この季節を、好きになりながら
その日、目が覚めたのは、けたたましくスマホが着信を知らせて鳴り続けていたから。春休みに入り、少しはゆっくりと過ごせるかと思いきや朝一番からこれである。
なんとなく、相手が誰だか見当がついていたため、寝ぼけた眼でも特に気にすることなく通話を開始する。そして、聞こえてきたのは予想通りで、昨日が夢ではないと安堵させる声だった。
『桜!おはよう!』
背筋に少しだけ、緊張が走る。やはり、受け入れてくれたと分かっていても、まだ怖い。だけど、それ以上に、嬉しそうに名前を呼んでくれることで、僕も嬉しくなる。
「……おはよう、神原さん…」
『もしかして、今起きた?ていうか、私が起こした?』
「まぁ、うん…」
『じゃあ、ちょうどよかった。今日さ、ちょっと出掛けない?』
「いいけど…何時から…?」
『できるだけすぐ!』
「分かった。じゃあ、ご飯とか食べて、着替えたりの準備が終わったら、また連絡するよ」
『うん、待ってる!……えへへ…』
「どうしたの?」
『ううん。こうやって、朝に桜と電話してると思ったら嬉しくて。夢じゃないんだなって』
「それは僕も同じだよ。神原さんが僕を名前で呼んでくれることが、夢じゃないって教えてくれる」
『……桜は、私のこと、名前で呼んでくれないの?』
「いや、それは…」
『今はもう、呼ぶような関係で、そうする理由もあると思うけど…?』
「…………準備があるから切るね。じゃあ、また後で」
『え、ちょっと!?にげ────』
彼女が文句の一つを言う前に、赤い色の通話終了のボタンを押す。静かになったスマホの画面には、寝ぼけていたはずの目がしっかりと冴えた僕が映る。そこから少し視線を動かして窓の外を見れば、この季節に似合う青に少しの白を足した空がある。
「ハル……か」
そう呟いて、もう一度視線を落とした暗い画面には、口角の上がった顔が見える。これでは、しばらくは呼べそうにない。もう少し、自然に呼べるようになりたいものだ。彼女がそうしてくれるように。そうすれば、きっと彼女も笑って───
「…そっか、そういうことか」
そこで気づく。どうして、彼女が僕の名前を呼びたがったのかを、僕に名前を呼んでほしいのかを。
嬉しいんだ。名前を呼べることも、呼んでくれることも。そうできることが堪らなく嬉しい。彼女はずっとそうしたかったんだ。そして今は、僕もそう思っている。
だけど、もう少しだけ時間がほしい。昨日の今日では心の準備というものができていない。それに、彼女に会う準備も。
……
一時間ほどで諸々の準備が終わり、神原さんに連絡を取ると、十秒もしないうちに返信がきた。この一時間、ずっとスマホと睨めっこしていたのではないかと思うほどの返事の速さ。だけど、それが彼女の気持ちを表していると思うと、少し嬉しくなる。
集合場所について聞くと、返ってきた答えは記憶に新しい場所だった。同時に、忘れることのない思い出の場所。つい昨日、僕と神原さんが想いを交わしたあの桜並木が広がる河川敷。
彼女はもう一度、桜を見に行きたいらしい。でも、それが分かると僕の足はどうしても重くなる。神原さんが隣にいてくれると分かっていても、こればかりは億劫になる。
そんな僕の心情を見越してか、神原さんから本日二度目の電話がかかってくる。
「もしもし…」
『見に行こう、桜!大丈夫だよ、私がいるから。そんなに不安なら手を繋いであげる、傍にいてあげる。だから、行こう!私は、桜に少しでもハルを好きになってほしいの』
「……なら、このまま話しててもいいかな?僕が不安を感じる暇なんてないように、神原さんが掻き消してよ」
『もう、仕方ないな~。桜の頼みとあらば、応えてあげようじゃないか!』
「ありがとう。初めて、神原さんがお喋りな人でよかったと思えたよ」
『あー!一言余計だよ、まったく!そこは素直に、ありがとうだけでいいの』
諭すように怒る彼女だけど、その後ろには楽し気に笑う声が聞こえてくる。どこまでも人との会話を楽しむ彼女の姿が、たとえ電話越しであろうとも思い浮かぶ。
『お花見が終わったら、どこかでお昼にしようね?たぶん、いい感じの時間になってると思うから』
「いいよ。神原さんは何か食べたいものある?」
『私は、そうだな~…お花見の後だし、お洒落なものがいいと思う』
「ちょっと抽象的すぎない?何も具体的なものが思いつかないんだけど」
『お洒落なものだよ!ほら、えっと…そう、桜餅とか!』
「それ、おやつじゃない?ご飯って感じがしないよ」
『じゃあ、そういう桜はどうなのさ!私以上にお洒落なもの言える?』
「うーん……やっぱり、桜餅でもいいかもね」
『ほーら、私の言った通り!』
電話だから分かるのは声だけなのに、今の彼女がふんぞり返って威張っているのが容易に想像できる。きっと、今頃は天狗になっていることだろう。その様子を直接見れないのは残念だけど、声色一つで僕に感情を伝えてくれる彼女に、少し嬉しくなる。
「………」
今日の僕は、どこかおかしいかもしれない。事あるごとに神原さんの言動を嬉しく思っては、喜びを感じている。昨日の今日で、僕は何から何まで絆されてしまっているようだ。
『どうしたの?急に黙り込んで』
「…いや、人ってこうも簡単に変えられるだなって」
『何の話?』
「神原さんが嬉しいと、僕も嬉しいって話」
『………』
「どうかした?急に黙り込んで」
『桜って、躊躇いなくそういうこと言うんだね。びっくりしちゃったよ』
「そりゃ言うよ、事実だからね」
『そういうとこだよ!』
黙っていたことが嘘のように、一転して今度は声を荒げる。また怒っているような声色だけど、これに照れが含まれていると一つ前の彼女の反応が教えてくれる。
「神原さんがそこまで言うなら、できるだけ改善してみるよ」
『…別に、だめとは言ってない…』
また僕に感情を伝えてくれる声に、どうしても嬉しくなって口の端が少し上がる。対して、今の彼女は俯いて少ししょぼくれてるかもしれない。
『今の桜、私のこと笑ってる』
「笑ってないよ」
『笑ってる。見えてるんだから誤魔化せないよ!』
そう言った彼女の言葉通り、目線を少し上げた先には、暖かな陽射しと心地の良い風を包み込んだハルがそこにはいた。遠く、声の届かない距離にいる彼女だけど、その膨れた頬はここからでも見て取れる。
それを見て、また僕が微かに笑い声を漏らすと、距離を超えて、僕の耳に声が届く。
『やっぱり笑ってる!桜はひどい人だよ。罰として、桜がこっちに来て』
「はいはい」
笑っているのがバレてしまい、とてもご立腹なので、今は大人しく指示に従うほかない。
特に急ぐことはせずに、ゆっくりと彼女との距離を詰める。その間も、どちらとも通話を辞めようとはしなかった。というより、笑っていたことに対して彼女がこんこんと説いてきているから切るに切れなかった。
近づくにつれ、様々に色を変える彼女の表情が見えて、僕はまた笑ってしまう。
「まーた笑ってる。私の話、ちゃんと聞いてた?」
「もちろん聞いてたよ」
「ならいいけど。……桜、よく笑うようになったね。昨日から、そうな気がする。私のお蔭?」
「そうだね。全部が神原さんの影響って言ってもいいと思う」
「それって、私と付き合えたからってこと!?」
「それもあると思う。でも、一番大きいのは、やっぱり名前だよ。僕の名前を受け入れてくれた、今もちゃんと呼んでくれてる。それが、僕を変えたんだと思う。我ながら、単純に変わったとは思うけど」
「じゃあじゃあ!私のことも名前で呼んでよ!ね?ね!?」
「それは…またの機会でもいいかな…?」
「いいよ!それってつまり、いつかは呼んでくれるってことだから。いや~、その時が楽しみだな~」
期待値を必要以上に上げる彼女に、僕は応えられるだろうか。こうも期待されては、ただ名前を呼ぶだけでは満足してもらえなそうだ。
心の中で、何度か彼女の名前を唱える。だけど、何度こころの中で呼ぼうとも、実際に口に出すことは難しい。それでも、彼女の名前を呼びたいという前向きな気持ちはある。この暖かな季節が終わるよりも先に彼女を呼べるよう、僕はもっとハルを好きになりたいと思う。
……
そんな僕よりも、容易に彼女を名前で呼ぶ人が、今の僕たちの目の前にはいる。それも、二人も。
「というわけで!私たち、付き合うことになりました!」
「あー…はいはい、おめでとうおめでとう。今更すぎてどうでもいいわ」
「ひどいや、親友!そんな言い方しなくたっていいでしょ!今まで散々、協力してくれたのに。秋希はそんなこと言わないもんね~?」
「よかったね、お姉ちゃん。ずっと、大崎くんのこと好き好き言ってた甲斐があったね」
「そんなこと言ってないよね!?」
「言ってないだけで、みんな気づいてた。気づいてなかったのは、少し前の春留と大崎の二人だけ。だから、今更って言ったの」
と、祝福される気しかなかった神原さんは、親友である小野さんの辛辣な一言に撃沈。というか、そんなに神原さんは僕に好意全開だっただろうか。思い返してみても、どうにもそんな気がしない。
「ていうか、あんたたち二人でお昼食べるって言わなかったっけ?もう食べたの?」
「お花見の後に桜餅を食べたんだけど、あれはお昼ご飯にはならないね」
「私と秋希を待たせて、二人の時間を楽しむとか何とか言ってた割に早く終わったわけね」
「なんか、言い方に棘ない?」
「独り身の私たちにリア充をアピールしてくるのは嫌味でしかないでしょ。秋希、この二人の貴重な時間をとことん邪魔するわよ。私は坂下を呼ぶから、秋希は市井ちゃん呼んで」
「わかりました」
「なんか、秋希ちゃんが今まで一番生き生きしてる気がする」
「んでもって、ここの飯代は全部、大崎に払ってもらう」
「マジか…」
なんてことまで勝手に決められてしまう。僕と神原さんも合わせれば、計六人分。容赦はないらしい。
悪ノリしそうなあの二人が、昼ご飯付きと言われて来ないわけがない。坂下も市井さんも、三十分もしないうちに合流することとなった。集まった場所が、そこまで高くないファミレスでよかったと心底思う。
「んで、呼ばれた理由はこの二人の惚気を邪魔しようって話か」
「よく分かってんじゃん。そういうことよ」
「やっぱり!お二人はそういう関係だったんですね!いや~、疑ってはいたんですよ。春留先輩って、大崎さんの前では恋する乙女全開だったので!」
「あれ…、やっぱり私ってそんなに分かりやすかったかな…」
「付き合いの浅いあたしでも分かるくらいには」
「大崎が特別鈍いだけだ。神原が誰を見てたかなんて、文化祭の時に速攻気づいたっての」
「坂下も知ってたんだ…」
本当に、神原さんの好意に気づかなかったのは僕だけだったらしい。そして、彼女自身もしばらく気づいていなかったらしい。となると、彼女はどうやって自分の気持ちに気づいたのだろうか。何か、きっかけのようなものでもあったのだろうか。
「ま、いいじゃねぇか。今こうして付き合えてるわけだから」
「そうそう。だから、たらふく食べなよ。…あんたの奢りだけど」
自分の祝い事に対して、自分で奢る。こんなにも空しいことがあるだろうか。明後日の方向を向きそうになっている僕に、天から…もとい、友達から救いの手が差し伸べられる。
「そう落ち込むなって。俺と割り勘といこうぜ」
「坂下…!初めて、坂下が友達でよかったと思うよ…」
「なにげ失礼だな。ま、いいけど」
こうして、僕と神原さんからの報告…という名の自慢が終わり、それからは昼食を摂りながら、思い思いの会話が繰り広げられた。
秋希ちゃん、神原さん、僕の順で片側を、市井さん、小野さん、坂下の順でもう一方に座っていたのだが、本当に各々が好きに話すので、会話がそこかしこで交錯していた。
ちなみに、この席順になったのは、僕の隣には自分しか座らせないと神原さんが豪語したので彼女が真ん中になった。反対側は、市井さんの隣に坂下を座らせたくない小野さんの策略によりこうなった。どうしても、坂下を市井さんに近づけたくないらしい。
そんな混沌とした会話が続き、テーブルが運ばれてきた料理でいっぱいになり、僕と坂下の財布は軽くなった。とはいえ、僕たち二人もそうだけど、何より他の四人がとても満足そうにしていたから良しとしよう。
絡まり合っていた会話も終わり、テーブルの上の皿も片づくと、それぞれが最後の一杯で昼食を締めくくって店を後にした。ただ、会計の時に見た値段には少し驚いた。さすがは食べ盛りが六人。つくづく、坂下がいてくれてよかったと思った。
店を出ると、僕たちを気遣ってか、他の四人は別行動をする流れになっていた。主に小野さんからの揶揄いを受け、僕と神原さんはまた二人きりに。そして、僕と一緒に会計をしていた坂下は、神原さんを抜いた女子三人の輪には入れなかった。小野さんが秋希ちゃんと市井さんを守るように拒んだため、一人帰ることを余儀なくされた。色々と助けられた手前、とても可哀想に思うものの、僕にはどうしてやることもできない。
何か慰めの言葉をかけるべきかと思ったのだが、僕の考えに反して坂下は意外と素直に受け入れていた。というのも、小野さん一人ならともかく、関わりの薄い二人がいると気まずくなると見越していたらしい。大人しく、一人背中を向けて帰って行った。ただ、猛ダッシュで去ったあたり、少しくらいは悔しがっていたのかもしれない。
「んじゃ、私は可愛い後輩を両脇に抱えて、買い物でも行ってくるわ。暗くなる前には帰るから」
「うん、よろしく~」
「では!後は、二人で楽しんでくださーい!」
そんな坂下とは逆方向、賑わう街の中心へと消えていった。そして、最後に残った僕たちといえば…
「どうしよっか?皆がああ言ってくれたことだし、もうちょっと寄り道する?」
「そうだね。もう少しだけ」
僕たちも歩き出した。ゆっくりと、元来た道ではなく、また違う道を、この時間がいつまでも終わらないように。
……
今、僕は三度目の景色を見ている。空の端が赤く染まり始めた時間。いつまでも散り続けるような花びらたちが、薄く夕暮れ色を纏っている。昨日見たそれとも、昼に見たそれとも違う。彼女と出会わなければ、一生知ることのなかった景色。今はそれを、隣に座る彼女と共有できている。
「桜も食べる?お団子おいしいよ?」
「花より団子…」
「違いますー!花も団子も両方楽しんでますー!」
「食い意地のが張ってそう」
「じゃあ、残りはあげる!私が食い気ばっかりじゃないってことを教えてあげる」
「なら、遠慮なく…」
「っ!?」
差し出される串を迷わず掴むと、分かりやすく彼女の顔が変化する。言葉にしなくとも分かる、食べたいのだと。ただ、本当に食い気ばかりじゃない人は、昼食の前に桜餅を食べたり、それから団子を食べたりはしない…というのは、言わないでおこう。
「食べる?」
「…い、いい!もう桜にあげたの!」
「そう」
であれば、僕が躊躇う理由はない。残っていた最後の一つを食べる。
「あぁ…」
と、横から後悔のような声が漏れてくる。やはり、最後の一口を譲る気はなかったらしい。悲し気に、串だけの姿に変わり果てた団子だったものを見ている。
「やっぱり食べたかったんだ」
「……まぁ」
案外、素直に白状した。顔を俯かせ、名残惜しさを漂わせている。ただそれでも、次の瞬間には何事もなかったかのように笑顔を見せる。
「いいのいいの。私ばっかり食べてても悪いし」
「気にしなくていいのに」
「というのは建前で、本音は桜にも食べてほしかったというのだったり」
「じゃあ、そういうことにしとこう」
彼女がそう言うのなら、そういう事だろう。本当は違ったとしても、そうしておこう。これ以上、なくなった団子のことを思い返さなくていいように。
それっきり、しばらく僕たちの間には静寂が訪れる。いつもお喋りな彼女の声も、今は聞こえない。僕の耳に届くのは、桜の木が風に揺られて鳴らす音、並木の下を首が痛くなりそうなほどに見上げる人たちの声、彼女と出会わなければ聞こえることのなかったものたち。
そして、ただ唯一、その声を聞いていたいと思える彼女の声が、ようやく聞こえる。
「桜はさ……」
「なに?」
「どうして、私のことを好きになってくれたの?」
「いきなりだね」
「そういえば、聞いてなかったなって」
「……理由としては、色々あるよ」
「例えば?」
「例えば…そうだね───」
思い出す。彼女と初めて会った、あの十月の日から。今日に至るまでに過ごした全ての時間を。彼女が掛けてくれた全ての言葉を。
「一番大きいのは、やっぱり…僕を否定しなかったところかな」
「否定っていうのは、名前のこと?」
「それもあるよ。でも、それだけじゃなくて。神原さんは、僕のあらゆる面を肯定してくれた。自分から一人でいるような僕に、僕の良い所があるってお節介にも教えるみたいに。だから、今は特技が料理だって、付き合ってる人が君だって、自信を持って言える。ただ、自分の名前については…まだ難しいけど」
「そっか。私って、意外と桜のこと褒めてたんだね」
「過分なくらいには言葉を尽くしてくれてたよ」
「今好きになってくれてるなら、その甲斐があったってもんだね」
そう言って笑いかけてくれる彼女に、僕も同じ疑問が浮かんでくる。神原さんは、どうして僕を好きになったのだろうか。自分のことながら、そんな要素がないように思える。彼女に対して、何かしたことなんてないはずだけど。
「神原さんは?」
「私?」
「うん。神原さんは、どうして僕を好きになったの?正直言って、僕には思い当たる節がないんだけど」
「そんなことないよ。確かに、私が桜のことを好きになったのは一番初めに会った時だけど、最近までは好きだって自覚もなかったんだよね」
「そうなんだ…?」
何となく予想はしていたけど、やっぱり少し意外でもある。彼女が自分の気持ちに気づいたのは、最近のことらしい。
「そうだよ。一年前のあの日、初めて桜を見た時に私は好きになってた。一目惚れってやつだね。それから、実際話してみたら意外にも優しかった。私が困ってると助けにきてくれて。我慢できなくて泣いた時も、ずっと傍にいてくれた。私のために怒ったりもしてくれた。それに、これこそ意外だったんだけど、冗談も言ったりする。私のこと揶揄ってきたり、ほんと意外な一面だった。他にもいっぱいいーっぱい、語れないくらいあって。だから、好きを自覚したの。……今だから言うけど、私が桜に話しかけたのは、好きだからじゃなかったんだ。あ、でもでも、それは少し違くて。好きだったんだけど、振り向かせようとか思ってたわけじゃないの。ただね、桜を初めて見た時、全然楽しそうじゃなかったから。だから、私は桜に楽しんでほしくて声をかけたの」
「なるほどね。それが、あの文化祭ということか」
「そう。どうしても桜を楽しませたくて、美月に頼んで文化祭実行委員にしてもらった。…今更怒らないでね?桜も楽しいって言ってくれたんだから、いいでしょ?」
「怒りはしないよ。実際、悔しいことに楽しかったから」
「それならよかった!」
そう、紛れもなく僕は楽しんでいた。彼女の思惑通りに、単純にも僕はそうなった。まんまと、彼女にしてやられたのだ。
「この際、他にも聞いていい?」
「いいけど、何かあるの?」
「僕のクラスの女子がいつも怖い顔をしてたのって、僕と神原さんが関わるのが嫌だったのかな?」
「あー…あれはね、嫌っていうよりは、桜じゃ私と釣り合わないって思ってたみたい。ほんとはそんなことないのに。でも、それは最初だけだよ。今は違う」
「今はストーカーか何かに思われてそう…」
「そんなに卑屈にならないでよ、そんなことないから。でも、ちょっと怒ってはいたかな」
「怒ってたんだ…」
「私が桜のことを好きだって自覚した時にね、美月を含めて皆に話したら怒ってた。どうして、この気持ちに気づかないんだって」
「そういう視線だったのか。ちなみに、その自覚っていつ生まれたの?」
「それは……」
と、突然、神原さんが口ごもる。顔を伏せ、ほんのりと夕日に照らされた横顔は隠し切れずに朱に染まっている。これは夕日の所為ではなく、彼女の感情がそうさせている。
「その…ね。実を言うと、これっていうのはなくて。その…学年末テストが終わったら、ご褒美をくれるって桜が言ってくれたの覚えてる?」
「覚えてるよ。そのご褒美が、この景色を見に行きたいってものだったんだから」
「それでね、そうしたいって思うまでにいっぱい考えたの。桜としたいことはたくさんあったんだけど、その中から一つってなると決められなくて。それで、一つ一つ思い出して考えてみた。私が本当にしたいことはどれだろうって」
彼女はその時を思い出したように、柔らかな表情を隠すことなく表す。
「桜と初めて出会った時から、十月の初めて声をかけたあの日、桜の手料理を食べたこと、文化祭のこと、その後のこと。私を支えてくれたことも、私のためにプレゼントを選んでくれたこと。今までにあったこと全部を思い出して、その時に気づいたの。私、桜のことが好きなんだなって。特別な何かはないけど、今まで積み重ねてきた思い出が、自然と私に気づかせてくれた。それから、初めて出会った日に私たちが見た桜をもう一度、君と一緒に見に行きたい。そう思ったの」
「そっか。…なんというか、今まで僕がしてきたことは無駄じゃなかったんだね」
「当然だよ!桜がしてきたことに、無駄なことなんて一つもないよ」
「一つくらいはあるよ。それこそ、僕が中学生になった時は無駄なことをしたよ。わざわざ自分から傷を抉るようなことをしたんだから」
「ううん、それだって無駄なことじゃないよ」
しっかりと、僕の目を見て彼女は首を振る。不意に触れられた手から、体温と共に想いを届けながら。
「確かに、桜の心の傷はない方がいいに決まってる。でも…でもね、こうも思うの。もし、桜の周りの人が、桜を肯定する人ばかりだったら、私は桜に出会えなかったんじゃないかって。これは私の我が儘だけど、桜がここに来てくれてよかった、桜と出会えてよかった。桜が傷ついたからこそ、私は桜と出会えた。全部、無駄なんかじゃないよ。私はね、桜にもそう思ってほしい。そう思ってもらえるように、私と出会えてよかった思ってもらえるように───」
「桜を、幸せにしたい!」
暖かく優しい、この季節に相応しい熱を彼女は与えてくれる。どこまでも、心の底から全身を包み込む感情が、僕の中に溢れる。かつて、これほど感じたことがないくらいに、この先、これ以上は望めないほどに。だから、彼女の願いは、叶えるのが少し難しいかもしれない。
だって、今の僕は、これほどまでに幸せを感じているのだから。
だけど、これは僕一人で終わっていいものではない。今の僕が幸せになるというなら、必要不可欠な存在が出来てしまっている。
「そう願ってくれるのはとても嬉しいけど、その言葉は僕が言いたかったかな。プロポーズみたいだし」
「にひひ、じゃあ、今度は桜から言ってね。私はいくらでも待つよ!早いに越したことはないけど」
「努力するよ。神原さんを、幸せにできるって自信が持てるように」
「まずは、私を名前で呼ぶところからだね。それが出来ない内は、言っちゃだめだからね?」
僕は、いつ彼女の名前を呼べるのだろうか。僕の最も苦手とする季節を体現し、その名をした彼女を。でも、呼べるという確信はある。彼女が僕を呼んでくれる度に、僕も彼女を呼びたくなる。だから、必要なのは時間だろう。季節を巡らせる時間が、僕を変える。
それに、僕自身、既に変わっている。巡る季節が変わらなければいいのに、なんて思わない。だから、僕は少しずつ好きになっている。
この変わりゆく、ハルの季節を。
春越しに見る桜に、そう思う。
二人のお話はこれで終わりです。でも、またどこかで続きが見られるかもしれません。
最後にもう一話だけ投稿します。