とびっきりのバレンタインデー(その二)
二月十四日。いつも通りの時間に登校した学校は、いつもとは違う雰囲気に包まれていた。まず、普段であれば数えるくらいしかいないはずの時間帯に、落ち着きのない男子生徒が多くいた。
それも、昇降口付近を行ったり来たり。女子生徒が通る度に、期待を帯びた視線を向けている。が、そんなことをしても当然、相手にされるわけもない。ほとんどがすれ違うだけの中、一握りの男子は呆れた様子で貰うこともある。そんな殺気立ったような中もらっては、嫉妬と羨望、その他諸々の醜い感情の矛先を向けられる。
そんな勝ち組になりたいと願う男子集団の中に、見知った顔を見つける。案の定と言うべき人物が、血眼になりながらうろついている。
「坂下…何やってんの…?」
「お!?…って、なんだ大崎か。男に用はない、さっさと行け」
「ひどい言いようだね…」
もはや、バレンタインデーの化身のようだ。もしも、これで誰からも貰えなかったら、どうなるのだろうか。校舎の窓ガラスを壊して回る勢いで暴れるのか、逆に意気消沈して抜け殻になるか。どちらにしても、面白いものが見られる気がする。
なんて思ったものの、そのどちらにもならないことを僕は知っている。これだけ鼻息を荒くしている坂下でも、勝利はある。
「そこの二人。朝からお盛んだねぇ」
「その声は…!」
後ろから聞こえた声に大袈裟な反応と共に振り返る坂下、と僕。待っていた、そういう考えが言わずとも伝わる顔をしている。とはいえ、それもそうだろう。あれだけさり気なく催促していたので、期待せざるを得ないんだろう。さり気なさは、欠片もなかったみたいだけど。
「うわ…、露骨に貰う気じゃん…。引くわー」
「んだよ、いいじゃねぇか!俺にとっては一大事なんだ!」
「はいはい。じゃあ、そんなあんたに。これあげる。大崎に感謝しなよ」
「おぉ!?うおおおぉぉー!」
「はい、これ。昨日見ただろうけど」
「ありがとう」
ちゃんと二人分。僕と坂下に、小野さんから綺麗にラッピングされた袋が手渡される。確かに、僕は昨日見たし、なんなら一緒に作った。でも、小野さんがどういうラッピングをしたのかまでは知らなかった。だから、いま受け取ったこれは、昨日とは少しだけ違って見えた。
そんなことを考える僕以上に、喜びに打ち震える者がいる。受け取った袋は天高く抱えながらも、よほどの嬉しさからか膝をついて歓喜している。まるで、神々しいものでも崇めているようだ。
「まじ引くわー…。てか、あの昇降口にいる男子って、そういうこと?チョコゾンビってこと?」
「まぁ、そうだろうね。さっきまで、坂下もむこう側だったよ」
「なるほど。私がゾンビから人間に戻したということね」
「チョコが特効薬になるゾンビ。ずいぶんと安上がりだね」
「まぁ、まだまだいっぱいいるけどね」
振り返ってみると、そこには群を成すチョコゾンビがいた。そして、その餌食となっている人間に戻った坂下もいる。手に持ったチョコクッキーで煽りにいったみたいだけど、返り討ちに遭っているようだ。
そんなゾンビに戻りそうな坂下を置いて、僕と小野さんは教室へと向かう。あの集団へと投じるチョコを持ち合わせていない僕らは、坂下がゾンビに逆戻りしないことを願うばかりだ。
「ちなみに、春留には貰った?」
「いや、まだ。放課後に渡すって」
「つまりは取りってわけだ。期待値が上がるね?」
「小野さんも知らないの?神原さんが何作ったか」
「詳しくは聞いてないかな。でも、驚くようなものでもないって言ってた。私や秋希みたいに簡単なものなんだろうさ、きっと」
「だといいけど…」
そうであってほしいと思う。特別なものを作る、そう言っていた彼女の言葉は今も僕を不安にさせる。けど、どこか楽しみでもある。それもこれもきっと「楽しもう」、そう彼女が言ったから…かもしれない。
……
教室の扉を開けると、そこは昇降口ほどゾンビはいなかった。でも、一人もいないわけでもない。何人かはまだ希望を捨てきれていないらしく、ちらちらと視線を彷徨わせている。
そんな彼らを他所に、席に着いた僕の元に予想外な人たちがやって来る。
「お、おはよう、大崎くん。今、大丈夫かな?」
「おはよう、高橋さん。大丈夫だけど、どうかした?」
「えっと、その…ね」
文化祭以降、ほとんど彼女と話す機会はなかったけど、今朝は違うようだ。今日という日、何やら気恥ずかしそうで落ち着かない様子、励ますためとも揶揄うためとも取れるニヤニヤとした表情を浮かべる友人二人。なんとなく察しは付く。
「こ、これ!よかったら、どうぞ…」
おずおずと差し出されたのは、お洒落なロゴの入った紙袋。言われずとも分かる、この中身が何なのか。
「ありがとう。これ、チョコで合ってるよね?」
「うん…。あ、でも、て…手作りとかじゃないから味は保証するよ。変なものとかも入れてないし」
「疑ってないよ。高橋さんが優しい人だっていうのは、なんとなく分かるから」
そんな奇怪なことをする人だとは思っていない。文化祭の時、ただ一人だけ僕のことを手伝ってくれた人を悪く思うわけがない。
ただ、どうして今日という日に、特別な意味を持ってしまう今日だというのに、僕にチョコを渡そうと思ったのかは分からない。
「じゃ、じゃあ、それだけだから」
これ以上は居られない、そう言うかのように颯爽と場を後にする。それにつられて、付いてきていた二人も僕の前から姿を消す。同じ教室だから当然だけど、何やら三人で盛り上がる様子が視界に入ったままである。
一人残された僕は、早速食べてみようかと袋の中を覗いて、伸ばしかけた手を止めた。これは、何も異物を発見したわけではない。なんとなく、この場で食べることが憚られた、それだけだ。
そんなことを思っていると、僕の机に二つの小さなチョコが置かれる。何かの間違いかと顔を上げると、紙袋を抱えた女子が二人、通り過ぎるところだった。
「調理くんにもあげるー」
「もう一つあげるー」
「ありがとう…」
またしても、文化祭以降聞かない呼び名で、僕に渡したことを明確にさせる。何かあるのかと勘ぐってしまうけど、どうやらそんなことはなさそうだ。
彼女たちは、教室中の誰彼構わずにチョコを配っているらしい。僕の前の方にいる男子、その前にいる女子。性別も関係も問わずに、袋の中からチョコを一つ取り出しては机に置いている。バレンタインデーとは、ああいう楽しみ方もあるのか。
ぐるぐると教室中を巡り、チョコを配るサンタクロースをぼんやりと眺めていると、予鈴が鳴ると同時に先生が教室へとやって来た。席に着くようにと促す声に臆することなく、サンタクロースはチョコを差し出しに行く。若干の呆れと素直な感謝を表し、授業中にチョコを食べないようにという注意からHRが始まった。
……
慌ただしかった朝の空気も、昼頃には落ち着きを取り戻す。チョコを求めて走り回るゾンビは、人間に戻るか駆逐されるかのどちらかの道を辿り、校内から姿を消した。
それでも、チョコの醸し出す甘い雰囲気は抜けていない。昼休みには、至る所にチョコを携えた男女が二人だけの空間を作り、二月の空気を温めていた。
気温が数度上がったように感じながら、購買で買ったお茶を持って教室に戻ると、僕の席は誰かに占領されていた。正確には、僕の机の半分と前の席だけど、同じことだ。
我が物顔で席に座り、菓子パンを齧るのは浮かれ具合が言わずとも分かる坂下だ。どうやらご機嫌なようで、僕が戻ると陽気に手を上げて迎え入れる。僕の席だけど。
こうもご機嫌な理由は察しがつくから聞かないでおくとして、わざわざ遠く離れた一組の教室まで来た理由の方は聞くことにした。
「いやな、最速で購買に行って昼飯を買った帰りに小野と会ってよ。そしたら、お前に感謝しとけって言われたから来てみた。そして、ありがとう。何の事か知らねぇけど」
これも機嫌が良いからだろう、やけに素直にお礼を言う。何の事かを理解していないままの坂下に、昨日のことを伝えてみた。誤解を生まないように、あくまでも小野さんは付き添いだったと強調して。
すると、僕の功績を理解した坂下は、泣きつくように僕への感謝を溢れさせた。お礼に菓子パンを一つあげると言われたけど、丁重に断らせてもらった。
終始、機嫌の良い坂下との昼食を終えて午後の授業が始まると、教室内は少しだけひそひそと話す声がいつもより多くなる。ご飯を食べて元気が有り余っているのかと思ったけど、図らずとも聞こえてきた話でその理由を知る。
どうやら、今日という日が関係しているらしい。一番活気のあった朝が過ぎ、最も長い休み時間である昼休みの間に、どこの誰と誰がどう進展したのか、そういう話をしているらしかった。恋愛好きの女子には、バレンタインデーはどうしたって盛り上がってしまうのだろう。先生に注意されてしまうくらいには。
そうこうしていると、あっという間に全ての授業が終わり、放課後を迎える。と同時に、スマホが一つのメッセージを受信して震える。
ポケットから出して確認すると、案の定、神原さんからだった。どうやら、校門の方まで来てほしいらしい。短い返事だけを送って、鞄を持って席を立つ。そんな僕の後をつけるように、小野さんも教室を出る。僕がどこへ行こうとしているのか知っている彼女だから、実に愉快そうな顔をしている。
「大崎、よかったじゃん。チョコをくれるのが、私と春留だけじゃなくて」
「有難いことにね。まさか、くれる人が他にもいるとは思わなかったよ」
「そんなこともないと思うけど」
そんなこともない、とは一体どういうことだろうか。小野さんには、僕にチョコを渡す人の見当がついていたとでも言うのだろうか。
言葉の意味がよく分からないまま、僕たちは昇降口を抜けて彼女の待つ校門へと向かう。時折、微かに吹く寒風に震えながら着くと、そこにいたのは彼女だけではなかった。
「坂下までいるんだ…、ハイエナ?」
「失礼過ぎないか!?獲物を横取りしたりしねぇよ。ただ、面白いことが起きそうだから来ただけだ」
「大丈夫だよ、大崎くん。一応、坂下くんにもあげたから」
「一応ってなんだよ、一応って!」
「その程度ってことでしょ。ちなみに、私も一応あげただけだから」
「小野まで!?…お前ら、俺の扱いひどくないか…?」
若干、涙目になっている坂下の味方はこの場にはいない。チクチクと言葉で突き刺す二人と、ただの傍観者である僕。こうなることは見えていただろうに、どうして来てしまったのか。意外と満更でもないのかもしれない。
「ところで、どうしてここに集合したの?」
「それはね、秋希も一緒に渡したいって言うから。だから、今だけここで待ってるの。秋希が来たら、一旦中に入ろ」
「じゃあ、それまでに何か飲み物でも買ってこようかな。春留、大崎、何がいい?」
「私ココア!大崎くんはコーヒーね」
「僕のは勝手に決められるんだ…」
「はいよ。ほら、坂下、いつまでもしょげてないで立ちな。あんたも来て」
肩を落としている坂下を、無理やり引っ張って連れて行ってしまう小野さん。何だかんだと言いつつも、意外と相性は悪くないのかもしれない。なんて言えば、坂下は喜ぶだろうか。あの状態から復帰するためなら、言ってみるのもいいかもしれない。
「それにしても寒いね~。もうすぐ三月なんだから、もうちょっとくらい暖かくなってもいいのにね?」
「そんなに寒いなら、校舎の中で待ってもよくない?秋希ちゃん、まだ来なさそうだし」
「たぶん、あと五分くらいで来るよ。授業が終わってすぐに学校を出たって言ってたから」
「こんなことなら、今日くらいは…春に近づいてもよかったのにね」
「!?」
なんて、何気なく呟いて、僕も彼女も驚く。彼女が驚いている理由は分からないけど、自分の驚いている理由なら分かる。僕は、ごく自然に春が来ること望んでいた。何度も何度も、季節が巡る毎に感情を逆撫でされていたはずなのに、そのことを忘れたように春を待ち望んでしまった。
どうしてそう思ったのか、その理由なんてきっと明白だ。驚いて口を開けたままの彼女、いつも隣にいるハルの所為だ。この暖かさに、僕は絆されてしまったのだ。
そういえば、どうして彼女は驚いているのだろうか。僕の呟きに、彼女が驚く要素なんてあっただろうか。
「神原さん?どうかした?」
「え、いや……まぁ、そうだよね…」
「なにが?」
「君が、私のことを名前で呼んでくれたのかと思っちゃったよ」
「……呼ばないよ。僕は…呼べない…」
「でも、覚えててくれてるんだ?私の名前」
「覚えてるよ。君はよく名前で呼ばれてるから」
「呼んでは…くれないの?」
「そんな関係でもなければ、そうする理由もないからね」
「関係はともかく、理由はあるよ」
「それって、どんな理由?」
「呼んでみたら分かるかもね?きっと、私が君の名前を呼びたいのと同じだから」
呼んでみたら。そう彼女は言うけれど、今の僕には難しい。そうする理由も分からない僕では、きっと意味がない。名前を呼んだところで、ただの記号になってしまう。そこには何の意図も、何の感情も含まれていない。それでは嫌だと、なぜかそう思う。
それに、まだ僕は自分の名前を彼女に伝えられていないのに、僕に名前を呼ぶ資格なんてあるのだろうか。
「はいはい、お待たせ~。買って来たよー」
と、そこへ頃合いを見計らったかのように小野さんと坂下が戻って来る。坂下の腕には、熱々に温められたココアとコーヒーが抱えられている。秋希ちゃんの分まで含めた、計五本。
「ちょ、早く取ってくれ!腕が焼ける!」
「はい、これ。春留と大崎の分ね」
「礼ならいつでも受け付けてるぜ。お前らが飲もうとしてるそれは、俺の財布から出たんだからな!」
「ありがと、二人とも」
「ありがとう」
「おうよ。これで、俺の千円が吸い込まれてった甲斐もあるってもんよ」
何やら、僕たちの知らないところで苦労があったらしい。まぁ、十中八九、小野さんの所為だろうけど。
「あとは秋希の分だけど…まだ来てないか」
「もうすぐ来ると思うよ。…って、ほら。あれ、秋希じゃない?」
「たぶん?でも、なんか二人いない?秋希が友達なんて連れてくるかな?」
神原さんと小野さんが向ける視線の先、校門をくぐろうとする姿が二つ。同じ制服を着て、同じ場所へとやって来る。僕が知る中で、秋希ちゃんについてくるような人は一人しか知らない。
「あ、なんか言い合ってる。喧嘩かな?秋希も意外とやんちゃなんだね~」
「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ、美月。喧嘩なら止めなきゃ」
「たぶん、大丈夫だよ。あれはそういうのじゃないと思うから」
「そうなの…?」
仲裁しようと急ぐ神原さんに、とりあえずとして物騒なことではないと教える。神原さんにおける小野さんのような存在で、きっといつも二人がしていることと大差ないと思う。
「秋希、何してるの?その子は、友達?」
「そうだけど、大丈夫。すぐに帰ってもらうから」
「わぁ~!すごいすごい!大人な神原さんだぁ~!」
「別に、そこまでしなくていいんじゃない?秋希の友達なら、いてくれても全然」
「……まぁ、お姉ちゃんがそう言うなら…」
「おぉ!神原さんのお姉さんなんですね。どうりでそっくりなわけです。初めまして、あたしは市井 千夏と言います!神原さんとはクラスメートで、とても仲の良い友達です!」
初対面でありながら、全く臆することなく自己紹介をする。剰え、自分からとても仲の良い友達を公言する。他人との関係で、そこまで自信を持てることに関心したけど、そういえば僕も初対面の時から驚くほどに積極的だった。社交性の塊、僕とは正反対といえる。
「初めまして、私は神原 春留。秋希と仲良くしてくれてありがとうね。どうか、これからも仲良くしてあげて。この子、不愛想だけど可愛い子だから」
「お、お姉ちゃん!」
「はい、もちろんです!神原さんが可愛いのは知ってますから!」
「ちぃちゃん!」
珍しく慌てる秋希ちゃんを神原さんが可愛がる中、いつの間にか市井さんは小野さんと坂下にまで挨拶をしていた。あの坂下が後れを取るほどの社交性。そして当然、それは僕にも向く。
「あ、お久しぶりです!大崎さん」
「う、うん。久しぶりだね…」
という、軽い挨拶を交わした瞬間、神原さんが僕に鋭い視線を向けてくる。いつか見た、司書の先生のようだ。
「大崎くんは…知ってるんだ?市井さんのこと」
「前に、秋希ちゃんと会った時にね」
「ふーん…」
これは一体、どういう感情の顔なんだろうか。何か不満なのか、それともまた別の何かか。ただ、よくないものだというのは分かる。どうして、僕にそれを向けるのかは分からないけど。
「そういえば、この集まりは何なんですか?勢いよく飛び出した神原さんを追いかけてきただけなので、状況を理解していないんですけど」
「そもそも、どうして追いかけてきたのですか…」
「だって、なんか面白そうだったから。実際、今から面白いことは起こる予感がする!」
「市井さん、ちょっといいかな?」
「はい。どうしました?」
うきうきで目を輝かせている市井さんの質問を、神原さんが遮る。僕に向けられた暗い感情が彼女に向けられるのかと思ったけど、それは僕の杞憂に過ぎない。
「市井さん、当然のことだけど私も秋希も神原なの。つまり、この場で『神原さん』と呼ぶと、どっちか分からなくなっちゃう」
「…はっ!確かに。じゃあ、名前で呼びます!秋希ちゃん、と春留先輩で!」
「!!春留…先…輩…」
「ダメですか?」
「むしろ、嬉しい!私も、千夏ちゃんって呼ぶ!」
「どうぞ、ちぃちゃんと呼んでください!」
「千夏ちゃん」
「ちぃちゃんです!」
「千夏ちゃん」
「ちぃちゃん!」
「ちぃちゃん」
「はい!」
まさか、あの神原さんが押し負けるとは。恐るべきごり押しのちぃちゃん。秋希ちゃんも、きっとこんな感じで迫られたのだろう。そして、負けた。
「それで、何の集まりなんですか?春留先輩」
「これはね、今日という日のための集まり。つまり…?」
「つまり……あ!バレンタインですね!ということは、今からチョコが渡されるんですね。春留先輩は、誰にあげるんですか?やっぱり、大崎さんですか?」
「まぁね。というわけで、はい!」
流れに乗って何かを隠すように、神原さんは鞄から取り出した小包を僕に差し出す。中に入っているのは真っ黒な物体…ではなく、実にお洒落なミニ生チョコタルト。小さなタルトの上には、彩りの意味も含めたチョコスプレーや小さな砂糖菓子が乗っている。
意外にも…というと失礼だけど、出来栄えはとても良い。何か奇抜なものを作るのかと不安になっていたけど、ふたを開けてみれば出てきたのはとても綺麗で丁寧なものだった。これのどこが、特別なものなんだろうか。
「ありがとう。すごい、百点の出来だね」
「そうでしょう、そうでしょう!私なりに、とっても頑張ったんだから!」
ふんぞり返ってしたり顔をする彼女だけど、褒められ慣れていないのか、どうにもぎこちない。それでも、褒められること自体は嬉しいのか、頬を綻ばせてはにかむ。
「大崎くん、私のもどうぞ。といっても、昨日一緒に作ったので面白味はありませんけど」
「確かにそうだけど、僕が見たのは出来上がった時のものだから。こうして、ちゃんと包装されたのは初めてだよ。ありがとう」
「……はい」
これまた、姉妹そっくりにぎこちなさをみせる。どういう表情をすればいいのか分からないのだろう。一歩下がった秋希ちゃんは神原さんに抱き留められ、誤魔化すように表情を変える。
これで終わりかと思っていると、そうは許さないかのように市井さんが声を上げる。
「それなら、あたしも大崎さんに渡します!ちょうど、余ったのがいっぱいあるので」
そう言って鞄の中に手を入れると、指の間に何やら棒付きのキャンディーを挟みながら取り出す。片手に四本ずつ、両手で八本。
「どうぞ。チョコレートキャンディーです」
僕に続き、神原さんに小野さん、坂下にも渡って最後に秋希ちゃん。
「秋希ちゃんにはもう一本あげる」
「ありがとうございます…」
本日二本目のチョコレートキャンディーをもらう秋希ちゃん。自分だけ二本も貰ったのが忍びないのか、どうにも居た堪れなさそうだ。
「あと三本…。一本は自分で食べるとして…残りの二本は……ちょっと、その辺の人たちに配ってきます!」
残りの処遇をどうしようかと悩んでいたかと思うと、突飛な思い付きで指の間にキャンディーを挿したまま、見知らぬ誰かに近づいていく。相手が年上で、しかも高校生であっても、気にする素振りすらみせずに渡し終える。これで終わりかと思いきや、鞄から次々にキャンディーが出現して、どんどんと臆することなくキャンディーを手渡していく。
そんな様子を、僕たちは遠巻きに見ていることしかできない。止めようなんて考える人はいない。というより、止める隙がない。
奔走する市井さんの姿が遠くなった頃、呆気に取られていた意識を取り戻す。そして、小野さんは手元にある温もりを思い出す。
「そういえば忘れてた。秋希、これあげる」
適温近くまで熱が抜けたココアを秋希ちゃんは受け取る。すぐにプルタブを引いて、中身を少しだけ口にする。どこかほっと一息ついた様子で、指先を缶にくっ付けて温める。
「ありがとうございます、美月さん」
「うん、いいよ~」
秋希ちゃんがココアでいつもの調子を取り戻した頃、市井さんはようやく鞄の中を軽くして戻って来た。どうやら、全部を配り終えたらしい。僕たちの横を過ぎる人の何人かは、唐突なことに首を傾げている。
そんな彼らのことなんて知らないように、市井さんは定位置のように秋希ちゃんの隣に戻ると、最後のチョコレートキャンディーの包みを解いて口に咥える。
「あれ?秋希ちゃん、ココア買って来たの?いーなー」
「しまった。市井ちゃんが増えたから、一本足りないじゃん。坂下、あんた走って買ってきてよ」
「またか!いや、別にいいけどよ」
「大丈夫、大丈夫です!そこまでしてもらわなくても」
「でも、ちぃちゃんの分だけないのは寂しくない?」
「それなら、私は秋希ちゃんから貰います。秋希ちゃん、一口ください!」
「…どうぞ」
渋々といった感じでココアを差し出す秋希ちゃん。それを、大層嬉しそうに飲む市井さん。呼び方が変わったからだろうか、前よりも距離が近くなって仲良く見える。
もしも、あの時。僕が彼女の名前を呼んだら、僕たちも何か変わったのだろうか。今より仲良くなったり、彼女が嬉しそうな顔をしたり、僕が抱く彼女への想いがまた変わったりするのだろうか。
僕は、それを望んでいるのだろうか…。
「ね、ね、大崎くん。一つ、食べてみてよ。自信作だから、すぐに感想ほしいな?」
「え……あ、うん。じゃあ、ちょっと手洗ってこようかな」
「待って待って。そういうと思って、じゃーん!お手拭きシートを買ってあります。はい、これ使って」
「用意周到だね。僕に食べさせる気しかないじゃん」
「ひひ、実際たべてほしいからね。ほんと、今まで一番よくできたんだから!」
自信たっぷりにそう言う彼女の作ったお菓子を改めて見る。やはり、見た目に関してはとても綺麗で、お店で売っているものと言われても分からないと思う。それほどまでに、このミニチョコタルトの出来は良い。
あとは、味だけ。ここが不安とはいえ、文化祭の時もそうだったけど、彼女は料理の経験がないだけで作ったものが混沌としたものになるわけではない。見た目がよければ、味も問題ない…はず。
「じゃあ、いただきます…」
「うん、召し上がれ!」
個包装されたタルトを一つ取り出し、封を開けて一口齧る。サクッとしたタルトの食感の後、少し甘さの強い生チョコを味わう。咀嚼すれば、タルトとチョコの間に塗られていたであろう柑橘系のほどよい酸味が広がる。
「これ、ジャム塗ってるんだね。良いアクセントになってて美味しいよ」
「そうでしょ、そうでしょ!お母さんがね、タルトにジャムを塗った方が美味しくなるって言ってくれたの。だから、色んなジャムを使ったよ。イチゴにオレンジ、レモンやナシのジャムなんかも使ったの」
「どうりで多いわけだ…」
いくらミニサイズとはいえ、四つもあってはそこそこの量になる。ジャムを使うことになったから、自然と数も増えてしまったのだろう。だけど、これだけ美味しければ、いくつあってもいいように思う。
ほとんど無意識にいつの間にか、もう一つ食べようと手を伸ばしていた。全く何も考えていなかったから、気づいたのは口に入れる直前。自分でも少し驚いた。気づいたら、目の前にチョコタルトがあるのだから。
そんな僕の様子に気づいたのか、神原さんは頬をこれでもかと吊り上げて僕にとっては嫌に、彼女にとっては嬉しそうに笑顔をみせる。何もものは言わないけど、そのお喋りな表情が全てを物語っている。それが僕にも分かるくらいには、彼女は分かりやすく嬉しさを全面に出している。
「はーる、そんな変顔してないで帰るよ。大崎も引いてるし」
「へ、変顔なんてしてないし、大崎くんは引いたりしないよ!……しないよね!?」
「してないよ。変顔も」
「よかった……ん?よかったのか…?」
「じゃあ、今日の主役二人の用事も済んだことだし、解散ね。大崎、私と秋希が作ったやつの感想も待ってるから。よろしく~」
「うん、帰ってからゆっくり食べるよ」
神原姉妹と小野さんが同じ帰路に着き、僕も校門を出て三人とは違う道を行く。僕は一人で帰ることになるかと思ったら、まだ残っていた二人から声がかかる。
「大崎、一緒に帰ろうぜ。お前、どっち向きだ?俺はこっち」
「あ、あたしも坂下さんと同じ方向です!大崎さんもですか?」
「いや、逆だね。じゃあ、市井さんのことよろしく、坂下」
「そうか。そいつは残念だが、任せろ!」
「よろしくお願いします!坂下さん」
「お、おう…。まさか、こうも拒まれないとは。新鮮だ…」
普段から雑な扱いを受けているからだろうか、そんな僕たちとは違う市井さんの反応に感激している。どうか、彼女がこのまま染まらないことを祈っておこう。僕がどうこうすることは、おそらくないだろうから。
「んじゃ、また明日な」
「それでは~」
僕とは逆方向へと進み始めた二人を見送って、僕も歩き出す。
「坂下さん。あたし、チョコ上げたので、お返し待ってますね。高校生らしく、しっかりとしたものを頼みます!」
「いや、あんま期待されても困るっていうか。そもそも、貰ったのチョコキャンディーなんだけど…?」
「チョコキャンディーだろうと何だろうと、渡したことに変わりありません。いや~、一ヶ月後が楽しみですね~」
「……マジかぁ」
朝よりも少しだけ重くなった鞄を肩に感じながら、一ヶ月後に思いを馳せる。お返しの日であるホワイトデー、そのことについて考える。一体、彼女には何を返せばいいのだろうか。何を渡せば、彼女はまた嬉しそうに笑ってくれるだろうか。僕に、そんなことができるだろうか。
なんて、何も疑問に思うことなく頭を悩ませる。ごく自然に彼女の笑顔を想像し、迫るテストのことを忘れ去っていた。