで必死らしい。


「今忙しいの、見て分かんない?」

「踊る相手を探すので必死なのは理解できます。でも、僕も彼女に用があるので」

「んだよ、その言い方。バカにしてんのか?てか、先に声かけたのは俺の方なんだけど?」


 僕の精一杯の煽りを受け取ってくれたらしく、わかりやすく眉尻が上がる。それと同時に、怒りは考える力を下げてくれる。


「なら、彼女に決めてもらいましょう。ちょうど、お互いの用事は同じなんですから」

「だから!俺が先だって言ってんだろ!後輩なんだから、こういう時は先輩に譲れよ」

「どうする?神原さん」

「え…いや、でも…」


 彼女はきっと迷うだろう。早い者勝ち、というわけではないけれど、事実としてこの先輩の方が早い。そして、問答を繰り返して時間を取ってしまっている後ろめたさから断りづらい。


 それなら、彼女が断れる言い訳を作ればいい。今の僕には、それが作れる。小野さんが僕にそうしたように。今度は僕が神原さんに作ってあげる。


「神原さん、覚えてる?今朝のご褒美」

「今朝のって…もしかして?」


 そう、彼女が言ったのだ。射的の勝負に勝ったご褒美と称して、彼女が頼み事を聞く権利を僕にくれた。


 その話を出せば、彼女は後腐れなく断れるはず。


「なぁ、何の話してるわけ?それよりさ、早く──!?」


 彼女は掴もうとするその手を、一歩引いて躱す。


「ごめんなさい」


 丁寧に、しっかりと、さっきまでの困っていた彼女とは違い、はっきりとした断りの言葉と共に頭を下げる。その言葉を聞いて、僕は彼女の手を取る。強くなり過ぎないように握った手を引いて、走り出す。彼女は、僕の手を躱さなかった。


 少しの驚く声が僕の耳に届くが、その声の主が掴まれた手を振り払うことはしなかった。


 後ろで舌打ちをする声が聞こえる。そうだ、そのまま諦めてしまえ。今からでも、他の人に同じことを言いに行け。お前にとっては数多くいる女子生徒の一人でも、僕にとってはたった一人しかいない特別なんだ。そんな人を、お前なんかにはくれてやらない。


 心の中で出てくる限りの悪態をつく。口にはしなかったものの、誰かに対してこんなにも言う自分に少し驚いている。


 数メートル走ったところで、キャンプファイヤーを囲む集団の直前、そこで彼女は足を止める。


「ありがとう、助かったよ。困ってたんだ」

「それなら、よかった」

「今度は逆じゃなかったね?」

「何のこと?」


 いきなり、何のことかと疑問に思う僕の眼前に、もう一度彼女が手を差し出す。細く、傷一つない彼女の手が、大きな炎に照らされて、その影を大きく伸ばす。


「今朝のこと。今度は君が手を引いてくれた」

「そう…だったかな」


 白を切ってみせても、何のことかは思い当たる節がある。彼女がお化け屋敷でのことを言っているのは分かる。一緒に入ったかと思えば、いつの間にか彼女は脅かす側に回っていたあのお化け屋敷。


「とにかく、ありがとう。…戻ろっか」


 上げられていた手が少しずつ下がっていく。炎に照らされた手の影が一層濃くなったように見える。その様が、まるで彼女の心境を表しているように感じた。


 だから、かもしれない。僕が咄嗟に彼女の手を取ってしまったのは。


「えっと…?」

「ここまで来たなら、少しくらい踊ってもいいんじゃない?それにほら、また誰かに声をかけられても面倒でしょ」

「……ぷっ!」


 理に適った提案をしたつもりが、どうしてか彼女は吹き出した。かと思えば、それを皮切りに盛大に笑ってみせる。立ち昇る炎の勢いにも負けないくらいに、周りに人たちの視線を集めてしまうくらいに。


「そんなにおかしいこと言ったかな?」

「ううん、そんなことない。そんなことないんだけど、まさか君の方から言ってくるとは思ってなかったから」

「じゃあ、いいよ。もう戻る」

「あぁ!待って、待ってよ!冗談だって!」


 わざとらしく、体を百八十度回して踵を返す。が、本気でそうすることなんてできるわけがない。


 僕から繋いだ手を、彼女も離していないのだから。


「せっかくだし、ね?」


 聞いてきているものの、彼女は僕の返事なんて聞きやしない。


 繋いだ手をそのままに、僕たちは多くいる二人組の輪の一部になる。


 勢いよく輪に入ったものの、僕たちの飛び入りを待つわけのないリズムに、たどたどしい動きしかできない。二人して慣れないフォークダンスに何度も足が縺れる。リズムが合わずに体がぶつかったり、躓いて転びそうになる。


 そんな状態では、流れる曲に合わせてステップを踏んでも、踏まれるのは僕の足ばかり。その度に彼女は小声で謝るが、そうなってしまう責任は僕にもあると思う。


 華麗にリードできればよかったけど、残念ながら僕にダンスの教養はない。授業で教わったこともなければ、自分で学んだこともない。


 少し考えてしまう。もし、上手にダンスが踊れていたら、と。彼女を格好良くリード出来ていたら、と。


 それもいいかもしれないけど、今が悪いわけじゃない。みっともなく踊る姿に、彼女が笑うのであればそれでもいいと思う。


 景色が回り、一周する頃になってようやく慣れてくる。既に靴は泥だらけになっている。拙いステップを表すその靴を見て、僕は少し笑ってしまう。


 それに気づいた彼女も、一瞬目を丸くしたかと思えば、つられて笑う。周りの目も、何も気にせず二人で笑う。一体、何がそんなに面白いのかも分からないまま笑う。


 静かに、でも片や、大袈裟なくらい声を上げて笑う。まるで、僕の分まで笑うように。


 ふと、曲が変わる。どうやら、僕たちのダンスに二週目はないらしい。


 彼女もそれを察したようで、自然に手が離れる。近くに大きな炎があったせいか、それとも別に熱があったからなのか、一人宙に投げ出された手は、十一月の寒さにも臆することはなかった。


「それにしても、よかったの?貴重な権利をこんなことに使って」

「いや、あれは話を出しただけで使ってはないけど」

「え?いやいや、あれは使ったも同然でしょ!?」

「使うとは言ってない」

「いやいやいや!認めない、私は断固として認めないよ!?」


 どうやっても、彼女は判断を覆さなかった。頼み事を聞く権利、彼女の言う通り貴重なこの権利を、僕はこんな形で失うこととなった。だけど、後悔なんてものは微塵も感じていない。


 そうして、文化祭も、後夜祭も終わりを迎える。


 燃え盛っていたキャンプファイヤーも、学校を出る頃には終わりを告げるように、すっかり燃えカスになっていた。


 それを背に、僕は一人で学校を後にする。


 家までの帰路。僕は、文化祭が終わった事を理解しつつも、どこか実感がなかった。


 もしかすると、まだ明日も準備があるではないか、明日が本番なのではないか、そんなことを考えてしまう。


 十一月の冷えた風にあてられた一人の手が寒さを感じて、微かな実感を抱く。


 熱を奪われる手が、沁みついた文化祭の匂いが、それに混じる彼女の温かさが、段々と僕の中で大きくなっていく。


 ようやく、僕の中で確かな実感が生まれる。理解し、納得する。


 ……


 こうして、僕にとって、強烈で苛烈な文化祭が幕を閉じた。


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