とびっきりのバレンタインデー(その一)
誕生日という非日常が過ぎ、比較的穏やかに時が流れて、カレンダーが一枚捲られ二月となった。そうなると、学生にとって一大事なあれが迫った学校内は、そわそわと落ち着きがなくなる。
校内を歩く生徒の足取りは、何かに急かされるかのように早くなり、どうしてもと頼みこむような人もいる。それとは逆に、余裕綽々と言った様子で毅然と構えている人や、一人でもどうにかしようという人もいる。
そう、校内では、迫りつつある学年末テストの準備が進められているのだ。
「いや、そこはバレンタインデーでしょ、大崎くん」
と息巻く僕の正面に座る彼女から、二月の気温にも似た冷ややかな言葉が投げ掛けられる。彼女にしては、なんとも冷たい言い方である。やはり、例の如くテストのことが不安なのだろうか。
「いやいや、テストは大事だよ、神原さん」
改めて、テストの重要さを説こうとしたが今度は、これまた珍しくため息を吐かれた。小さく首を横に振っているあたり、本当に呆れているらしい。
「まったく…君ってば、ほんとに現実的だね。もう少しイベント事を楽しもうよ」
「この前の僕の誕生日なら楽しかったし、嬉しかったよ」
「うん、それは何よりだけど。それじゃあ、バレンタインも楽しもうよ、テストの事より先に。君にも作ってあげるから、美味しいチョコ」
「え……」
およそ、冗談だと思いたいようなことを、彼女は僕にむけて口にする。今、もしかして、何かお菓子を作ると言ったのだろうか。料理ができないと自負していた彼女が。そして、それを僕にあげるとも言った。それ自体はありがたいけど、それ以上にどうしても不安が勝ってしまう。
「あ!今、お前になんか作れるか、って思ったでしょ!そんなこと言ってると、後悔することになるんだから!」
「そう…なんだ」
「君には特別なやつを作るんだから!」
特別とな。その響きだけで身震いしそうだ。一体、どれだけ凶悪なものを作る気なのか。怒ったように頬も耳も赤くしてそっぽを向いていては、図ることはできない。約二週間後に迫ったバレンタインの日、僕はどうなるのだろうか。
……
そんな宣言をした神原さんだけど、それに現を抜かすことを僕が許すわけもない。といっても、今回のテストの勉強を手伝う約束はしていないから、僕が彼女に構う理由はない。……はずなのに、どうしてか、僕は彼女と共に図書室へと来ている。
「ねぇねぇ、大崎くん。学年末テストなんだから、何も今から始めなくてもよくない?テストって、卒業式の後にあるんでしょ?今から始めても忘れちゃうよ~」
「とは言うけど、学年末だからこの一年の学習内容が範囲になってるんだよ。簡単にでも復習するためにも、今から始めるべきだと思うけど」
などと言ってみると、分かりやすく頬を膨らませて不満さを表している。理解はしているけど納得はしていない、そういうことだと思う。
「じゃあ、せめてバレンタインデーが終わってからにしよ?それなら、私の気も紛れないから」
「まぁ、それで真面目に取り組むなら。……ていうか、そもそもの話なんだけど」
「なに?」
「今回は、勉強を教えることを頼まれてもないし、僕から頼みこんでもない。教えなくてもいい?」
「甘いね、大崎くん。私は前回のテストで終わりとは言ってないよ!今回だけじゃなく、次もその次も、私は君におんぶに抱っこのつもりでいるから!」
「そんなに威張って言うことではないからね」
まるで偉い人かのようにふんぞり返っているけれど、言っていることは全く偉くはない。むしろ、僕にいい迷惑をかけている。
そのはずなのに、どうしてか、初めて会った十月の時とは違って、気の悪い感情は浮かんでこない。それどころか、どこか安堵している自分がいる。一体、何に安堵したのかも分からないけど。
……
そして、そんな約束をしてしまったが故に、無暗に彼女を勉強に誘うのも気が引けて、僕は今日も一人で図書室へと来ていた。特に用もなく僕に声をかけてくる彼女だけど、勉強するから図書室に行くと伝えると、途端に用事を思い出したとか言って颯爽と踵を返す。
だから、誘う誘わないの前に、僕のことを伝えるだけで終わる。誘う暇すらない。バレンタインデーを楽しみにしている彼女だから、きっと気持ちが逸っているのだと思う。ただ、それとは別に、背中を丸めて帰る彼女は、何か聞きたがっているようにも見えた。
だけど、僕にそれを問う気なんてない。今の僕が考えるべきは、この一年の授業内容を復習することだけ。でも、強いて言うなら、バレンタインの贈り物をくれるという神原さんへのお返しをどうしようかということくらいだ。
そんなことを頭の片隅に置いていた僕だけど、そうも言ってられない出来事がバレンタインデー前日に起こる。神原さんの事ばかり考えていて、他のことについて全く予想していなかった。まさか、あの二人が揃って家に来るとは思ってもみなかった。
……
その電話がかかってきたのは、バレンタインデーを翌日に控えたとある週末。休日を挟むこともあって、バレンタインデー当日は一際盛り上がることが予想されていた。一週間の最後の登校日では、主に男子たちがそわそわと落ち着かない様子だった。
そんな例にもれず、坂下も浮足立っていた。何でも、小野さんにさり気なく貰えないかと催促したらしく、週明けが楽しみとのこと。
ただ、そんな話を聞いてしまった手前、今の状況は少しだけ申し訳なく思う。というのも、男子諸君が盛り上がっているのと同様に、女子の方も人によっては一大事であるため、静かに奮闘している。
ということを、なぜ僕が知っているかというと、まさにその電話が切っ掛けである。
朝から勤しんでいたバイトが昼過ぎに終わり、帰ってから遅めの昼食を済ませると、頃合いを見計らったようにスマホが着信を知らせる。
『もしもし、大崎くん』
「秋希ちゃん?何かあった?」
画面を確認して、電話をかけてくること自体は不思議に思いつつも、躊躇うことなく出る。もし、これが神原さんだったら違っていたかもしれない。すぐに不審な気配を察知して、慎重に言葉を選んでいたと思う。でも、秋希ちゃんであれば、その心配もない。
というのは、あくまでも秋希ちゃん一人であればの話。
『えっと、その…あ、代わりますね』
「秋希ちゃん?代わるって誰に?」
『もしもし。今、時間大丈夫?』
「その声…小野さん?」
『正解。今さ、私たちスーパーにいるんだけど、買い物が済んだら大崎の家行っていい?』
「いや、普通に困るんだけど。そもそも、どうして僕に家に?」
秋希ちゃんから連絡が来る時は、大抵が噂のことについて。今日もそのことかと思ったけど、すぐ隣に小野さんがいるならそれは考えにくい。となると、スーパーで買い物中ということも鑑みると、明日のことも含めると多少なりとも察することができる。
『キッチンを借りたくてさ。あと、豊富な経験知も。ちなみに、分かってると思うけど、これは明日が本番のあれのやつだから』
「なんとなく察してたけど。それ、僕の家でやる意味ある?」
『あるさ。神原家は今、春留が独占してる。それに、どうやら秋希は一緒に作りたくないみたい。悪い意味じゃくてさ、サプライズ的な話。で、私の家で作ってもいいんだけど、折角なら料理に明るい人がいた方がいいかなってさ』
「……まぁ、秋希ちゃんがいいならいいけど。僕もお菓子作りの経験なんてほとんどないよ?」
『だとしても、私たちよりはマシでしょ。ていうか、道具ある?なかったら持ってくけど』
「一応はあるよ。基本的なものなら作れると思う」
『おっけー。んじゃ、三十分後くらいに行くから~』
そうして通話が終わり、僕は室内を見回す。三十分後と小野さんは言った。であれば、軽く掃除はしておこう。これからお菓子を作るのなら尚更。窓という窓を開けて換気をして、各部屋の隅々まで掃除機をかける。
それが終われば、お菓子作りに必要な道具を準備しておく。ボウルだのヘラだの、念のために一度綺麗に洗っておいたり。
なんて慌ただしくしていると、エントランスから来客を知らせる音が聞こえる。どうやら、いつの間にかそんなにも時間が過ぎていたらしい。モニターに映る姿が二人だけなことに、僕はどこか違和感を感じながらエントランスのドアを開くボタンを押した。
「ふぅ~、意外と遠かった~。ね、何か飲み物ちょうだーい。買うの忘れちゃって」
「麦茶でいい?」
「ありがとー」
「秋希ちゃんもいる?」
「はい、ありがとうございます。その前に、これを冷蔵庫にしまってもいいですか?」
「置いといていいよ、僕がやるから。秋希ちゃんも、ほら、小野さんみたいに寛いでなよ」
「…いえ、さすがにあそこまではできません。大崎くんの家に来たのは初めてですから」
何の躊躇いもなくソファに埋もれている小野さんを倣ってもらおうかと思ったけど、そういえばそうだ。なぜかそんな気はなかったけど、秋希ちゃんは初めてうちに来たんだった。そういうのもあって、どこか落ち着かない様子なのだろう。まぁ、秋希ちゃんが小野さんのように遠慮なく寛ぐとも思えないけど。
とはいえ、根がしっかり者なのだろう、小野さんに「手洗いうがいをしましょう」なんて言っている。そんな気なんて更々なかったのか、小野さんの腰は重そうだ。
戻って来る二人に合わせて、テーブルに麦茶の入ったコップを二つ置いて、僕も座る。どうやら、一息ついてから始めるみたいだ。買い物をして、その荷物を持ち、ここまで来て疲れている様子。
僕としては、この家を使われること自体に文句はないけれど、あまりゆっくりしていては時間が遅くなる。二月になり、寒さが和らぎつつあるといっても、明るい時間はまだまだ短い。暗くなる前に、どうにか片をつけたいものである。
という僕の意思には反して、小野さんは寛いだまま世間話を始める。家に上がるのは二回目なはずなのに、その貫禄は家主である僕以上だ。微妙に落ち着かない様子の秋希ちゃんとは正反対である。
世間話といっても、今日の目的もあってか無関係ということもない。秋希ちゃんがチョコ作りにやる気を出している理由だったり、神原さんが今も孤軍奮闘しているという話。小野さんが秋希ちゃんの事情について問い詰めていたけど、分かったのは、お礼をしたい人物が三人いること。そして、その一人は僕であること。他の二人に関しては、どうしても口を割らなかった。ただ、その内の一人には心当たりがある気がする。
そうこうしていると、小野さんの止まることを知らない話題は、そのままお菓子作りのことへと移っていった。材料を買い、やる気になっているのはいいものの、まだ何を作るかは漠然としているらしい。僕には、その手伝いも兼ねられているとのこと。
だけど、お菓子作りの経験なんてない僕だから、有意義なことを言えそうにない。そこで登場するのが、とある本。やはり、持つべきものは友達ということらしい。
「お菓子作りの本か。なるほどね、だから道具だけは揃ってると」
「これ、誕生日プレゼントとして坂下からもらったんだよ。せっかくだし、何か作ろうかと足りないものは用意したところ」
「んじゃまぁ、この中から決めよっか。秋希は何作りたい?」
「私は…簡単なものがいいです。失敗したくないので」
「それなら、生チョコなんてどうよ?最初のページに載ってるし」
「では、それで。美月さんはどうしますか?」
「私はね~……」
秋希ちゃんの作るものが早々に決まり、次は小野さんの番なのだけど、これが中々決まらない。これもいいあれもいいと、何度もページを行ったり来たり。
「そういえば、美月さんは誰に渡すのですか?男の子ですか?」
「まぁ、男子もいるよ、大崎とか」
「え、僕にもくれるんだ?」
「そりゃね。こうして場所を借りてるのと、手伝ってもらってるお礼も兼ねて」
くれること自体はとても嬉しくはあるけれど、素直に喜びづらい節がある。というのも、どうしても脳裏に坂下の顔が過ってしまうから。さり気なく催促したと言っていたけど、果たして本当にさり気なさを出せていたのか。却って、機会を失ったりはしていないだろうか。晴れて友達となったのだから、ここは僕からも一言くらいは言葉を添えておこう。
「友達にもあげるってことなら、その…坂下にも?」
「……あいつねぇ」
と、禁句だったのだろうか。名前を出した途端に、一つため息を吐く。やはり、何やら上手くはいってなさそうだ。
「あげてもいいかなーって思ってたんだけど、なんか、催促されたからやめてやろうかと思ってる。あからさまにバレンタインデーの話題出して、チョコがどうのってほざいてんの。もうちょっとさり気なさを出せっての」
「あぁ…いや、それは…」
何ということだろうか。まさか、僕の悪い予想が当たってしまうなんて。それにしても、本人曰く、さり気なくと言っていたけど、当の相手には下心しか見えていない。話を聞いただけの僕ですら、そう思う。これのどこが、さり気なくなのだろうか。
「まぁ、でも。大崎がそこまで言うなら、クッキーの一枚くらいはあげるかぁ」
「よかった、どうにか思い直してくれて。さすがに、そこまで露骨だと僕も助けられないから」
「ていうか、あんたらいつの間にそんなに仲良くなったの?前からそんなんだったっけ?」
「最近かな。ちゃんと友達になったんだよ」
「そう。なら、そんな大崎に免じて、二枚に増やしおいてあげるか」
「坂下も喜ぶよ、きっと」
明日、貰った瞬間に喜びのあまり小躍りを始めるかもしれない。なんて言ったら、小野さんの機嫌を損ねるかもしれない。これ以上数を減らされないためにも、坂下については言及しないでおこう。
「それより、作るもの決まったんだね」
「ま、クッキーなら作ったことあるし、どうにかなるかなって」
と、ここで小野さんの新情報。なんと、お菓子作りは未経験ではないらしい。であれば尚の事、この場に僕は必要だったのだろうか。消えかけていた疑問が復活してくる。が、今更なのでもう何も言わないことにする。
「それじゃあ、休憩は終わりにして、そろそろ始める?」
「はい、始めましょう」
「やろやろー」
こうして、珍しい面子でのお菓子作りが始まる。と思ったら、まだ準備があるらしい。持ってきたトートバッグから、何やら二つほど物を取り出す。
「秋希、後ろ向いて。髪縛るから」
「はい、お願いします」
座ったままの姿勢で、素直に後ろを向いて綺麗に背筋を伸ばす。秋希ちゃんの髪は、神原さんや小野さんに比べて短いとはいえ、男の僕よりは長い。ともなれば、髪を結ぶことくらいはするだろう。普段、自分がしないからそんな準備があるとは考えていなかった。
「はい、終わり。秋希は髪短いね。伸ばすの?」
「…考え中です」
「だってさ。大崎、どう思う?」
「え、何で僕に…」
「伸ばしたら春留みたいになってそれもそれで可愛いけど、今みたいに短いのも良いよね~?」
「そうだね。どっちも似合うとは思うよ」
「……ありがとうございます」
髪が長くなった秋希ちゃんを想像してみるけど、どうしても神原さんと重なってしまう。姉妹だから顔立ちが似ているのもあるけど、姉の個性が強すぎるのが原因かもしれない。
「私の髪も結んで~。適当でいいからさ」
という小野さんの視線は、なぜか僕に向いていた。てっきり、お返しというわけではないけど秋希ちゃんがするものだと思っていた。でもどうしてか、ヘアゴムを持つ小野さんの手は僕の方に伸びている。
「僕がするの?」
「してくれないの?秋希の髪を私が結んだから、私の髪は…と思ったんだけど」
「えっと…」
「私がします。美月さん、大崎くんを揶揄うのは止めてください。困っていますから」
「はいは~い」
どうするべきか迷っている間に、秋希ちゃんが割って入る。僕に伸びていたヘアゴムを取って、小野さんの後ろへと回る。そこで揶揄っていることを否定しないあたり、あれは冗談だったのだろう。どうして、あんな冗談を言ったのかは分からないけど。僕は、何かを試されているのだろうか。
「あれ?美月さんの髪、青い…?」
と、手櫛で髪を梳いていた秋希ちゃんが、当然ながら気づく。いくら髪の内側で、光の加減でしか変わらず、目立たない色合いでも、ああも距離が近ければ気づかないわけがない。
「お?気づいた?気づいてくれた?」
「これ、綺麗ですけど…怒られませんか?」
「怒られるだろうね、気づかれたら。でも、大丈夫。秋希だって、こうして触るまで気づかなかったんだから。春留ですら、まだ気づいてないんだよ?」
「そうですか。気づかれないといいですね」
「秋希は染めたりしないの?良いお店教えよっか」
「そこまでの勇気はありません」
優等生たる秋希ちゃんは、悪い勧誘には引っ掛からない。姉妹だから当然ではあるけど、神原さんと同じ黒髪は性格や口調の丁寧さを強調する凛々しさがある。それが魅力ではあると思うけど、髪を染めた秋希ちゃんというのも興味本位で見てみたい気はする。
「はい、できました。すぐにでも始めましょう」
「はいよ~。秋希、エプロンも着なね~」
身だしなみという準備を終えて、いざキッチンに立ってみたが、ここで新たな問題が浮上する。それは以前、神原さんが来た時にもあった問題である。
「…ふむ、狭いね」
「そうなんだよね。ここ、一人暮らし用だから三人はおろか、二人でも窮屈なんだよ」
「並ぶだけならできますけど、色々と道具を使うとなると…お互いが邪魔になりそうです」
作業場の狭さという問題が浮上し、どうしようかと頭を悩ませる。僕が抜けて、小野さんと秋希ちゃんの二人であればギリギリどうにかなりそうではある。だけど、それでも狭いことに変わりはないので、危険が伴う。
「あの…」
と、そこで手を上げたのは秋希ちゃんだった。何やら思いついたらしく、僕と小野さんへ交互に視線を送る。
「私が作るものはそれほど大変な作業でもないので、こっちの広い場所でもできると思います。ただ、少しだけコンロを借りられれば、それで」
「秋希…あんた、なんて良い子なの…!お姉ちゃんが褒めてあげる…!」
そう言って、僕の目を憚ることなく抱き寄せる。秋希ちゃんとしても全く予想していなかったのだろう、小さく驚きの声を上げながら為す術なく抱え込まれる。
抱き寄せられてから、じたばたと抵抗しているものの意外と振りほどけないものなのか、中々離れることができていない。
「美月さんはお姉ちゃんではありません。私のお姉ちゃんは一人だけです」
「じゃあ、私が春留と結婚すれば、合法的にお姉ちゃんになれるってこと!?」
「そうなっても呼びませんし、なる前に止めます」
「ま、そうだよね~。相手は私じゃないか~」
と、なぜか僕の方を見てくる。どうして僕を見るのだろうか。まさか、助けを求めているわけでもあるまい。どちらかといえば、そうするのは秋希ちゃんの方だろう。では、この視線の意味とは一体。
「とにかく!」
腕の力が緩んだ隙を見逃さず、秋希ちゃんは熱い抱擁から抜け出す。なんだかんだと言いつつ、本気で嫌がってはいない様子である。丁寧な口調を止めてくれないと小野さんは愚痴を零していたけど、そうでなくともずいぶんと親密にみえる。ここまで許されるのは、家族を除けば小野さんだけなのではないかと思う。
「私はこっちでするので、キッチンは美月さんが使ってください。大崎くん、こっちに来て教えてください」
「はいはい。えっと、まずは…」
「え~、私も手伝ってよ~。私一人でやれって言うの~?」
「はいはい」
「大崎くん、まだ終わってません」
「はいはい」
「おーい、準備手伝ってよ~」
「はいはい」
本気で助けを求める秋希ちゃんと、揶揄い交じりな小野さん。呼ばれる度にそっちへと赴く僕は、二人の間を行ったり来たり。そんな僕の様子が面白いのか、小野さんは悪戯な笑みを浮かべている。次第に、秋希ちゃん方も面白くなってきたのか、微笑みを見せながら少し上擦った声で僕を呼ぶ。
そんなことを繰り返し、必要以上に歩かされた僕の堪忍袋の緒が切れたのは言うまでもない。それでも、本気で怒ったわけではないと分かっているのだろう。きゃっきゃと笑う二人は、ずいぶんと楽しそうだった。
……
いざ作り始めると、秋希ちゃんの方は思いのほか手際よく進んだ。買ってきたチョコを刻み、温めた生クリームと合わせてよく混ぜ、整形したら冷蔵庫で冷やし固めて、仕上げにココアパウダーを振りかければ、完成。
お菓子作りをしたことがないと言っていた秋希ちゃんだけど、レシピに忠実に作ったのと持ち前の丁寧さで、危なげなく全ての工程を終えた。
そして、小野さんの方もこれまた難なくチョコクッキー作りを完遂した。ただ、チョコを角切りにしたり、オーブンの準備、下準備のところまでは順調だったのに、生地を作る時の混ぜるという工程だけは、僕に押し付けられた。渋々了承したものの、その理由を聞いてみると「いや、普通に疲れるし」という僕にも当てはまるものだった。おかげで、腕の疲労は最大限まで溜まってしまった。
一通りの作業が終わり、小野さんのクッキーは焼き上がりを、秋希ちゃんの生チョコは固まるのを待つ間に、僕も一つ、とても簡単なものを作ってみることにした。余ったチョコと、冷蔵庫に入っていた牛乳を使った、ホットチョコレート。
ソファに沈み込みながら一息つく二人に、出来立ての温かなホットチョコレートを差し出した。そんな甘いものに惹かれた小野さんと、他人の家であることを思い出して姿勢を正す秋希ちゃん。すると、小野さんが妙なことを口にする。
「つまり、これは大崎から私たちへのバレンタインってこと?」
「………いや、まぁ…そういうことでいいや」
「そっか、そっか。この場に春留がいないのが悔やまれるよ。ねぇ、秋希?」
「そうですね。後で恨み節を聞くことになるかもしれません。あ、美味しい」
一体、どこに神原さんが悔やむ箇所があるのか、どうして神原さんが恨み節を言うのか、僕にはよく分からない。ただ、彼女もこの場にいてくれたら、と思う僕がいる。
そんな叶わない話をしていると、キッチンの方からクッキー生地の良い匂いが漂ってくる。どうやら、上手く焼けているらしい。確認に行った小野さんが、得意げに親指を立てている。ついでに余ったチョコもつまんでいる。
それからほどなくして、オーブンが焼き上がったことを知らせる。出来を確かめるため、クッキーの一つを割って中身を見る。そして、食べる。また得意げに親指を立てる。どうやら、出来はよかったらしい。
秋希ちゃんの作った生チョコもしっかりと固まったらしく、二人でキッチンに籠ると、何やら言い合いが始まる。喧嘩なわけもないと思いながら耳を傾けると、どうやら包装のことで意見が割れているらしい。
この色がいいだとか、この包み方がいいだとか、この結び方がいいだとか。僕には分からない部分で白熱している。ただ、お互い自分のものがあるのだから好きにすればよいのでは、と思う。
というのが口に出ていたらしく、運悪く聞かれてしまったら「渡す人の好みってもんがあるでしょうが!」と僕にまで飛び火した。これ以上、僕に矛先が向いても怖いので、大人しく残りのホットチョコレートを飲みながら待つことにした。
……
激化した包装バトルが終了した頃には、二月の太陽はとうに沈んでいた。辺りは暗く、あるのはぽつぽつと続く街灯の明かりだけ。
そんな街並みを十階の高さから見た小野さんは、ほとんど強引に僕も外へと連れ出す。とはいえ、僕も送ろうかどうか迷っていたので、大義名分ができたのなら躊躇うことはない。
「いや~、助かるよ。こういう時、男の子がいてくれるとありがたいね~」
「ありがとうございます」
「強引だったけどね。上着を取れたのが奇跡だよ」
危うく、この寒空の下を薄着で歩くことになるところだった。二月になろうとも、まだまだ寒さは厳しい。また雪が降ってもおかしくない、そう思える気温のままだ。
「ま、両手に花だからいいじゃん」
そんなことを言いながら秋希ちゃんに同意を求めるけど、それに頷くことはなかった。逆に、否定もしなかったけど。
「美月さんの冗談はさておき。今日はありがとうございました、大崎くん」
「ありがとね。ほんと助かったよ。何から何までお世話になっちゃって」
「うん、役に立ったならよかったよ」
秋希ちゃんからの突然の電話は何事かと思ったけど、ふたを開けてみればお菓子作りの手伝いという何とも疲弊するものだった。こうも疲れを感じるのは、小野さんがいたからかもしれない。秋希ちゃん一人であれば、もう少し可愛らしいものになっていた気がする。とはいえ、秋希ちゃんが一人でうちに上がることはないと思うから、あり得ない話である。
だけど、日がな一日、一人で過ごすよりは、何かと有意義な日になったと思う。手を付けあぐねていたお菓子作りのきっかけになるかもしれない。
「それにしても、明日は楽しみだね。春留は一体、どんなのを作ったのかな~」
「僕としては少し不安だけどね。堂々と、特別なやつを作るって言ってたから」
「あ~、それは…期待しちゃうね~」
僕の意見とは裏腹なことを言う小野さんは、なぜかとてもにやにやと口角が上がっている。神原さんの作るものを予想できているのか、悪戯な笑みが張り付いている。そして、それは秋希ちゃんも分かっているようで、小野さんの意見に頷いている。どうやら、この場において分かっていないのは僕だけらしい。
いよいよ明日、僕には予想もできないバレンタインデーが始まる。