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ハル、訪れた一週間(その三)


 誰かに料理を振る舞う。そんな初めてのことをした事実は、日を跨いでも僕の中に残り続けた。といっても、嫌な感じはしない。相手が彼女で、その反応がとてもわかりやすく、言葉を尽くしてくれたからだろうか。この初めての感覚に少し酔いしれている自分がいる。


 だからだろう、後ろから迫る彼女に気づけなかったのは。


「おーーはよう!大崎(おおさき)くん!じゃ、私日直だから先に行くねー!」


 校門をくぐるその直前に現れた彼女は、挨拶にも満たない、返事を聞かない一方的な言葉だけをぶつけて、そのまま走り去ってしまった。


 ただ茫然と見送った背中は、既に下駄箱を通り過ぎていた。そんな一瞬で吹き抜けた風を追うように、僕はゆっくりとその跡を辿った。


 教室の雰囲気は相も変わらず冷ややかだが、もう慣れてきた。クラス内で囁かれる噂が消えるより先に、僕がこの空気に順応してきてしまった。


 でも、そんな空気に慣れてきても、あまり意味がない。そんな空気は僕が現れてから数分間だけで、それ以降はいつも通りに授業を受け、いつも通りに時間が過ぎていく。


 滞りなく授業が進み、誰と共有することもなく時間が過ぎ、放課後になっても、僕は一日座っていた席から動かずにいた。無論、誰かを待っているわけではない。


 広げた教科書とノートをそのままに、シャーペンを握って考え込んでいる。今、僕の頭を悩ませていることは主に二つ。


 一つは、直前の授業で分からない部分があったこと。もう一つは、今日も来るであろう彼女にどうやって勉強を教えようかということ。


 この二つのことを考えているが、どちらともに明確な答えを見つけられていない。授業のことに関しては、手段を選ばずに先生に聞きにいけば解決できると思う。しかし、もう一方は…


「なによりも先に、神原(かんばら)さんをやる気にさせるところから始めないといけない…」

「呼んだ?」

「うわっ!」


 そんな独り言を呟いた途端に、真横に本人が現れた。いや、突然ではなく僕が気づかなかっただけだろうけど。人間の集中力とはおそろしいものだ。こうも周りが見えなくなるとは。


「あっはっはっ!すっごいびっくりしてる!そんな大崎くん、初めて見た」


 腹を抱えるほどに大笑いする彼女はずいぶんとご機嫌そうだ。一方の僕は、驚かされた気分で少しげんなりしている。今も心臓がうるさいくらいに早鐘を打っているのは驚いたからであって、決して間近にあった彼女の横顔に感情が揺さぶられたとか、そういうことはない。


「ずいぶんと静かに近づいてくるんだね」

「そんなことないと思うよ、大崎くんが気づかなかっただけで。なにしてたの?そんなに集中して」


 彼女は机に広がったノートを後ろから覗き込んでくる。


 相も変わらず距離が近い。いつかの図書室のように僕の視線のすぐ横に、真面目な表情で凛とした顔が、彼女特有の少し甘く感じる香りが、よく通るはっきりと澄んだ鈴の音のような声がある。


 彼女の発する全てを間近で感じ、再び鼓動が高くなる。やはり認めざるを得ないのかもしれない。今の僕は、彼女の挙動に惑わされている。


 が、そんなことは口が裂けても言えないので、あくまでも平静を装って話す。


「さっきの授業でちょっとね」

「わからない箇所があったの?珍しいね、大崎くんでもわからないことってあるんだ」

「そりゃあね。最初から全部を理解できるわけがない」


 そんなことが出来るのは天才か、ものすごく頭の回転が速い人くらいだ。でも残念ながら、僕は天才ではなく凡才で、理解しようと努力しなければ理解できない人間だ。


「私が教えてあげよっか?」

「……は?」


 あまりに素っ頓狂な提案に、思わず声が低くなる。教えてあげるって、彼女が僕に?それは立場が逆というもの。こと勉強に関しては、彼女に教わることなどない。


「いや、ごめん。大丈夫、ちょっと先生に聞いてくるから」

「まぁまぁ、そう言わず!最近やった範囲なら私だって覚えてるよ。同じ授業受けてるんだし」


 立ち上がろうとした僕の肩を上から押さえ込む形で止められる。強制的に着席させられ、神原先生の特別授業が始まった。


 ……


「本当に教えられるなんて…」


 授業が始まって五分ほど経つと、特別授業は終わり、広がったノートには間違いのない答えが書かれ、僕の頭は問題を理解していた。


「ふふん!これでも私は地頭は良いってよく言われるからね」


 それはこの数分でよく分かった。内容を理解していることもそうだが、それを他人にわかるように教えられることに感心する。


 でもまさか、僕が教えるより先に教えられるとは思ってもいなかった。なんだか少し、ほんの少しだけ悔しいと思ってしまう。


「これなら、僕が教える必要ないんじゃない?」

「いや~…それは…なんというか……忘れちゃうんだよね。今はまだ覚えてられるけど、時間が経つと頭から抜けてくっていうか…」


 その時は理解しているけど、時間と共に忘れていく、と。それがなければ、彼女の成績はかなり上の方になるだろう。今の成績を詳しくは知らないけど。


「それなら、単純に復習すればいいだけじゃない?」

「それじゃあ、つまらないじゃ~ん。だから、ね?楽し~く教えて?」


 というわけで、なぜか場所を移して図書室へ。誰もいなかったのだから、教室でもよかった気がする。僕としてはいつもの図書室の方が集中できるから、どっちでもいいけど。


「さて。まずは、神原さんがどのくらいの成績なのか把握したいんだけど…前回のテストの成績は覚えてる?」


 前回というのは二学期の中間テストのこと。僕と彼女が出会う少し前に、中間テストは終わっている。教えを乞う頃合いとしては少し遅い気がするけど、今後のためにもなるから無駄にはならない。


「あー…それは…うん!よかったよ!よかった!結果としては良い方だったと思う!」

「良し悪しの判断は僕がするから。具体的な数字は伏せてもいいから、学年で何番くらいだったとか分かる?」

「はい…」


 その後、彼女から聞き出した成績は概ね僕の予想通りだった、主に悪い方で。


 ただ、全ての教科が悪いわけではなく、むしろ人並み以上に得意な科目もあった。


「基本的に赤点より少し上くらい。平均点よりは下、と。でも意外だね、文系だけは点数高いなんて」

「文系だけじゃないよ!体育だって得意だから」

「基本教科の話であって、体育は関係ないから」


 僕が体育だの美術だのまで教えることはできない。成績が良いと言っても、そっちの科目は人並みだ。


「いいもーん。私は文系の成績が良いことに誇りを持って生きていくから」

「じゃあ、他の教科も誇れるようにしようか」


 自他共に認めるように彼女は地頭がいい。これは僕の予想でしかないが、きっと彼女はちゃんと勉強さえすれば平均点以上は簡単に超えられる気がする。


 そんな彼女に僕ができることといえば、ちゃんと勉強するように監視することと、分からない部分をその都度教えることくらいかもしれない。


 最初から最後まで付きっきりで教える必要はなさそうだ。


 ……


 こうして、僕と彼女の初めての勉強会が始まった。


 始めこそ集中力が散漫な彼女だったが、ひとたび火が点けば真面目そのものだった。本来の彼女はこういう人なのかもしれない。周りの影響で勉強ができなかっただけで、環境さえ整えばやれる人なのだと、そう思った。


 だけど、その判断はあまりにも早計だった。やはり、彼女は彼女だった。意外な一面などなかったのだ。


「もう……むり…」


 開始十五分、早くもダウン。机に雪崩れた彼女の体力(ライフ)はもうゼロだ。


「まだ普段の授業分すらしてないけど」

「いつも以上に集中してるからだよ~」


 確かに最初こそ集中していたが、それは最初だけ。授業一つ分すらもたないようでは、この先が思いやられる。


「休憩しよー、休憩しよーよー」

「まぁ、そうだね。最初から詰め過ぎても飽きるだけだし」

「やった!大崎くんが話の分かる人でよかった」


 僕が受け入れた瞬間に、持っていたシャーペンを放り投げて背もたれに身を預ける。


「くぅ~~!!こんなに真面目に勉強したのなんて受験以来かも」


 これでもかと大きく伸びをする。まだ十五分しか経っていないとはいえ、今まで勉強を避けてきた彼女にとっては大きな進歩かもしれない。


「あ、大崎くん大崎くん」

「なに?」

「チョコ食べる?脳を働かせたら糖分を補給しなきゃね。ていうか、食べて」


 鞄から取り出した小さなポーチから個包装のチョコが一つ、僕の前に置かれる。少し変わった形をしているそれは、元々こういうものなのか、それとも…


「ちょっと溶けてない?」

「文句言ってないで食べて。ほら、まだまだいっぱいあるから」


 机の上に置かれたポーチからいくつもチョコが零れる。どうやらポーチいっぱいに詰まっているらしい。


 図書室での飲食が禁止とは聞かないが、憚られる空気に後ろめたくなりつつも、貰ったチョコを口に放り込む。


 思った以上に甘いその味に僕の頭は満たされていく。


「ありゃ~、見てみて大崎くん。このチョコ、カビ生えてるかも。ここ白くなってる」

「それはカビじゃなくて、チョコレートの成分だね。一回溶けたから分離してるだけだと思う」

「食べてもいいの?」

「問題ないよ」

「じゃあ、いただきま~す」


 次いで彼女も口に運ぶ。その甘さを噛みしめているのか、チョコ一つで恍惚とした表情を浮かべている。僕とは違い、彼女はチョコレート一つでこうも表情をコロコロと変える。


「あぁ~、チョコの甘味が脳に沁みるよ~」

「それなら、もっと勉強できそうだね」

「……ちょっとお手洗いに」


 逃げた。僕の一言で休憩が終わると察したのか、パタパタと図書室から逃げて行った。


 逃げた彼女を目で追った後、僕はもう一つチョコの包みを解いた。再び、口いっぱいに広がる甘さに、脳が活性化してきた気がする。まぁ、気がするだけで、チョコレートにそんな効果はないだろうけど。


 それから、いくつか追加でチョコを口に放り込みながら彼女が戻るのを待っていると、何食わぬ顔でついでに買ってきたパックのジュースと共に、彼女は帰って来た。そのジュースを片手にチョコに手を付け始める。まだ勉強は再開させないという意思表示のように。


 チョコを一つ、ジュースを一口含んだところで、彼女は世間話を始める。タイミングが良いのか悪いのか、僕が勉強を再開する提案をしよう口を開きかけた瞬間、彼女の方が一歩早かった。


「ねぇねぇ、そろそろだよ」

「なにが?休憩の終わりが?」

「違うよ。休憩はまだまだ終わらない。そうじゃなくてね、あるでしょ、もうすぐ」

「だから、なにが?」

「それ、本気で言ってる?」


 僕は本気の本気で何のことか分からないのに、彼女は心底意外そうに何度も聞いてくる。たったこれだけの会話で物事を察せるほど、僕は天才でもなければ、人の心を読めるなんていう超能力もない。


 つまり、彼女の言わんとすることがさっぱり分からない。


「文化祭があるでしょ!十一月に」

「……あぁ、そういえば」


 言われてから、数秒考えて思い出す。入学当初に目を通した年間行事予定表に、そんな文字があった気がする。


 自分とは全く縁もゆかりもない行事と思って忘れていた。事実、クラスでも浮いている僕が積極的に参加するものではなければ、そんな意思もない。


「楽しみだね~?毎年、各クラスや部活で色んな出し物があるらしいよ。外部からも人を呼んでいいから、いっつも盛り上がってるんだって」

「ずいぶんと詳しいね」

「ふふん、楽しみだからね!きっと大崎くんにとっても、楽しい文化祭になるよ!」

「楽しくなくていいよ。何事もなく無事に終わってくれれば」


 僕のクラスで何をするかは分からないけど、何をするにしても僕は裏方に回って目立たずに過ごせればそれでいい。文化祭なんてものは、彼女のような明るい人たちが率先して楽しむものであって、僕のような陰気な人間のためには存在していない。


「いーや、絶対に楽しい思い出になるよ!私が保証してあげる!」


 彼女の自信は一体どこから来るのか。


 どうにも嫌な予感がする。またしても、僕は彼女に振り回されてしまうのだろうか。そんな予感に、少し背筋が冷える。


「そんな保証をするよりも、次のテストで良い点数が取れるように勉強しようか。少なくとも十五分はノートと向き合うってことで」

「もぅ…勉強勉強って、大崎くんはそればっかりだね。もうちょっと楽しい話をしようよ」

「……」


 この言葉の意図を僕は理解している。理解しているから、見え透いた罠にはかからない。これは彼女なりに、少しでも勉強を先延ばしにしよう手段を講じているに違いない。


 だから、僕は心を鬼に…しなくても、彼女に鞭を打つ。


「いいから、早くシャーペン持って。続きから」

「ちぇ~」


 唇を尖らせながらも、結局は教科書と向き合う。


 ……


 それからは、図書室の閉館時間まで休憩を挟みながら勉強を続けた。休む度に文句を垂れていたけど、しっかりと最後までやりきり、逃げることはなかった。


「ふぁー!勉強したした!もう一生分はしたね」

「だとしたら、神原さんの一生は明日にでも終わりそうだ」

「私の命、短くない!?」


 そんな冗談を言いながら、下駄箱を通り、校門を抜けたところで僕たちは別々の道を歩く。


「じゃあ、また明日」


 それだけの短い挨拶をして、僕は自分の道を進む。だけど、その道は僕一人ではないらしい。


「神原さんはこっちじゃないよね?」

「そうだけど。もうちょっと話そうよ。大崎くんが勉強勉強ってうるさいから、全然喋れてないし」


 さも当然かのように、僕の隣を歩く存在に違和感を感じなくなってきている。僕の意外な適応能力が発揮されているからか、それとも彼女が人の心に入るのが上手いのか。


 可能性としては、後者の方が断然高いだろう。


「神原さんが勉強を教わりたいって言ったんだけど?それに、そんなことしたら、また僕の所為で神原さんの帰りが遅くならない?」

「こんなにも鬼教師みたいに言われるとは思ってなかったの。それと、大丈夫だよ。そんなに長い時間は話さないし、この先の道を途中で曲がれば、いつもと大差ないから」

「鬼教師とは、ずいぶんな言い方だね」


 彼女の僕に対する印象に物申したくはあるけど、意外と真面目に教わっている姿勢を鑑みて、何も言わないでおく。


 少しだけ長くなった彼女との時間。そんな少しも、他愛もない話で消えていく。


 でも、消えていく時間も、誰かが隣にいる感覚も、嫌な気はしなかった。それは、隣を歩くのが彼女だからだろうか。


 ……


 一週間における最後の登校日ともなれば、学校中の空気は少しだけ浮ついて感じる。放課後の予定、休日の過ごし方を話す声がそこかしこから聞こえる。


 だが、そんな空気に流されることなく、僕は一限目から集中して授業を聞いていた。特に今日という日は授業以外での勉強時間が少なくなる。今のうちに頭に叩き込んでおく必要がある。


 勉強も大事だが、それと同じくらい大事なこともある。


「大崎くーん!今日も一緒にがんばろー!」


 放課後には似つかわしくない掛け声を伴って、もはや当たり前のように彼女は僕を呼ぶ。


 帰る人や部活に行く人、多くの人が行き交う雑踏の中でも彼女は僕を見つけ、彼女の声は僕に届く。


 ただ、この状況は好ましくない。これからの僕の予定と、今の彼女のやる気は嚙み合っていない。


「やる気になっているところ悪いんだけど、今日は帰るよ」

「そうなの?毎日、勉強すると思ってたのに」

「バイトがあるんだ。週末の三日間は」

「バイト!この前言ってたやつだね!」

「そういうこと。じゃあ、僕は図書室に行かないけど、神原さんまでそうする必要はないから」

「じゃあ、また来週かな?」

「そうだね、また来週」


 僕たちはいつもとは違う場所で別れる。いつもとは違い、小さく手を振るその仕草は、彼女の心情を表しているようにも見えた。その心情というのは、僕の都合のいい解釈かもしれないけど。


「バイバイ」


 階段を下りる僕の背中から、そう聞こえた。


 ……


 僕の休日は、昼頃から時間が動き始める。それまでは、時間感覚を忘れたかのようにゆっくりと朝食を作り、洗濯をして、軽く掃除をするだけ。時間になれば、家を出て、バイト先へと向かう。


 半年も経てば、学校生活に慣れるのと同じで、バイトにもいくらか余裕が生まれる。最近では、帰ってから勉強ができるくらいには体力を温存できている。最初の頃は、ヒイヒイ言いながら帰っては、すぐにベットに潜り込んでいた。


 そんな週三日のバイトの最終日。客足の少ない時間になり、僕は裏の休憩室へと移動する。


 休憩室といっても、僕はそこで休憩をするわけじゃない。この二日は、ほとんど勉強をする時間が取れなかったため、その埋め合わせをしなければならない。


 こんなこともあろうかと、鞄にしまっておいた勉強道具一式を取り出す。


 と、そこで店長が顔を覗かせる。


「大崎くん。あれだったら、もう上がっていいよ。後は私たちだけでもどうにでもできるから」


 少し考える。店長の提案は、僕が勉強を始めるのを見て気を使ったのもあるだろうけど、あながちそれだけでもないと思う。今の時間に帰れば、勉強の時間を少しくらいは確保できる。それに、このまま残っても何もしないで給料泥棒みたいになるだけ。


「じゃあ、上がります。すみません、なんか中途半端で」

「いいの~。今日も助かったから~」


 人当たりの良い柔和な笑みを浮かべる店長には、本当に頭が上がらない。


「あと、これ。お弁当もあげちゃう~。今晩のご飯にでも食べて」

「…ありがとうございます」


 この厚意にも頭が上がらない。これでは世話をされに来ているようなものだ。


 ……


 日が真上から少し傾き始めた午後。弁当の入った袋を片手に、家までの道のりをゆっくりと歩く。


 早く帰れば、その分勉強の時間を取れるとも考えたが、この時間であればゆっくりでも充分に時間は確保できる。そう、急ぐ必要もない。


 と、思っていたが、僕はこの選択を後悔する。なんとも間と運の悪いことに彼女と遭遇してしまったのだから。


「あれ?大崎くん?おぉーーーい!!おーーおーーさーーきーーくーん!」


 遠くから、聞き慣れてしまった声が聞こえてくる。聞こえていないふりをして、このまま通り過ぎようかとも思ったが、そうしたところで追いかけてくるのがオチな気がした。


 諦めて、追いかけてきているであろう彼女の方を見る。声のした方を見ると、やはり彼女──神原さんが手を振ってこちらに来ていた。


「やっぱり大崎くんだ!休日にも会うなんて、珍しいこともあるもんだね」

「そうだね。こんな偶然があるなんて」


 こんな偶然はなくてもよかった。正直言って、今彼女に会えば、そのまま捕まって家に帰る時間が遅くなる未来しか見えない。それでは、店長の厚意も折角の休日の時間も、何もかもが無駄になりかねない。


「なにしてたの?その袋を見るに…買い物とか?」

「いや、バイトの帰り。これはそこで貰った弁当」

「おお!バイト帰りだったの!偉いね~、頭撫でてあげよっか?」

「しなくていい。子供じゃあるまいし」


 本気だったのか、僕の頭に向けて彼女の手が伸びていた。本当にいいの?、と言わんばかりに首を傾げているが、冗談じゃない。同級生に頭を撫でられるなんて羞恥しか感じない。


「そういう神原さんは、何してたの?」

「私?私はね~……」


 社交辞令的に質問を返したが、待っていたと言わんばかりに口角が上がる。


「デート、してたの」

「デート……」


 全く聞き慣れないその単語を、ただ繰り返す。それを理解して思い至る。


「じゃあ、その相手を待たせてるんじゃ……」

「大丈夫!相手は妹だから。ほら、あそこにいるでしょ」


 指差す先、彼女が向かって来た方向に確かにいた。少し遠い場所で、彼女よりも短い髪を風に遊ばせている、なんとも不機嫌そうな顔をしている子が。


「ああ、いるね。なんか、睨まれてる気がするけど」

「あの子、ちょっと目が悪いからね」


 あの顔はそういうことではないと思う。目を細めるのと、睨むのとでは大きく違う。そして、今のあの子の状態は後者だろう。


「妹さんの視線が怖いから、僕は帰るよ。じゃあね」

「うん!また明日、学校でね~」


 明るく手を振る姉とは対照的に、妹の方はいつまでも険しい表情だった。


 ……


 その後、彼女に捕まったものの思ったより早く帰れたこともあり、僕の勉強は捗った。


 貰った弁当を食べ、勉強も一段落ついた頃、今日の出来事が頭をよぎる。


「神原さんに妹がいたとは…」


 実のところ、かなり驚いている。あのだらしなさで姉とは…。妹であるあの子の苦労は計り知れない。家での様子は知り得ないけど。


「ていうか、なんであんなに睨まれていたんだ?」


 今思い返しても、あれは睨まれていたと思う。彼女がデートと言っていたから、その邪魔をされたからかもしれない。まぁ、本当に目の悪さゆえに細めていただけかもしれない。


「どっちでもいいか。もう会うこともないだろうから」


 そんなことを思いながら、夜は更けていく。


 目まぐるしく僕の日常が変わり、その中心に春を纏った彼女が現れた。


 僕の穏やかだった日々があっという間に、彼女の春風に攫われた。


 その風が連れてきた新しい日常には、まだ慣れない。


 そんな日々でも、僕は彼女からいくつも新しい発見を教えられる。


 ハル、訪れた一週間。彼女との始まりの日々が終わる。

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