この名前を君に
朝、目が覚めて、一番に思い出す。今日という日が、彼女と約束した日であることを。一番に考えられたこと、思い出せたことにどこか気持ちが浮つく。起き抜けとは思えないほどに、気分が高揚する。
一体、何に心躍っているのか、自分ですら分からない。むしろ、一年の内において最も気分の下がる日と言っても過言じゃないはず。なのに、どうしてか今の僕の気分は下がるどころか、上がり続けている。
毎朝、内容を変え続けるニュース番組も、今日はこれ見よがしに特集を組んでいる。全国的に観測されていた季節外れの冷え込みが消え去り、遅れを取り戻すかのように春を告げる花が咲き誇る。どのチャンネルに変えようとも、変わらず同じものを映している。
きっと、彼女はこれを見に行きたいのだと思う。蓄えられていたものを一気に解き放つかのように、全国各地で見頃を迎えているそれを。
その意図も分からないし、僕のことを知ってか知らずかも分からない。でも、彼女の願いに応えるかのように、この日は訪れた。まるで、春の名をした彼女が、そうさせたかのように。
喜々として各地の状況を伝えるキャスターの声を遮り、テレビ画面を暗転させる。替わりに、真っ黒な画面にぼんやりと自分の顔が浮かび上がる。
曖昧で、はっきりと像を捉えられないけど、きっと今の僕は、笑っているんじゃないだろうか。何を思って笑っているのか。それは、自分から遠ざけていたものに触れようとしている皮肉からか。それとも、彼女へ抱く期待からか。別の何かかもしれない。
もしかしたら、その全部が理由かもしれない。
……
学校に着くと、僕とは違う理由で校内は浮ついていた。皆が皆、一様に明日から始まる春休みに胸躍らせている。昇降口でも、廊下でも、教室に入っても、聞こえてくるのは同じ話。
一切の授業がなく、修了式のためだけに登校し、それが終われば晴れて春休みなのだから、締まりがなくても当然といえる。
朝のHRが始まり、先生からの短い挨拶といくつかの注意喚起がされた後、体育館に移動したら、今度は校長先生の有難く長い話が始まる。生徒においては、ほとんどが聞く気など微塵もなく、変わらずこれからの予定について囁かれている。そんな彼らへの仕打ちかのように全校生徒を巻き込んで、校長先生の話は長々と続いた。
三月の陽気に包まれた体育館から解放されると、皆一様に顔に眠気を張り付けていた。各々の教室に戻ると、教室内の空気は一気に緩み、もはや春休みに入ったと言わんばかりの様相となる。
そんな状態になっていることを察していたのか、先生は特に諭すことなく、再三の注意喚起を伝え、ようやく解散の運びとなった。その瞬間、さっきまでのだらけきっていた姿が嘘のように元気を取り戻す。
勢いよく教室を飛び出す数人を見送ってから、大半がのろのろと後に続いて春休みへと向かって行く。そんな彼らを見送る僕はというと、早急にスマホを取り出して一人の人物にメッセージを送る。
その人物とは言わずもがな、神原さんである。その内容については、決して僕の教室に乗り込んできたりしないこと、という注意喚起。不穏な気配を感じながら送信ボタンを押す。
が、一歩遅かったらしい。送信すると同時に、春休みを待ちわびていた野郎どもと同じような勢いで扉を開け放つ人物が現れる。
「大崎くん!さぁ、行くよ!」
僕は大きくため息を吐き、教室に残っていた人たちからはお馴染みの視線が注がれる。一部では大爆笑する声が聞こえる。その一部というのは小野さんのことだけど。
顔を伏せて、何とかバレないように出来ないかと画策するけど、そんなものには何の効果もない。この学校という広いコミュニティの中で、全く目立たない僕を見つけるほどなのだから、今更、教室で丸くなったところでやり過ごせるわけがない。何より、そうなっては僕としても困るのだから、本気で隠れようとは思わない。
だけど、僕が気力のない小さな抵抗をしていても、彼女は近づいてこない。というより、近づけないというのが正解だった。
顔を上げ、彼女の方を見ると案の定というべきか、多数の女子に四方八方を囲まれていた。出会った当初にも見た質問攻めの光景。まるで時が遡ったかのような可笑しな光景だけど、そんなことを考えている場合ではない。
あの時と同じで僕には誰も聞いてこないだろうけど、万が一ということがある。僕は一人、そそくさと教室から逃げた。囚われ逃げ出せない彼女が、最後に僕を呼んでいた気がするけど、一目散に階段を駆け下りた。
今一度、彼女に昇降口で待つ旨のメッセージを送り、先に靴を履き替える。すると、僕の前には、見るたびに久しぶりという考えを起こさせる人物、坂下がいた。
「よ、どした?そんな慌てて」
いつもと変わらずに軽く手を上げて、僕の様子を訝しむ。
「いや…まぁ、ちょっとね…」
「どうせ、神原だろ?」
「…よく、分かるね」
「あいつ、HRが終わると速攻で教室出てったからな。朝から浮かれ気味だったし、お前と何かあるんだろうなって」
「一番最初に出てくるのが僕なんだ…?」
他人から見ても、ここ最近の彼女の行動には僕が関わっていると分かるらしい。事実、これから彼女に連れられるのだから否定はできない。
「見てりゃ分かる。なんだ?ついに言う気か?」
「言うって…何を?」
「そら決まってんだろ。……って、俺から言うのは違うか」
「なにが?」
「気づいてないならいい。お前は鈍そうだからな、そういうの」
「だから、一体なにが…?」
「…っと、俺は先に帰るわ。これ以上、お前と話してたら引っ掻かれかねない」
全く的を得ない話をしたかと思えば、その説明もなしにさっさと去って行く。何も理解できずに呆気にとられていると、僕の肩に春のように暖かく柔らかいものが触れる。
「君ってば、意外と私のこと置いてけぼりにするよね。約束したから教室に迎えに行ったのに、いつの間にか逃げてるし、他の人と話してるし」
なぜか、軽く睨まれる。もしかして、僕と坂下が陰口を言っているとでも思ったのだろうか。だとしたら、少し心外だ。彼女の言動に物申したいことがないわけではないけど、隠れて蔑むような真似は決してしない。
とはいえ、彼女もそんなことは考えない気がする。ただ、だとしたら、どうしてこうも膨れっ面になっているのか。何かしらの不満があるようだけど、僕にはさっぱり分からない。
「あの場で居続けたら、また何かと噂になるかと思って。そういうの、迷惑になるでしょ?」
「……迷惑になるかは、これから次第かな」
「どういうこと…?」
「後で分かるから…行こう!」
そう言うと、てきぱきと靴を履き替えて、僕の手を取る。ふわりと柔らかく包まれ、そっと掌が重なる。じんわりと伝わる体温が、僕の高まった緊張を伝えてしまうんじゃないかと思う。
だけど、伝わってくるのはむしろ逆で、微かに震える彼女の手が僕に不安さを伝えていた。
昇降口を抜け、校門を過ぎても、彼女は手を繋いだまま離さない。正直、まだ人目があるから気恥ずかしさはある。以前までの僕であったら、無理にでも説得してこの手を離す、そうしたかもしれない。
でも、今は違う。人の目こそ気になるものの、この状態を変えたいとは思わない。彼女が、どういう意図でこの手を繋いでいるのかは分からない。だけど、触れる掌から伝わる熱が、昂り続けるこの気持ちが、このまま離さないことを望んでいると僕に教えてくれる。
なにより、これから向かう場所への不安を、この繋がりが和らげてくれているように感じて、どうしたって離そうとは思わない。その所為か、僕の方も少しだけ握る手に力がこもる。
いつもと違う道。僕のものとも、彼女のものとも違う。今日だからこそ通る道。見慣れない住宅、見慣れない店、全てがこれまでとは違う景色に見える。
でも、理由はそれだけじゃない。違って見えるのは、僕の手を引いて先を歩く彼女の所為でもあると思う。彼女に手を引かれたことは何度かある。だけど、そのいずれとも今の彼女は違う。
どこがどう違うかなんて、僕には言語化できない。ただなんとなく、としか言えない。それでも、明確で、確固とした意志を感じる。それは繋いだ手からも、映る横顔からも。
何かを決意した彼女の背を押すように、一つの風が吹き抜ける。その風に流れるように、一枚の花びらが僕を追い越して前へと進む。僕を置いて、さらに前へ。
それを追うように角を曲がれば、立ち並ぶ住宅たちが覆い隠していた景色が露わとなる。
高い位置にある太陽の光をこれでもかと反射して水面を輝かせる河川。その流れに沿うように幾本も整列し、淡いピンク色をした花びらを散らせる木が僕たちを迎える。
静かに整然と並び、聞こえてくるのは時折吹く風を切る音と僕たちと同じものを見に来た人たちの騒ぐ声だけ。隣に並んだ彼女は、今はまだ何も言わない。ぐっと口を噤み、目の前の光景にただただ見惚れているようだった。
一方の僕は、やはり何も感じない。だけど、少しは変わっているらしい。彼女と出会う前の僕であれば、きっと酷い顔をして、醜い言葉を羅列していたことだろう。それが今や、冷静でいられるくらいには克服している。
とはいえ、遠くではしゃぐ人たちのようにも、隣で見上げる彼女のようにも出来ない。どうしても、同じ感情は持ち得ない。
すると、見上げていた彼女の視線が僕へと向く。互いの視線をぶつけ合い、先に彼女が微笑む。そして、今一度、僕の手を引いて歩き出す。
「少し、歩こっか」
僕の返事を待たず、彼女は進む。咲き誇った花たちを散らす下を、ゆっくりと。
一年前、僕の心情なんて知る由もない両親に連れられて見に来た時と何も変わらない。長く、どこまでも続くように咲く光景も。腰を下ろし、一様に笑顔で見上げる人たちも。何もかもが変わらず、何もかもが僕の心を抉ってくる。
少し、後悔をする。来なければよかったと。彼女と一緒であれば、何かが変わると期待していた。でも、やっぱり変わらない。いつ見ても、誰と見ようとも僕を不快にさせる。
そんな僕の不安を感じ取ったのか、彼女は前を向いたまま一呼吸を置いた後、言葉を紡ぐ。
「私ね、君と出会ったの、十月のあの日が初めてじゃないんだよ」
「え…?」
そう言って言葉を始めた彼女は、僕の知らない僕の話を、そして、彼女の気持ちを話す。
「出会ったって言っても、何かしたわけでもなければ、当然話したわけでもないけど。でも、私はあれを出会ったって言うよ。一年前のこの場所で、その時も君は今みたいに浮かない顔をしてた。こんなにも綺麗な光景を前にして、どうしてそんな顔をしているのか分からなかった。でも、それ以上に。どうしてか、私は君のことが気になってしょうがなかった。その日、一目見ただけなのに、ずっとずーっと気になってた。どうして、こんなにも気になるのか、あの時は分からなかった。でも、今ならわかる」
もう一度、彼女は息を大きく深呼吸すると、振り返って、まっすぐに僕を見据える。これまでに何度も見た、彼女に相応しい意志のこもった瞳で。
「私は君のことが好き。初めて出会ったあの日から、今に至るまでずっと。それに、これからも。……だから───」
心臓が大きく跳ねたのが分かった。一気に鼓動が加速して、くらくらするほどに感情が揺さぶられる。それと同時に、僕の中で何かが納得した。ずっと疑問に思っていた何かが、答えを得たようにきれいに溶けて消えていく。
そして、空いた穴を埋めるように、暖かな感情が湧き出てくる。血液とともに全身を巡り、今度はそわそわとした落ち着かなさに支配される。
でも、僕は、それを嬉しいと感じている。丁寧に紡がれた彼女の言葉を、満ち足りたように感情が巡る身体を。彼女が告げる言葉一つ一つを噛みしめる。
そうしていれば、自然と分かる。彼女が言おうとしている言葉の続きが。だからこそ、遮る。まだ、僕は何も言っていない。言えていないのに、その続きを聞くことも、それに応えることも出来ない。
何より、今この瞬間、僕が伝えたいと思った。唯一、聞いてほしいと思えた。大勢の誰かではなく、たった一人の彼女に誰よりも初めに告げたいと。
大きく咲き誇って、空を覆い隠している花を見上げる。
「サクラ…って、言うんだよ」
「……え?うん、知ってるよ?今日はこれを見に来たんだから」
「そうじゃなくて。僕の名前、桜って言うんだ」
今も繋がったままの手を静かに握る。そっと、僕の想いを届けるように、僕の不安を掻き消すように。
「大崎 桜、それが僕の名前。ずっと誰にも言わなかった、言いたいと思えなかった僕の名前。それを、神原さんには伝えたいと思ったんだ」
「どうして…?どうして、私には伝えようと思ってくれたの?」
「それは───」
今度は、僕が大きく息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出す。繋がった掌を確かに感じて、いま抱えているありったけの想いを露わにする。
「僕は、こんな名前だから、小学校ではよく揶揄われたんだ。女の子っぽいって、似合わないって。誰も肯定してくれる人がいなくて、否定する人ばかりだった。あれはもはや、いじめと言ってもよかったと思う。だけど、その時の僕はバカだったから、中学生になった時にも同じ過ちを繰り返した。環境が少し変わって、僕に対しての風当たりも変わると思った。でも、変わるわけがなかった。といっても、全員が全員、僕を揶揄ってきたわけじゃない。そうしてきたのはごく一部の人たち。それでも、僕にとっては全部に思えた。全部が、敵に思えた。だから、僕は高校へ上がるのと同時に誰も僕のことを知らない街へとやって来た。ここなら、誰に否定されることなく過ごせる、そう思った。そして、……出会ったんだ、君と」
彼女に倣って、僕も同じ言葉を使う。十月のあの日、一人でいることを決めていた僕は君に出会った。
「正直、驚いたんだ。まさか、僕に声をかけてくる人がいるなんてって。しかも、それがまったく知らない人だった。クラスメートでもなければ、以前からの知り合いでもない。そのことに驚いていたら、君はさらに驚くことを口にしたんだ。名前が、春そのものだった。その名の通りの明るさで、暖かさで、とても強引な風のようだった。だから…だからこそ、僕は嫌だった。ここでなら、自分の名前から遠ざかれると思っていたから。そんな人と一緒にいたら、いつか、また同じことになるんじゃないかって思った。だから、この人と関わるのも僕のことを知るまでなんだって決めつけてた。だけど、あの日から今に至るまでずっと、君と関わり続けてる」
すっと息を吸う。絶対に、確実に伝えるために。彼女にだけ、伝えるために。
「それに、僕はこれからも関わり続けたいと思ってる。たった一人、君にだけ、僕の名前を知ってほしいとも思ってる。今まで生きてきて、初めて思えたんだ。僕のことを知っても、終わりにしたくないって」
あまりにも長すぎる。ただ一言、彼女に伝えるだけなのに。自分でも制御できないこの気持ちが、纏まらない言葉として出てしまったのかもしれない。だけど、伝えたい言葉だけは決まっている。
「──それは、たぶん、神原さんのことが好きなんだと思う。ごめん、僕はこういうのに疎いから確かなことは言えない。だけど、僕にとっての好きは、その人に自分の名前を伝えたい、そういうことだと思う」
きっとそうだ。僕にとっては、この嫌いな名前を伝えられることが好きってことなんだと思う。そして、そう思えたのは彼女が初めてで、唯一だ。
そんな僕の長ったらしい稚拙な言葉を、彼女はずっと静かに耳を傾けてくれていた。僕のように遮ることはせずに、ただただ最後の一言まで聞き逃さないように。
ゆっくりと上がる彼女の視線は、しっかりと僕のものと交わり、その目尻に一筋の軌跡を描く。
「……嬉しい…!嬉しい、嬉しい、うれしい!君の名前が知れたことも、君の初めてに私がなれたことも、全部が嬉しい!たくさん辛い思いをしてきたのも分かった。たくさん私のことを考えてくれたのも分かった。だから、これからは私がたくさん君に寄り添うよ!」
しっかりと、決して離さない言うように両手が繋がる。今までよりもはっきりと互いの体温を感じ、一番近くに彼女はいることを確かにさせる。
「ね、君から言ってみて。私が言おうとした言葉の続き」
「ぼ、僕から言うの…?」
「今更尻込みしないでよ。ほら、早く!私に、返事させて?」
「わかった」
あり得ないほどに全身を緊張が包み込む。自分の名前を言うことが何より動揺させると思っていたのに、それを上回るほどに心臓が速く動く。
指先から、掌から感じる熱に頬を綻ばせ、繋いだ手を軽く握り返す。
「神原さん、僕が初めてこの名前を知ってほしいと思えたから、僕のこの感じてきた気持ちが好きだと気づいたから……だから、僕と付き合ってください」
「うん……うん!私も、ずっとずっと君が好きだよ!」
「これからもよろしくね、桜!」
これまでに見た彼女のどの表情よりも綺麗で、輝いていて、咲き誇った笑顔を僕の瞳は映す。舞い散る桜の花びらを纏いながら、僕たちの距離は一段と近づく。
僕のことを知るまで、そう思っていた彼女と、僕は今繋がっている。変わらずこれから先も、どこまでも。
ハルの風が心地よく吹く季節、サクラの木の下で僕たちは想いを交わす。いつまでも舞う花が僕たちを祝福するように、少しだけこの季節を好きになりながら。
次で最後です