私たちだけの文化祭(その三)
文化祭当日。
僕はいつもの登校時間よりも、ずいぶんと早く学校に来ていた。その理由は当然、文化祭実行委員にある。
当日の進行や道具の用意といった確認作業自体は昨日で終わっているが、それでも当日にしかできない準備もある。今から、僕はその準備に追われることになる。
本来であれば、もう一人の実行委員である小野さんやクラスの誰かに手伝ってもらえばいいのだが、僕にはそれを頼む友達もいなければ甲斐性もない。
結局、実行委員なんて立場になろうとも、たった一ヶ月では僕の性根は変わらない。誰かに頼るよりも、一人を選ぶ。これでは、文化祭のスローガンも台無しだろう。あれに納得している生徒は少ないみたいだけど。
だけど、そんな僕の考えの斜め上をいくのが彼女である。まるで、僕の行動の一つ一つを把握しているかのように現れる。
「あ!やっぱりいた!ほら、見てよ美月。私の予想通りだった!」
「ああ、ほんとだ。でも、不思議と驚きはしないけど、納得はするんだよねぇ」
文化祭模様に飾られた教室に一人いると、いつもの元気な声が聞こえてくる。
「神原さん…に、小野さんまで。どうしてここに?」
「そりゃあね?私も実行委員ですから?早く来るのは当然っていうか?」
「大崎が心配なんだってさ」
「ちょっとぉ!美月、それは言わないでって!」
「ごめんごめん。そうだったね」
これ以上は何も言わせまいと、口を塞がれる。僕に背を向けている彼女の耳が赤く見えるのは気のせいだろうか。
「えっと…」
「なしなし!今のなし!私と美月は偶然早く来て、偶然大崎くんも同じことをしていた。そう、それだけ!」
「だってさ。じゃあ、そういうことで」
「そう…なんだ」
そういうことらしい。これ以上の追及はするな、と言わんばかりに彼女が睨みつけてくる。ここは大人しく意図を汲んでおこう。何か言って、怒りを買うこともない。
「それじゃあ、僕たちは自分のクラスの準備をするけど、神原さんはどうするの?そっちの相方は、まだ来てないみたいだけど」
「ねぇ~?どうしよっか?別にうちのクラスって今から準備することってないんだよね。強いて言うなら、食材を出してくるくらいかな」
「あるじゃん。それをすれば?」
「でもでも、生ものだから今出したら腐っちゃうかも」
「じゃあ、することないじゃん」
「それは、もちろん二人を手伝うよ!」
さも当然といった様子で、僕の横に並んでくる。一応、彼女は別のクラスで、うちとは関係ないはずなんだけど。
「あれ?そういえば、美月は?いつの間にか、いなくなってる」
「さぁね。僕は神原さんの相手で手一杯だったから、見てなかったよ」
「ほぅ、私ってそんなに手強かったんだね。大丈夫?一人で倒せそう?」
「問題ないよ。どうせ、すぐに強力な助っ人がくるから」
今、何をしてるかは知らないけど、小野さんが戻ってくれば、彼女の相手を一任できる。そこで、僕の囮という役目は終わる。
そんな助っ人の登場を心待ちにしていると、教室の扉が開き、待ちに待ったその人が現れる。僕の想像とは違う形で。
「じゃじゃーん!どうよ、この衣装!」
「わぁ~!いいじゃん!いいじゃん!似合ってるよ、美月」
現れたのは、クラスの催し物である喫茶店の制服、つまりはメイド服に身を包んだ小野さんだった。以前、迷走していた時に言った執事服じゃなくてよかった。
「借りてきたままだと、ちょっと地味だったから改良して、メイド喫茶っぽくフリフリにしてみた。良い感じじゃない?」
「良いよ良いよ!メイド服、似合うね~。こっち向いて~、ポーズポーズ!」
メイド服に大興奮の彼女は、カメラマンかのようにその姿を余すことなく写真に収めている。まるで、アイドルとそのファンのようにも見える。被写体となった小野さんも満更でもないようで、ノリノリでキメている。
「ひゃ~、可愛いなぁ~。ね、大崎くんもそう思うでしょ?」
「そうだね。様にはなってる」
「ありゃりゃ、私が褒められちゃうのか。これは申し訳ないことをしたかな」
申し訳ないこと、と言う小野さんの発言の意味はよく分からないけど、事実として似合っている。まぁ、何を着ても似合いそうなものだけど。ただ、現実にこんな派手髪のメイドが存在するのかは怪しい。
「春留も着てみる?私以上に似合うと思うよ~?」
「私はいいよ、ちょっと恥ずかしいし。そ・れ・よ・り~?」
用意周到に、もう一着のメイド服を手に持った小野さんの提案を断る彼女の視線は、なぜか僕の方を向いている。この流れはまさか…
「私的には、大崎くんの執事姿が見たいな~って思ったり?」
「いやいや、僕はあくまでも調理担当だから、そんな服は着ないよ」
「大丈夫、大丈夫。調理の時まで着てろとは言わないから。今だけ」
「小野さんまで…。はぁ、分かったよ。来てくればいいんでしょ。……ただし、神原さんも着ること。これが僕がこれを着る条件にする」
「なぁ~んで。私は嫌だよ」
「僕だって嫌だよ。着たくないから、調理担当になった節すらある」
「むぅ~。わかった、私も着る。それでいいんでしょ?」
「はぁ、なんでこんなことに…」
「美月、手伝って?」
「はいはい」
一人分の着るはずのなかった執事服を持って、僕は教室を移動する。彼女がこの場で着替える雰囲気なので、僕が移動する他ない。
朝早くから学校に来た目的は、こんなことをするためでない。というのに、彼女がいるとどうしても僕の予定は狂ってしまう。
彼女に対する文句が絶えないが、この恥ずかしい執事服を着ることは変わらない。これからの人生において、この服を着る機会なんてないだろう。むしろ、着る方が珍しい。そういう職業の人を抜きにしたら。
……
「ほぉ~!大崎って意外と似合うね。そういう服装」
「どうにも、居た堪れないけどね」
「大丈夫、大丈夫。なんなら、そのまま着ててもいいって」
「それは遠慮したいかな。ところで、神原さんは?まさか逃げたとかじゃないよね?」
「あーね。春留なら、着替えは終わったんだけど、やるならとことんやりたいってメイクしにいった」
「メイク…」
試しに着る程度のことで、そこまでする必要があるのか。いや、男の僕には分からない何かがあるのかもしれない。
「期待してていいと思うよ。あの子、気合入ってたからさ」
「何も期待してないよ」
メイド服を着るだけのことに期待することなんてない。成り行きでそうなっただけで、僕自身はメイド服にも執事服にも興味はない。強いて言うなら、こんな服を着る機会なんて無かったらよかったのにと思うくらいだ。自分自身も含め、誰がどんな思いの丈を持っていようとも、微塵の興味もない。今はただ、この見世物のような時間が早く終わることを願うばかり。
そんなことを考え、しばらく待ってみても彼女は戻ってこない。待ちくたびれた僕は、気だるげに椅子に座っていることしかできない。
女性のメイクにどれだけの時間がかかるかは知らないけど、一体どれだけ手の込んだものに仕上げようとしているのやら。
「美月。ちょっと」
「ん?」
天井を見上げていると、姿は見せず、小野さんを呼ぶ声だけが聞こえる。
「どうした~?」
「おかしくないか確認して」
「はいはい~。今行きますよ」
にこにこと上機嫌な小野さんが彼女の方へと近づく。すぐそばまで来ているようで、僕の位置からは見えないが出入口のすぐ近くで小野さんは足を止める。
「大崎はもう着替え終えてるよ」
「知ってる、ちらっと見たから。ね、変じゃない?」
「いや~、ちゃんと鏡見てきた?」
「やっぱりおかしい?やり直した方がいい?」
「いやいや、鏡見てきたなら分かるでしょ。これ以上ないくらいにばっちりキマってるって」
姿こそ見えないものの、話し声は聞こえてくる。察するに、どうやら彼女に問題はなさそうだ。ただ、自信がなかっただけなのかもしれない。とても珍しいことではあるが。
「はいじゃあ、行こうか。もう待ちくたびれてるよ」
「え、ちょっと、待って!まだ心の準備が」
「そんなものはありませーん」
扉の影から彼女は現れる。小野さんにぐいぐいと引っ張られ、慌てふためく様子を隠すこともできずに。
「ぁ……」
微かに声が漏れる。たぶん、僕の声だっただろう。正直分からない。僕も、彼女も、まるでその場に全身が縫い付けられたように動けなくなったから。
小野さんのメイド姿を見たから、そう驚くようなことはないと思っていた。でも、実際は違った。
どうしてかは分からない。だけど、確かに衝撃を感じる。小野さんの時とは違う、自分の中で明確に何かが反応した。影も形も分からない不思議な何かが。
「あー…、えっと……どう…かな?変じゃない?」
「変では…ない。まぁ、良いんじゃないかな。たぶん」
「そう…?…そっか。えへへ、ありがとう」
たったの一言二言。ついさっきまで出来ていたのに、どうしてか今は普通の会話ですらまともに出来ない。ましてや、彼女を見ることなんてもっと難しい。
「あらあら、二人だけのいい雰囲気なんか作っちゃって。私はお邪魔虫ですか。そうですか」
「あー!ダメダメ!美月もいてくれなきゃ困るよ!」
「ほーん…へー…」
小野さんの目が何かを疑っているような目をしている。何をそう思うことがあるのかは知らないけど、僕としても小野さんにはいてもらはないと気まずい状況になりかねない。
このまま二人きりにされても、会話なんてものは生まれず、お互いがお互いを見ることもなく、ただただ無為な時間が生まれるだけ。
「それじゃあ、皆で記念撮影しよっか。こういうのは写真撮っとかないとね」
「そ、そうだね!美月、一緒に撮ろっか」
「はいはい。いつまでも照れてないで、三人で撮るよー」
こっちに来い、と手招きされる。二人で撮ればいいのでは、という疑問は口には出さないでおくことにした。たぶん、言ったところで結果は変わらないだろうから。
「はい、撮るよー」
写真なんてものを撮り慣れていない僕は、いつかの時と同じように何とも間抜けな顔で写っている。
それを見た二人は、堪えきれなかったようで次第にその笑い声は大きくなる。ついさっきまで大人しくなっていた神原さんも、ここぞとばかりに調子を取り戻す。
「大崎、なんか半目になってる!」
「前にもこんなことあったよね?くくくっ……面白いね。大崎くんって」
「僕は何も面白くないけどね」
ここで撮り直すという選択が出てこないのが実に僕らしい。撮り直すよりも、これ以上撮らない方を選ぶ。そうすれば、こんな写真を増やさないで済むから。
「そんなこと言わないでさ。今度は、春留と二人で撮ってあげる。ほら、並んで」
「写真はもういいよ」
小野さんが僕たちから少し距離をとる。もはや、カメラマン気分の小野さんは僕の意見なんて聞く耳を持たない。
「春留、恥ずかしがってないでもっと寄って。大崎もそんな顔してないでさ」
もっと寄れと手ぶりをしているけど、既に充分に近いと思う。これ以上は、僕たちの距離間ではない気がする。
「うぅ~…もうっ!」
「え…」
そんな答えの出ないことを考えていると、彼女の方から近寄って来る。しかも、僕の想像していた距離よりもずっと近く、腕に抱き着いてきた。
「美月!早く撮って!」
「はいはい、撮るよ~」
何度かシャッター音が聞こえる。信じられないくらいに顔を真っ赤にした彼女が隣でプルプルと震えているけど、それを気遣えるほど今の僕には余裕がない。
もしかすると、僕の顔も彼女のように赤くなっているかもしれない。少なくとも、僕の心臓は爆発しそうなくらいに鼓動を速めている。これだけ近ければ、彼女にも聞こえてしまっているんじゃないかというくらいに。
「大崎、まだ離れないでよ。まだまだ撮るからさ~」
「もういいでしょ。それにそろそろ…」
ちらりと時計を見る。こんなことをしている間にも、時間は過ぎていく。そろそろ、誰か来てもおかしくない時間だ。
すると、機会を見計らっていたように廊下から話し声、靴音が聞こえてくる。
「あ、皆が来ちゃうね。じゃあ、私は着替えてくるから。……えへへ、あー…えへへ」
僕の腕から離れたかと思うと、どういう意図か全く分からない笑みを浮かべながら、教室を出ていった。
「もう、大崎ってばもう少しノリがよくてもいいと思うのにさ」
「あれが僕の精一杯だよ」
執事服に着替えるだけでも疲れるのに、それに加えて写真を撮ろうだなんて。文化祭はまだ始まってすらいないというのに。
「私は春留を見てくるね。あれだったら、春留単体の写真も撮ってきてあげる。欲しかったら言ってね~、言わなくてもあげるけど~」
彼女の後を追って、小野さんも教室からいなくなる。遠くから人の喧騒が聞こえてくるものの、今この瞬間だけは僕の周りは静かで落ち着く。
主に精神的な疲れから、崩れるように椅子に座りこむ。こんな姿を見られたら、また倒れたとか言われそうではある。でも、そうでもしていないと休めないのだから仕方ない。
それに、実際のところは倒れていないので問題はないはず。
「おはよー。誰かいるー?って…あれ?」
クラスメートの誰かが登校してきたらしい。先客がいないか呼びかけている。ただ、今の僕はそれに反応する気力がない。あっても、何か言ってたかは分からないけど。
「はっ!また、調理くんが倒れてる!?」
また、って言わないでほしい。今回は倒れてなんかない。あと、僕は調理くんじゃない。
「大丈夫。ちょっと休んでただけだから」
「おぉ、よかった。ていうか、執事服着てる!ねぇ、写真撮っていい?」
話題の回転が恐ろしく早い。僕の体調はそこまで心配していないということだろうか。
本当に早い。その手には、既にスマホが握られている。
でも───
「写真は、もういいよ…」
これ以上は、こりごりだ。
……
既に目が回りそうな出来事があった後───
『えー…あーあー。テステス。大丈夫そうかな?……うん、オッケー』
今、ほとんどの生徒がこの体育館に集まっていることだろう。それもそのはず、こうして生徒会長から文化祭開始の音頭が取られようとしているのだから。
マイクを持って登壇した生徒会長は、数秒のマイクテストの後、高らかに宣言する。用意されていた段取りなんてものを全てすっ飛ばして。
『よーし!それじゃあ、今年の文化祭も盛り上げていくよぉー!!』
空気が揺れるくらいに大きな反応が返る。誰も彼もが今か今かと待ちわびている。その証明が、この歓声だ。
『お祭りの開始だぁーー!!』
こうして、漢気溢れる生徒会長の一言により、文化祭は開催された。
体育館は、いつまでも盛り上げ続ける生徒会長によって、どこまでも歓声が止まなかった。
……
「はい、これ二番のテーブルに持ってって!」
「次の注文はどれ!?」
「フロアの男子!サボるんじゃない!キビキビ動く!」
文化祭が始まって一時間ほど。僕たちのクラスは、予想以上の人気ぶりに現場は大忙しとなっていた。
主に、女子の尽力もあって、どうにかこうにか成り立っている。
調理くんなんて呼ばれている調理担当のリーダーである僕の立つ瀬はない。当然、向き不向きはあるものの、このピリついた空気の中で発言なんて出来ないだろう。僕でなくとも難しいと思う。
なので、僕は調理くんらしく、料理を作ることにだけ集中しておこう。これはこれで大変だけど。
それと、結局、僕は服装を戻せずにいる。あの二人に感化されて、執事服に着替えたまま文化祭が始まった。隙を見て着替えたかったけど、彼女の所為でできなかった準備に追われ、それどころではなかった。
執事が給仕をするのだから、間違ってはいない。だけど、それは表に出ている人たちの役目であって、裏で料理を作るだけの僕がこの恰好をする必要はない。
フライパンを持ちながらも、早く着替えたいという考えが頭を離れなかった。
……
人の流れが落ち着いたのは昼前くらいになった頃。とはいえ、もう少ししたら今度は昼の混雑が予想できるので、今はしっかりと休むことにする。
何か飲み物を買いに、外にある自販機へと立ち寄る。特に考えずにボタンを押すと、音を立てて出てきたのはおしるこだった。
全くもって気分ではないが、適当に押した自分の責任なので糖分を摂るということにして、プルタブを引く。
あまりにも甘いそれを飲んでいると、一つに結った長い黒髪を揺らしながら、見知った顔がこちらに向かってくる。何やら手に持っている彼女が、大きく手を振っている。
「やっほ。さっきぶりだね。今、休憩?」
「まぁ、そんなところ。神原さんも?」
「いや、私は大崎くんが歩いてくのが見えたから、追いかけてきたの。これほら、うちのクラスで出してる焼きぞばとたこ焼き。食べて食べて!」
持っていたのは、パックに入ったザ・屋台飯といった二つだった。
「いいの?一応、商品なんじゃ…」
「大丈夫。料金は先払いされてるから」
言ってる意味がよく分からないまま、半ば押し付けられる形で渡される。ダブルでソースの匂いが漂ってくる。
「じゃあ、まぁ、ありがとう。ありがたく貰うよ」
「うんうん、貰って貰って。そして、食べて。実は私が作ったものだったりするから」
「それ、大丈夫?」
「ぬぁー!それってどういう意味!?」
彼女は以前に料理ができないと言っていた。そんな彼女が、果たして昨日今日の練習で上手く作れるのだろうか。
と、不安になっているが、それは口にしないでおこう。人に出せるくらいには上手に作れるのだろう、きっと。
パックを開き、とりあえず焼きぞばを一口。
「どう?」
「普通においしいね」
「ほんと!?やった!」
大袈裟なくらいに喜んでいる。それは言葉にしなくても分かるくらいに。言葉にもしているけど。
「やったやった!じゃあじゃあ、たこ焼きは?上手に丸になってると思う!」
「うん、形は綺麗だね。まぁ、僕はたこ焼きなんて作ったことないけど」
うちにたこ焼き機なんてない。一人暮らしでそんなものを持っている人なんているのだろうか。関西圏ならあるいは。
「で?で?中身は?ちゃんと焼けてる?」
「……うん。いいんじゃないかな」
「やった!ひひっ、褒められた~」
また、彼女はその喜びをひけらかすように大きな反応をする。さっきから表情の移り変わりが激しい。おずおずと食べ物を渡してきた時は不安一色といった顔をしていたのに、今や正反対といえる喜びの顔をしている。
「ずいぶんと嬉しそうだね。まさか、今ままで誰にも褒められなかったとか?」
「そんなことないよ。でも、大崎くんに褒められるのは特別嬉しいの!」
「あ…そう」
屈託のない晴れやかな笑顔でそう答える。
あまりにも眩しい。そんな彼女を直視できない僕は、目を逸らすように彼女の作った焼きそばを頬張る。
「あ、そうだ。ねぇねぇ」
「なに?」
「この髪型、どうかな?変じゃない?」
そう言って、彼女は立ち上がって数歩前に出る。今はメイド服から着替えて、いつもの制服を着ているが、その印象は違って見える。その時にした化粧と邪魔にならないようにシュシュでまとめた髪のせいだろうか。
「いいと思うよ。機能的で邪魔にならないだろうから」
「ほんとはお団子にして纏めようかなって思ってたけど、大崎くんがそう言うならこのままにしよっかな」
「好きにしたらいいよ」
「……ねぇ、気づいてないの?」
「えっと、何のこと?」
笑っていたかと思うと、いきなりその表情が険しくなる。やっぱり感情の上下が激しいな、とか思ってしまったけど、そんな場合じゃなさそうだ。
「ん!ん!」
何も言わずに、ただ頭を小さく揺らしている。綺麗にまとまった髪がプラプラと揺れるだけ。一体、彼女は何に気づいてほしいのだろうか。
「……髪切ったとか?」
「ちーがーう!それなら、最初会った時に言うでしょ!」
どうやらはずれらしい。となると、一体何なのか。
今朝の段階で既に変わっていたことではなく、今こうして会った時に変わっている点。
メイド服から制服に変わった。化粧は…今朝の段階でしていた。あとは、髪を束ねていることくらい…で……
「あ…」
「気づいた?」
「そのシュシュ、昨日買いに行ったやつ?」
「そう。もぉ、やっと気づいてくれた。まったく、遅いよ?女の子の変化にはちゃんと気づかないと」
怒ったような口調ではあるが、その言葉尻は少し上ずっているようにも聞こえる。
でも、確かに。彼女がシュシュをしていることには気づいたものの、それが昨日買いに行った物ということまでは意識が回っていなかった。これでは、彼女が怒るのも無理はないのかもしれない。
「心に留めておくよ」
「そうしておいて。じゃあ、私はもう戻るね。暇があったら、一緒に回ろうねー!」
聞きたいことが聞けたと言わんばかりに上機嫌になると、無理やりで一方的な口約束を残して、彼女は戻っていった。
残ったのは彼女に教えられた豆知識と貰った食べ物、そしてさっきより甘さが控えめになった気がするおしるこだけ。
……
教室に戻ってからは、また忙しくなった。正午が近いのもあって、人の入りは激しくなった。文化祭開始当初ほどではないにしても、本格的に忙しくなるのはこれから。また、倒れてしまわないかと、自分のことながら心配になってしまう。
ただ、幸か不幸か、そんな疲れなんてものを感じる暇もないくらいに昼時は忙しくなった。おそらく、ゆっくりと座って食事できる場所が限られているため、ここに人が殺到しているのではないかと思う。
が、そんなことを考えていても人の量は減らないので、今はただ、一心にフライパンを振るだけ。
……
一日で最も忙しいであろう時間の昼時が過ぎ去り、僕たちのクラスは一応の落ち着きを手に入れていた。
まだ、ちらほらと人はいるものの、これくらいの人数であればどうということもない。僕含め、調理担当の全員がもはや歴戦の猛者のような顔つきである。
「大崎、そろそろ皆で休憩してこっか」
「そうだね。ていうか、勝手にこっちはこっちで休憩してるけど」
「全然いいよ。とりあえず、今日のピークは過ぎたみたいだからさ」
「これだと、明日も大変そうだね」
「だね~。今のうちに他のクラスに顔出しに行こうかな。あんたも行く?」
「いや、僕は顔を出すクラスがないから行かない」
他のクラスに友達なんていない。そもそも、自分のクラスですら怪しいというのに。
そういう理由もあるけど、単純に疲れてあまり動きたくないというのもある。
「いいの?春留のクラス見に行かなくてさ。後で怒られても知らないよ~?あの子のクラスって確か食べ物出してたよね」
「それならもう貰ったから」
「ありゃ。そっか、あの子も手が早いね」
いよいよ僕が机と一体化し始めると、小野さんは他のクラスメートを誘ってどこかへ行ってしまった。
それにしても、メイド服のまま行くのか。忙しさの所為で、羞恥をどこに置いてきてしまったのではなかろうか。まぁ、かくいう僕もずっと執事服のままだけど。そして、今更着替える気もなければ、そんな体力もない。
話し相手がいなくなると、途端に眠気が襲ってくる。信じられないくらいに一気に瞼が重くなる。
「マズい、このままじゃ寝てしまう」
そうなったら、また倒れていると勘違いされかねない。まだ文化祭一日目は終わっていないから、そうなっては迷惑極まりない。終わっていても迷惑だろうけど。
これは気力ではどうしようもないと思い、体を動かしがてらコーヒーでも買いに行くことにする。正直言って、全く動く気になれないけど、仕方ない。
気だるい体を起こして、のそのそと教室を出る。
早急に動かねば、本当に机とくっ付きそうだ。
ゆっくりと階段を下り、一階にある自販機の前に立つ。駆動音を響かせるそれの前に立って気づく。この文化祭において、僕と同じような状態の人は多くいるらしい。
「コーヒー系はほとんど売り切れてるし。残ってるのは…ブラックだけか」
できれば甘いほうがよかったけど、背に腹は代えられない。ここでお茶でも選ぼうものなら、残りの時間を耐え抜けなくなる。
小銭を入れ、ため息交じりに光ったボタンを押す。
音を立てて落ちてきたのは、やはりブラックの缶コーヒー。何かの手違いで入れ替わっていたりしないかと期待していたけど、当然そんな都合のいいことはなかった。
近くのベンチに腰掛け、重く感じるプルタブを引く。全く甘い匂いのしないコーヒーを一口啜る。
「にっが…」
およそ感じたことのない苦みが口の中いっぱいに広がる。ただ、飲めなくはない。我慢すれば、この一缶くらいは飲める。
それに、ブラックコーヒーということもあって目が冴えてきた気がする。気力ではどうにもならなくても、思い込みならどうにかなるかもしれない。ただ、昼前に飲んだおしるこの甘さが恋しくなる。
暗示のように頭の中でぐるぐると繰り返していると、本当に目が醒めるような出来事が起こる。
「大崎くん!」
「──ん!?」
突如として、口に激熱の何かをねじ込まれる。強烈な熱さに耐えかねて、持っていたコーヒーを一気に口に含む。
「にっが!あっつ!にっが!」
口も頭も大混乱である。かつて、これほどの刺激に苛まれたことがあっただろうか。いや、ない。あるはずもない。今後の人生においても、おそらくないだろう。
「ちょ、大丈夫?そんなに熱かった?一応、冷ましたつもりだったんだけど」
半泣きになりながら見上げた視線の先には、案の定と言うべきか、彼女がいた。
「神原さん。さては、僕を殺す気だね。だとしたらいいセンスだよ」
「そんなわけないでしょ!いや、ほんとごめんだけど。そんなに熱かったかな」
おそらく、僕が勢いで食いちぎったであろうフランクフルトを彼女も齧る。
「あ、熱っ!ひ~、結構熱いね?」
はふはふと口の中で頑張って冷まそうと、必死に空気を送り込んでいる。その顔は実に滑稽な顔をしているので、苦しめられた恨みが少しだけ引いていく。
「だろうね。僕はそれをいきなり口に捻じ込まれたんだよ」
「だから、ごめんってば。もうしない。お詫びに、お水でも買ってこよっか?」
「いいよ。コーヒーでどうにかするから」
「そっか。…ていうか、すごいね。ブラック飲めるんだ?」
「飲めないよ。これしかなかっただけ、仕方なく」
「そっかそっか」
どうにか口の中が落ち着いた頃、改めてベンチに腰掛けて彼女に訊ねてみる。
「それより。どうしてまた、こんなことを?何か渡したいなら普通に渡せばよかったのに」
「普通にっていうのは…味気ないかなって」
「こんな強烈な味気ならいらないから」
本当に勘弁してほしい。熱すぎて、フランクフルト自体の味なんて分かりもしなかった。そもそも、何を入れられたのかも分からなかった。
「それはごめんってば。お詫びに、このフランクフルトと綿あめもあげるから」
お詫びとは名ばかりに、半ば押し付けられるように渡される。お祭りでは定番中の定番な二つ。ただし、これだけでは組み合わせとしてはイマイチではある。
「それとそれと!この後、文化祭が終わったら教室で待っててね、迎えに行くから。じゃ、私戻るねー!」
「え、いや、ちょっと…」
言うことだけ言って、彼女は瞬く間にいなくなった。
「迎えに行くってなに。ていうか、これ…」
残ったのは、飲みかけのコーヒーともこもこの綿あめ、食べかけのフランクフルト。
これじゃあ、図らずともそうなってしまう。
「間接き……」
いや、彼女にとってはこれくらいのことは日常的にするのだろう。それなら、僕が変に意識することもない。ただ、普通に貰ったものを食べるだけ。それだけだ。
それよりも、彼女はこの後何をするつもりなのか。
どうやら、このまま文化祭一日目が終わっても、今日という日はまだ終わらないらしい。