私たちだけの文化祭(その四)
今、僕がいるのは昨日も彼女と来たショッピングモール。来た目的も理由も、昨日と同じで彼女に委ねられている。
僕は半ば無理やり連れられただけ。今日も昨日も。
ただ、昨日とは違い、二人だけではない。もう一人、彼女が連れてきた。というよりは、二人の時間に僕が割り込んだのかもしれない。
「お!ねぇねぇ、美月。もうマフラー売ってるよ。一つ買おっかな~。私、持ってないんだよね」
「それでよく今まで冬を乗り越えられてるよね。私だったら凍死してる」
わいわいと冬の装備品を見ている彼女たちの数歩後ろ。そんな位置から、僕は二人の会話聞き流している。
あの二人に割って入る勇気はないし、盗み聞きしているみたいになるから近くにもいられない。
こうなるのは予想できたのに、どうしてついて来てしまったのだろうか。あの時の自分に後悔が生まれる。
「大崎くんはどう思う~?……って、なんでそんなに離れてるの?」
「居た堪れなくて」
「よくわかんないけど、こっち来て。大崎くんの意見も聞かせて?」
「僕の意見は昨日言ったと思うけど」
「それはシュシュでしょ。今日はマフラーだから」
「ほほぉ~?新しいシュシュ着けてると思ったら、そういうことかぁ~」
「あ!いや、別にそんなんじゃないっ!違う違う!違うから!」
ニヤニヤと何かを察した小野さん。それに対して、必死になって何かを否定する彼女の意図を理解しているのは小野さんだけのようだ。
「別にいいじゃん。私は知ってるんだから」
「その顔がむかつく。あと、口を滑らせそう」
「そんなことしないって。私が口固いの分かってるでしょ」
本当に分かっているらしく、プルプルと堪えたまま何も言い返さない。彼女たちが何について話しているのか、またしても僕だけが分からない。
「それより。大崎、早くこっち来なって。迷える春留のために、どれか選んであげて」
「選ぶんじゃなくて、意見を聞きたいだけ!」
「はいはい。変わらない~変わらな~い」
これは本当に僕が口を挟んでいいのか。二人の意見が食い違っているから、どうするべきか分からない。
「ほらほら~。似合いそうなの選んであげて~?」
「いーい!自分で選ぶから!大崎くんは、それを見てから何か言って!」
「はい…」
いつまでもどこまでも二人の争いは続いた。仲が良い証拠ではあるんだろうけど、そこに挟まれる僕は寄る辺を失ってあちらこちらへと流されるしかなかった。
……
「さて、春留の買い物が終わったわけだけど、他になにか見てく?」
「大崎くんは何かある?」
「いや、僕は特に。神原さんに連れてこられただけだから」
「じゃあ、何か食べよっか。その後は…どうしよ?」
「ゲーセンとかどうよ?」
「いいね!さっすが美月。ゲーセンが終わったら、今度は──」
僕が意見を出すことを放棄したから仕方ないとはいえ、これからの予定がどんどん出てくる出てくる。こんなにも候補を出しているけど、まさかこれから全部行ったりするとは思いたくない。
ただ、それを肯定する雰囲気、二人に流されるだけの僕、この二つが揃っていれば当然に彼女たちの計画通りに進む。
それが、僕が心の中で否定したものであろうとも。
……
そして、日付が変わって文化祭二日目。
結局、昨日はあれから彼女たちから逃げることなどできるわけもなく、帰りの時間はいつもより随分と遅くなった。
その所為、とは言わないが、どうにも朝から体が重く感じる。これは、たぶん慣れない文化祭実行委員という仕事に疲れが溜まっているのだろう。きっとそうだ。昨日の彼女たちに連れ回されたからではないと思う。
と、言い訳がましく言っても、体は軽くならない。
独り言もそこそこに、まだ静かな廊下を一人歩く。自分の鳴らす靴音だけが、校舎内に響いている。
昨日とは違い、彼女たちはまだ来ていない。それもそうだろう。今日に至っては、これといって必要な準備はない。つまり、早く来る理由がない。
それなのに早く来たのは、実行委員という責任感からか、それとも何かを期待していたのか。
教室のドアを開ける瞬間まで、僕の中で答えは出ていなかった。でも───
「お!やっと来たね?今日は私の方が早かった~」
我が物顔で一組の教室にいる彼女を見て、僕が抱えていた小さな疑問はどこかへ消えてしまう。笑いかけてくる彼女の顔を見た瞬間、あっという間に攫われてしまった。
「神原さん。ずいぶんと早いね」
「まぁね。これでも私、早起きって得意だから」
「いい特技だね」
それなら、何かに遅刻することはなさそうだ。とはいえ、彼女の場合、また他の理由で遅れそうではある。早く起きれたという余裕が慢心に変わる様が想像できる。
「それで、自分の教室に行かず、わざわざここいる理由は?」
「それは…ほら、今は教室に誰もいないから」
「ここも僕が来るまでは同じ状態だったけどね」
「でも、今はいる。むこうは今もいないから」
多少、強引ではあるものの納得するしかないらしい。まぁ、彼女の教室には誰もいないのは事実だ。それなら、どうして彼女はこんなにも早くに一人でいるのか。その疑問の答えは───
「じゃあ…、行こっか?」
「どこに?」
「私たちだけの文化祭に!」
彼女は立ち上がり、僕の手を取る。戸惑う僕に構わず、実に彼女らしい笑顔と行動力で握った手を引っ張る。
『私たちだけの文化祭』というのが何なのか分からないけど、それを考えるより先に隣の教室へと連れられる。もしかすると、彼女はこれがしたかったのかもしれない。だから、たった一人で朝早くから僕を待ち構えていた。懲りることなく、僕を振り回すために。
「ここ、他の教室だよね。入ったらマズくない?」
「大丈夫。誰もいないから」
「だからマズイって話なんだけど」
僕の静止なんて最初から聞く気がないらしく、離せない手にどんどんと引っ張られる。
隣の教室。二つある出入口の両方にも、窓にまで黒い布が被せられている。そうなれば当然、中には光がなく慣れない暗闇が広がっている。
文化祭、クラスの催し物、真っ暗な室内。これだけ揃っていれば、もう分かる。
「ここってお化け屋敷?」
「そう、二組の出し物。意外としっかりしてるよ~」
「だとしても、今は脅かす人がいないから暗いだけだけど」
「まぁまぁ、雰囲気を楽しもうよ。ほら、こういう装飾怖くない?」
迷路のようになっている通路のあちらこちらに血のりやら呪いのお札、妙にリアルな生首なんかもある。暗くても…いや、暗いからこそ余計にリアルさが増している。
「でも、装飾って言っちゃったら怖くないよ」
「そうかな~?作り物って分かっててもきっと驚くよ~?」
驚くのだろうか。そもそも、脅かす人がいないのだから何も───
『ぎぃやぁぁーー!!』
「うわぁあぁぁー!」
突如として、壁だと思っていた場所から人型が飛び出してくる。ご丁寧に謎の叫び声も一緒に。
何もないと、完全に油断していた僕は思わず尻餅をついてしまう。
「あっはっはっはー!驚いてるじゃん!ぷっ!くくく…、驚かないって言ってたのに…ふふっ」
「いや、これは驚くでしょ!ていうか、神原さんは驚かないんだね?」
「まぁね。私は知ってたから。昨日、美月と来たんだ~」
「ああ、そう。知っていたのに、教えてくれないなんて意地悪だね」
「だって、教えちゃったら面白くないでしょ?」
という彼女の言葉通り、そこからは彼女にとって面白いこととなった。僕にとっては全く面白くない、散々な目に遭った。
「………」
「ねぇ、ちょっと。大丈夫?」
「…いや、別に。全く…」
「ごめんって。まさか、こんなにも驚くとは思ってなかったから」
「あの仕掛けの量はおかしいよ。文化祭のレベルじゃなかった。規制すべきでしょ」
「そうだね。私も昨日は腰が抜けるかと思ったよ。人がいればもっと雰囲気あって怖いよ」
「これでも充分だけどね」
「立てる?手、貸してあげる」
想像以上だったお化け屋敷の感想を語り終えると、彼女は再び手を差し出してくる。あまりの本格さに疲れ、しゃがみ込む僕に向けて。
「ありがとう」
「こういうのって、普通逆だよね~?」
「逆?」
「男の子が手を差し伸べるものじゃない?」
「神原さんが脅かしたようなものだから、仕方ないと思う」
彼女の手を借り、まだ少し震える心を宥めながら立ち上がる。立ち上がっても、握られた手は離れない。
「えっと…あの、もう大丈夫なんだけど」
「さぁ!次行こう!今度は外ね!」
またしても、僕の言う事なんてお構いなし。ただただ、僕は彼女に連れられるだけ。
校舎の中にも多くの催し物があるが、校舎を出ても同じようにそこかしこでテントが広げられていた。
あっちには何があって、こっちには何がある。まるで、この文化祭の全てを知っているかのように、適格にどこに何があるかを把握している。
「あ!ここの焼き鳥がね、すっごく美味しかったよ!何でも、家族がお店を出してるらしくて、そこのタレを貰ってきたとか」
「それは美味しいだろうね」
「今やってないのが残念だよ~」
ごく自然に、そうするのが当然かのように始まった彼女の文化祭案内の旅はまだまだ続く。僕としては、こんなにも数があることすら知らなかったというのに、彼女は迷うことなく次の場所へと僕を連れていく。
「これこれ!これも面白かったよ!この棒をね、縁に当たらないようにしながらゴールを目指すの!当たっちゃったら、電気がびりびり~!ってなっちゃう。難しいよ~、私クリアできなかったもん」
「難しそうだね。今は、ただの張りぼてだけど」
「動かせないかな?」
「やめておいた方がいいよ。壊れたら責任とれないし」
「それもそっか~」
本当に彼女はよく知っている。一体いつ、どうやって知り得るのか。彼女も文化祭実行委員で、僕と同じくらいの仕事量があるはずなのに。
「この絵!これも見てみて!すごいんだよ!」
「ただの学校の一風景にしか見えないけど?」
「ここ、ここ!このマークの所に立って!」
「これ?……おぉ」
「ね?ね?すごいよね!」
「絵と現実の境界がない。ぴったりと合わさってる」
「他にも色んな場所に置いてあるみたいだよ。見に行ってみる?」
彼女の積極的で、活動的な部分が多分に表れている。自分のことで手一杯の僕とは違い、彼女も、彼女の友達も、そして僕でさえも楽しませている。なぜ、こうも僕の手を引いてくれるのかは分からない。なぜ、僕に笑顔を向けてくれるのか分からない。でも、この瞬間を僕は楽しんでいる。彼女の説く楽しいを、僕は存分に享受している。
「次はこれやろ!射的~。いっぱい倒したほうの勝ちね?」
「これ、勝手に触って大丈夫?」
「いいのいいの。何か言われたら、文化祭実行委員としての権力を使えばいいよ」
「それ、そんなに万能じゃないと思う」
「ほ~ら、そんなこと言ってないで。私から撃つよ~」
「わかった。やればいいんでしょ、やれば。って、すごい上手だね。一発で倒すなんて」
「へへ~ん!昨日、たくさん練習したからね!」
「ずるくない?僕、初めてなんだけど」
「教えてあげるよ。まずね、銃はそんなにしっかり持たなくていいの。むしろ、片手で持ってぎりぎりまで近づける。そしたら……、あ…」
「う……」
「ち、近いよ…」
「ごめん。……って、これ僕が悪いのか?」
彼女はこの文化祭を知り尽くしている。それは、どこに何があるということだけではなく、どうすれば一番楽しめるか、どうすれば一番上手くできるか。そういったことまで知っている。
「いや~、いっぱい回ったね!意外と楽しめた~」
「そろそろ、皆来る時間かな」
「そうだね。時間もぴったり。どう?大崎くんも楽しめた?」
「そうだね。一人で回るよりは楽しめたんじゃないかな。とても親切で強引なガイドがいたから」
「そうでしょう!そうでしょう!」
さも当然というように、大きく頷いてしたり顔をしている。実際、彼女がいるといないとでは大きく違っていたと思う。彼女がいなければ、今頃僕はどうしていたのか。想像が難しくなるくらいには、彼女に連れられ、振り回され、楽しまされた。
「そういえば、射的のご褒美、何か考えておいてね?私が頼み事を何か一つ聞いてあげる権利、とっても豪華なご褒美だね~。まぁ、私に勝ったんだから妥当かな」
「そんな仰々しい権利はいらないんだけど」
「使わないなら、大事にとっておいて。いつか使うまで、覚えておくから」
「そんな機会あるかな…」
ない気がする。どちらかといえば、彼女が頼む側だと思う。僕から積極的に彼女と関わろうという気は…あまり起きない。
でもまさか、射的に勝ったらこんな権利があるなんて知らなかった。知っていたら、僕は勝ちを譲ったのだろうか。いや、それはないか。もし、勝利のご褒美が同じものなら僕は意地でも勝ちを譲らなかったと思う。彼女にこの権利が渡ってしまったら、何を頼まれるか分かったものじゃない。
「じゃあ、私は戻ろっかな。大崎くん、文化祭二日目も楽しんでねー!」
誰かが来る前に、見つかってしまうその前に、『私たちだけの文化祭』はここで終わりを迎える。
どこまでも忙しなく走る彼女は、最後までぶんぶんと手を振っていた。その後ろ姿を見送って、僕はため息と共に一息つく。
ため息といっても重苦しいものじゃない。椅子に座って天井を見つめる僕はしっかりと感じていた。
彼女の言う、『楽しい』というものを。
……
文化祭は二日目とはいえ、最終日ともいえる。だからなのか、昨日とほとんど変わらない量の人がこの文化祭に、延いては喫茶店に訪れていた。
それにもかかわらず、現場は上手く機能していた。たぶん、昨日の経験が早速今日に活きているのだろう。あれだけの人を相手にしたのだから、嫌でも多少は慣れてしまう。
かくいう僕も、昨日に比べていくらか余裕がある。
そんな様子を見たクラスメートに「何かいいことあった?」なんて聞かれたが、他人には僕が浮かれて見えるのだろうか。
仮にそうなのだとしたら、その理由は明らか…かもしれない。
穏やかという言葉を忘れさせるような朝が過ぎ、目まぐるしいほどに行き来する昼が過ぎた頃、ようやく人の波が落ち着きをみせる。
「ねーねー、調理くん。今のうちに休憩しとかない?皆ヘロヘロだし」
「じゃあ、僕が厨房に残っておくから、皆は休んでいいよ」
「やった!どこかでご飯食べてこよー。よろしくね~」
「待って待って!私も行く」
僕の号令を皮切りに、ぞろぞろと厨房から人がいなくなる。狭い厨房内の人口密度は一気に小さくなる。人の多い息苦しさから解放された僕は、肺いっぱいに空気を吸い込み体を換気する。
「私も残ろっかな」
こぞって皆が教室を後にする中、クラスメートの一人、高橋さんだけは他の皆とは違い、僕と同じ選択をしようとする。
「高橋さんも休憩していいよ。この数なら、僕一人でもどうにかなるから」
「そんなこと言って、また倒れられても困るし。それに…なんか、こういうのって青春っぽくない?」
青春…。まぁ、高校生というのが青春の真っ只中で、文化祭が青春っぽいのは分かる。この隅にある厨房から見える景色がそれだと思う。
「あ~!なになに、二人だけ残っちゃって~?まさか、あんた、大崎くんのこと狙ってんの?」
他に誰もいなくなったと思っていたら、もう一つ二つと何やら揶揄うような声が聞こえる。
「ち、違う!そんなんじゃないって。私はほら、大崎くん一人じゃ大変かなって、思っただけで…」
「そっかそっか~。でも、相手は手強いと思うぞ~?大崎くんってば、あの神原さんと付き合ってるらしいし」
「え!そうなの!?」
どうやら、クラスメートの間でよからぬ噂が広まっているらしい。おおよそ、文化祭以前の彼女の行動や、文化祭中に僕たち二人を見かけたのが噂の出所だろう。
友達のいない僕が、その噂を耳にすることもなければ否定できるわけもない。彼女の方も、必死になって何かをする人とも思えない。
そういうのも相まって、噂は尾ひれが付いたり、無駄に大きくなったりしたのだろう。
とはいえ、耳にした以上は放っておけない。僕だけの噂ならともかく、彼女も含まれているのなら迷惑になりかねない。
「誰から聞いたかは知らないけど、僕と神原さんはそういう関係じゃないよ。考えるのはいいけど、勝手な憶測は広めないでほしいかな」
「あ、うん。ごめん。ていっても、私も人から聞いただけなんだよね」
「別にいいよ。これ以上広めないでほしいってだけだから」
「そりゃあね。本人から聞いたんだから、何も言えないって」
こんなことをしたところで、噂が小さくなることも、消えることもないとは思う。でも、全く意味がないとも思えない。こうすれば、少しくらいは噂が落ち着くのが早くなるかもしれない。
「そ、それじゃあ、私も残っていいかな?」
「いいけど。後でちゃんと休憩はしてね」
「うん!ありがとう。が、頑張るっ!」
そんなに気負わなくていいんだけど、これがこの人なりの姿勢なのかもしれない。
「んじゃあ、私らも残ろっかな。でも、その前に…ちょっと飲み物だけ買ってくるからー!」
「しばし、二人の時間を楽しんでー!」
手伝う気があるのかないのか。そして、何か意図があるのかないのか。どちらも分からない。
厨房にほぼ初対面の二人だけ。これといった話題なんてなく、そして喫茶店としての注文もない。数人しか客がいないのだから当然ではある。
ただただ、外から聞こえる喧騒が静かな教室内に広がるだけ。
「ねぇ、大崎くん」
そんな静寂を破ったのは向こうからだった。
「なに?」
「あの子、知り合いだったりする?」
指差す先、店となった教室の隅。カジュアルな秋らしい恰好をした少女。短く揃った髪を隠すように少し大きめの帽子までかぶっている。
どことなく怪しい雰囲気を感じる少女は、ただ座っているだけじゃない。何かを注文しようとしているわけでもないのに、こちらを、厨房にいる僕たちをちらちらと見ている。何度も、何度でも視線を行き交わせる。
ふと、その視線に僕は覚えがあるような気がした。見る、というよりは睨むに近いその視線に。
気がするものの、上手く思い出せない。
「中学生くらいかな?兄妹とかいたりする?」
「いや、僕は一人っ子だけど」
「じゃあ、誰なんだろ?」
二人して思い当たる節がなく、首を傾げるしかない。
引っ掛かる何かを思い出そうと少女の方を見てみると、少女と目が合う。見られているのを知りながら見返していたのだから当然ではある。そこから数秒、僕も少女も一切身動ぎせずに視線を交差させる。
「っ!?」
僕の視線に気づくと、弾かれたように立ち上がった。かと思ったら、既に顔の大部分を隠している帽子をさらに深く被り、そのまま小走りで教室を出ていった。
「あれ、行っちゃった…。なんだったんだろう?」
色々と気にはなるものの、追いかけるわけにもいかない。とりあえず今は、何か思い当たる節がないかと記憶を探るまでに止めておこう。
……
皆の休憩が終わり、客の割合よりクラスメートの割合の方が多くなった頃、接客担当の小野さんがこちらに来た。というより、僕を訪ねてきた。
「大崎、ちゃんと休憩した?」
「してないかな。でも、大丈夫。全然余裕で──」
「一回倒れたくせによく言えるね。というか、鏡見てきた方がいいよ。割と疲れた顔してる」
「……」
今の僕の顔は分からないけど、倒れたことを出されたら何も言い返せない。
「だから、今のうちに休んで」
「けど、僕が抜けるのは…」
「大丈夫だって。昨日と同じなら、この時間はそんなに忙しくないから」
「でも……」
「あー…もう!じゃあ……」
渋る僕にしびれを切らしたのか、近くにあった袋に作り置きしてあった食べ物をどんどん詰めていく。
「これ!」
「えっと…?」
「さっき春留から連絡あってさ。お腹空いてるんだって。だから、これ届けてきて」
「それ、いるのかな?向こうにも食べ物ってあるよね?」
「つべこべ言ってないで行く!そのついでに、休憩もしてくる!十分くらいで戻ってきたら、追い返すから」
「えぇ…」
袋を押し付けられ、追い出されるように教室を出る。
忙しく人が行き来する中、廊下には放られた僕だけが立ち尽くしていた。
「…仕方ない。とりあえず、持ってくだけ持ってこう」
とぼとぼといくつか隣の教室に向かって歩く。
実行委員でありながら、もう一人の実行委員に追い出されてしまう。果たして、これでいいのだろうか。
僕一人いなくなったところで、立ち行かなくなることはないと思う。でも、こんな扱いでは、元より必要なかったのではないか、とも思えてくる。
小野さんがそんな意図で言ったわけじゃないことくらいは分かる。ただ、そんなに僕は疲れて見えるのだろうか。
「あ…」
そんなことを考えていると、彼女のクラスである五組に着いた。
着いたのだが、そこに至ってようやく気付く。
「神原さんのクラスって、外だったか…」
やはり、疲れているのかもしれない。これでは休憩するよりも無駄に労力を使っている。正常な判断ができていれば、この手間はなかったかもしれない。
進路を変更して、階段へ向かう。
一段目に足をかける直前、一瞬だけ視界が歪む。
反射的に、強く手すりを掴む。
眩暈、らしきものはすぐに収まったものの、小野さんの言葉を痛感する。
自分の顔色は見れていないとはいえ、ここまでくれば分かる。これは、今すぐにでも休んだ方がいい。きっと、ひどい顔をしていると思う。
それでも、と足を進める。
こうなった時点で教室に戻ればよかったのかもしれない。事情を説明すれば、小野さんは許してくれると思う。
それでも、どうしてか僕は足を止めない。
それ以上の不調はみられないものの、一度生まれた不安は中々消えてくれない。
それでも、僕は彼女の元へと向かう。
……
彼女のクラスが出す縁日屋台に着く頃には、僕の息が少し上がっていた。当然、走ったからとか、体力がないとかではない。体調の悪さがいよいよ隠しきれなくなってきた。
器用にたこ焼きを丸めていた彼女が僕に気づく。持ってきた袋を掲げると、途端に全ての作業を中断して、僕の方へと駆けてくる。
それを見て僕は、そんなにもお腹が空いていたのだろうか、とお気楽な思い違いをしていた。
「大崎くん、ちょっと!……ちょっと、来て」
「いや、これ…」
手を掴まれ、屋台の前から連れられる。もう片手に握った袋を示すものの、全く取り合ってはくれない。
そのまま、中庭にある一本の木の下へと座らされる。
青々とした葉を広げていたであろう木は、この季節に従うように今はその枝先に最後の一枚に至るまで地面へと落としていた。
「大崎くん、大丈夫?絶対、大丈夫じゃないよね。これ飲んで」
「これは神原さんに渡すもので…」
「それはありがとう。もう貰ったから飲んで。相当ひどい顔してるの気づいてる?」
「…かもね」
持ってきた袋に入っていたスポーツドリンクを渡してくる。
「はい、飲んで!がぶ飲みして!」
「けど、これは…」
「じゃあ──」
彼女のためのものを僕が貰うことに気後れしていると、彼女はペットボトルのキャップを開けたかと思ったら、一気に三分の一ほどを一気に飲んだ。
「私は飲んだ。もう貰ったから遠慮しない!」
「わ、わかった…」
強引といえば強引ではあるものの、理屈としては通っている。それならと思い、差し出されたペットボトルを受け取り、一口飲む。
全身に染み渡る感覚が生まれる。このスポーツドリンクに、薬のような効果はないだろうけど、今の僕の体には薬と同じくらいの効果がある気がする。
「ありがとう。じゃあ、僕は戻るね」
「待って」
立ち上がろうとしたが、体が言うことを聞かない。とうとうここまで体調が悪くなったのか、と思ったけどどうやら違うらしい。
隣に座っている彼女に腕を掴まれている。体の限界が来たのではなく、掴まれた腕に抗えなかっただけらしい。
「休憩中でしょ?すぐに戻ったら、美月に怒られるんじゃない?」
その言葉を聞いて思い出す。小野さんは、全く同じことを言っていた。小野さんの言うことが分かるなんて、さすがは友達同士といえる。
「そう…だね。少しだけ、休むよ」
「うん、それがいいよ」
上げかけていた腰を戻し、大きな木を背もたれにして休む。
十一月の少し肌寒い風が頬を撫でる。でも、不思議とあまり寒さは感じない。それは、既に体が冷え切っているからなのか、それとも隣から感じる温もりのおかげなのか。
気づけば、僕と彼女の肩が触れ合い、直にその体温を交換していた。そのことに気が付いても、僕は離れようとは思わなかった。
というよりは、離れられなかった。僕の意識が、段々と奥底へと沈んでいったから。
「やばい…。急に眠気が…」
「いいよ、ちょっとくらい寝たって怒られないよ。大崎くんはたくさん頑張ったんだから」
彼女の声が聞こえる。最も近く、誰よりも近い距離から。大して役に立っていない僕を、替わりなんていくらでもいる僕を、優しい声音で肯定してくれる。
「だから、今は───おやすみ、大崎くん」
最後に聞こえた彼女の声は、とても優しく、とても心地よかった。
そんな包み込むような声に誘われ、その声を聞きながら、その温もりを感じながら、僕は微睡みへと落ちていった。