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誕生日


 一月の終わりが迫り、二月を目前に控えた日。今日も今日とて、もはや日常となった風景が過ぎ去るものと思っていた。でも、決してそんなことはあり得なかった。結果から言うと、この日は僕の人生の中でも一際感情が揺れ動いた日となった。ただ、それは何も悪い方向ではなく、むしろ、これまでの人生と比べても良い方に動いたと言える。


 それもこれも、彼女たちのお蔭。この一言に尽きる。友人たちの優しさや気遣いを、この先も忘れることはないだろう。たとえ、これからの季節が春に移ろうとも。


 ……


 朝、機械的な動きで点けたテレビからは、もう何度も言っているであろう今日の日付を口にしていた。今日の未明までに起こった事件や事故を淡々とした口調で話すアナウンサーを横目に、お湯を沸かそうとドリップポットをコンロの上へと置く。


 その間に、コーヒーを作るための道具一式を取り出す。必要なもの、ペーパーフィルターやコーヒー豆、準備を整えて、後はお湯を注ぐだけの状態にする。朝一番に行うこの作業も、今では日常となり、覚束なく手を動かしていたのが遠い過去のように感じる。


 そんな感慨に耽る心はキッチンに置き去りにして、洗面所へと向かう。火にかけたポットが音を鳴らすまではまだしばらくかかる。その時間を持て余すよりも、こうして顔を洗って目を覚ましたり、歯を磨いて不快感を消したり、寝間着を取っ払って制服に袖を通した方が有意義といえる。実際、この諸々を終えた頃に、ちょうどお湯は沸く。


 かたかたと蓋を揺らし、甲高い音と湯気を発するポットをコンロの火とはおさらばさせる。大人しくなったそれを、待ち構える豆へとゆっくりと回しかける。立ち昇る湯気にのって、コーヒー特有の苦さを有した香ばしい香りが漂ってくる。少し待ってから再度お湯を注ぎ、何度か繰り返して、コーヒーが最後の一滴まで落ちるのを待つ。


 そんな変わり映えのない朝の時間を過ごし、登校までの空いた時間に最低限の家事を済ませておく。それすらも終わり、いよいよ椅子に腰を落ち着かせた時、スマホがけたたましく鳴り響く。これは、誰から電話がかかってきている。でも、一体誰なんだろうか。こんな朝早くから電話をするほどの用事。もしかすると、何かしら緊急性のあることかもしれない。


 少しの緊張を纏いながら画面を確認すると、そこには意外な人物の名前が表示されていた。


「もしもし、秋希(あき)ちゃん?どうしたの、何かあった?」

『お、おはようございます、大崎(おおさき)くん。えっと…その、今、お時間大丈夫ですか?』

「うん、大丈夫だよ。あとは家を出るだけだから、ゆっくりしてる」

『でしたら、その…下に降りてきてくれませんか?』

「下…?」

『今日は少しだけ早く登校しましょう、私と一緒に。待ってますね。では』

「え、ちょ、秋希ちゃん?」


 と、呼びかけ空しく、スマホは一定の間隔で通話が終了したことを伝えている。一体、どういうことなのか。状況を理解しきれていないけど、どうやら彼女はここに来ているらしい。であれば、こうしてはいられない。


 僕は置いてあった鞄を引っ掴んで、靴を履くのもそこそこに家を飛び出す。二月が迫ってもまだまだ寒さを強く感じながら、小走りのままエレベーターを呼び出し、逸る気持ちを表すかのように何度もボタンを押してしまう。そんな僕の気とは裏腹に、エレベーターは変わらずゆっくりと扉を動かす。


 今日ほど、十階という比較的上の階に住んでいることを煩わしく思ったことはない。一つずつ下がっていく階数が長く感じる。途中、誰も乗り合わせないでほしい、そう願いながら階数表示を睨み続けた。


 ようやく、一階に辿り着き、ゆっくりと開く扉を押し退けるように外へ出ると、エントランスの向こうに待ちぼうける姿が一つ見える。


「秋希ちゃん」

「あ、大崎くん。おはようございます。すみません、無理を言ったようで」

「それはいいんだけど、何かあった?こんな朝早くに来るなんて」

「いえ、事件事故そういう話はありません。ただ、えっと…これを渡したくて」


 最悪の可能性を否定してくれた秋希ちゃんは、鞄から何やら紙袋を一つ取り出す。そして、前述の通りに、おずおずと僕にそれを差し出す。


「プレゼント、です。今日は、大崎くんの誕生日とのことなので。おめでとうございます」

「あ、あー……そっか。今日って、僕の誕生日だったか」

「忘れていたのですか?誕生日を?」

「まぁ、うん。祝わってくれるとしたら両親くらいだったから。でも、今はその両親もいないし、友達もいなかったから。そういう考えがそもそもなかったよ」

「やっぱり、私より大崎くんの方が友達がいないじゃないですか」

「それは昔の話。今はいるよ」


 秋希ちゃんもその一人だ。こうしてプレゼントをくれるのだから、はっきりと友達と言ってもいいと思う。と、友達論争に熱が入って、プレゼントのことを忘れていた。


「これ、中身見ていい?」

「どうぞ。お姉ちゃんほど面白くもないですけど」


 なんて、神原(かんばら)さんもプレゼントを用意していることを示唆しつつ、奇抜なものが待ち構えているのかと不安にもなる。けど、今は目の前の秋希ちゃんの方に意識を向けよう。神原さんが何を用意していも、それはその時に対処すればいい。多少、気持ちの準備だけはしておくとして。


 さほど大きくもない紙袋を探ると、中からは秋希ちゃんらしいといえばらしいものがお目見えする。


「これは…文庫本?タイトルは…『偶像(ぐうぞう)変化(へんか)』?」

「変化と書いて、『へんげ』と読むみたいです。『偶像(ぐうぞう)変化(へんげ)』」

「これを、僕に?」

「はい、個人的におすすめの一冊です。ただ、あまり本は読まないそうなので、気が向いたら程度で構いません。いつか、読んでみてください」

「わかった。暇を見つけて読んでみるよ。感想とかって、言った方がいい?」

「はい。できれば、話し相手になってほしいです」

「時間がかかるかもしれないけど、読み終えたら言うよ。ちなみに、ネタバレがない程度にあらすじとか聞いてもいい?」

「もちろんです。歩きながら話しましょう、途中までは同じ道なので。それでですね、この物語は───」


 と、珍しくやや興奮気味の秋希ちゃんを伴って、誕生日であろうとも変わらない通学路を歩く。貰った本は大切に鞄にしまい、少し口調が早くなっている秋希ちゃんの話に耳を傾ける。


 秋希ちゃん曰く、この物語には一人のアイドルが登場するらしい。彗星の如く現れた一人の少女は、瞬く間にアイドル街道を上り詰め、その世界では知らないものはいないほどの存在となる。たった一人で何千何万というファンを魅了し、アイドルという歴史に名を刻む伝説となる。そして、ここから物語は加速するという。ただ───


「ここから先は読んでからのお楽しみです、ネタバレはなしですから。では、私はこっちなので」


 そこから先は自分で読むことを促して、秋希ちゃんによるあらすじの読み聞かせは終了する。そんな丁度の頃合いで、別れ道へと着いたようだ。指差す先に歩き出す秋希ちゃんに、別れを言うように手を上げる。そのまま歩いていくと思ったら、すぐに止まりこちらに振り向く。


「大崎くん。改めて、お誕生日おめでとうございます。今日一日が楽しい日になることを祈っています。まぁ、お姉ちゃんがいるので、その心配は必要ないと思いますけど」

「ありがとう。秋希ちゃんのお蔭で、良い一日が始まったよ」


 僕の言葉を聞いて、今度こそ完全に背を向ける。そして、見送るその背中は、心なしか楽し気に弾んで見えた。好きな小説の話をできたのが、ずいぶんと嬉しいみたいだ。意気揚々と語っていた彼女の姿が思い起こされる。


 曲がり角に消えていく秋希ちゃんを見送って、僕も通学路を再び進む。彼女が絶賛するこの小説、あれだけ熱弁してくれたお蔭で読むのが楽しみになってきた。秋希ちゃんに倣って踊り始めた心は、一体、何を楽しみにしているのだろうか。


 ……


 いつもより早い時間を、いつもと同じ速度で進む。見える景色が変わっているように感じるのは、時間がほんの少しだけ先行したからなのか。それとも、今日という日をどこか特別に感じているからなのか。


 早い時間に着いた学校は、どこか空気が張り詰めているように感じた。これもまた、この時間特有の空気感なのかと思ったけど、おそらく違う。グラウンドの方から聞こえてくる掛け声が、その正体だ。


 昇降口を抜け、グラウンドを映す窓を覗き込むと、僕以上に朝早くから熱心に練習に打ち込む運動部の姿が見える。声を張り上げて白球と向かい合う野球部、体をぶつけ合いながらもボールに食らいつくサッカー部。この小さな窓に映るのは二つの部活しかないけど、それ以外にも様々な部の声が学校中には響いている。


 そんな物珍しい光景を眺めていると、近くにもう一人の珍しい人物を見つける。それはむこうも同じようで、さも珍しいものを見たという顔を隠さずに走って来る。


「よぉ、大崎!どした、こんな時間に。部活か?」

「部活じゃなくて、朝早く出る用事ができてね」

「そうか…って、当然か。お前、今日が誕生日だもんな。あ!ちょっと待ってろ。俺からも渡すもんあるから」


 それだけ言い残すと、この真冬の気温でも汗をにじませた坂下(さかもと)が、僕の向かう先でもある階段を駆け上げっていく。


 どうせ僕の行き先は教室なわけだから、このまま後を追おうかとも思ったけど、万が一にもすれ違っては申し訳ない。大人しく、この場で待つことにしよう。それから二分もしない内に戻って来たので、待っていてよかったと思う。


「ほい、これ。俺からの誕生日プレゼントってことで」

「ありがとう。まさか、坂下もくれるとは思わなかった」

「ま、一応、俺たちは友達になれたらしいからな」

「それで…なにこれ?」


 今、僕の手にあるのはまたしても本。ただし、先ほどとは違い、その大きさは文庫本をはるかに超えている。教科書よりも大きいその本の表紙には、こう書いてある。


「『簡単にできるスイーツ入門書』?」

「そう。お前、料理するって言ってたろ?だから、それ見て何か作るかなって。作ること自体には前向きだったから、ちょうどいいかと思って」

「確かに言ったかもしれないけど…」


 だからって、まさか料理本を渡すから作ってくれ、とでも言うのだろうか。意外にも、坂下は甘いものが大好きなスイーツ男子なのかもしれない。だとしても、人の作ったものを食べたいというのは違うような気がするけど。


「今度、それ見て何か作ってくれよ。俺とお前、それに神原や小野(おの)も誘えば、余らすこともないだろうし」

「わかった。でもまぁ、そんなに期待はしないでほしいかな。お菓子って、初めて作るから」

「おうよ。気長に待っとくぜ。ってか、今渡せて助かった。実は、いつ渡そうか考えてた節があったからよ」

「そういえば、坂下はどうして朝早くに学校に?部活とか入ってたっけ?」

「いや、部活には入ってねぇ。ただな、なぜか助っ人を頼まれちまって、朝練の」

「朝練の…?」

「な、そこ意味わかんないよな。なんで朝練なんだよ。普通、練習試合じゃね?って思った。まぁ、必要らしいから俺は戻るわ。じゃあな」

「うん、プレゼントありがとう」


 僕のお礼を、爽やかな好青年のように受け止め、再びグラウンドの方へと走っていった。どうやら、坂下は案外、頼られているらしい。もしくは、都合の良い存在なのか。友達となった今、できれば前者であってほしいと思う。


 それにしても、ふと疑問に思う。秋希ちゃんもそうだけど、どうして坂下は僕の誕生日を知っていたのだろうか。僕から二人に伝えた覚えはない。となると、僕以外の誰から聞いたか、どこかで知る機会があったか。次に会った時にでも聞いてみよう。もしも、僕の個人情報が漏洩しているなんてことがあったら、金銀財宝なんて持ってはいないけど、不安には打ち勝てないから。


 ……


 音もなく、気配もなく忍び寄っているかもしれないという不安が拭えないまま、誰もいない教室に入る。放課後のように物静かな空間は、時間感覚を朧気にさせる。当たり前に人がいるはずの空間に誰もいない、その事実はいくらか僕の不安を煽ってくる。


 でも、廊下から微かに聞こえてくる靴音が、世界に一人取り残されたわけではないことを伝えてくれる。ようやく、僕は教室の中を一歩進み始め、いつもと変わらない自分の席へと座る。


 だけどやはり、視界に映るはずの人たちがいないというのは落ち着かない。一通りの鞄に詰められていた教科書類を机に仕舞っても、それだけでは時間の経過なんて微々たるもの。いつ来るかは分からないけど、二番目にこの教室に人が訪れるのはもう少し先だと思う。


 ふと、口の開いた鞄から覗いている紙袋に気づき、それを取り出す。ついさっき、秋希ちゃんからもらったプレゼント、一冊の文庫本。時間を持て余しているからと思い、冒頭部分に目を通してみる。



 秋希ちゃんの言っていた通り、最初は、とあるアイドルがその栄光を昇っていく様が描かれていた。デビューから僅かな期間で、その名前を誰もが知る有名へと変えていく。瞬く間に上がる名声に引き摺られるように努力を強いる姿勢。それに加えて、ファンの顔をして好き放題に言うネットの声。およそ、僕のような一般人ではしないような体験の中、彼女は頂きへと至る。華やかな舞台、彩られたスポットライト、湧き上がる歓声、どこまでも続くサイリウムの波、彼女のアイドル人生において至上のライブが幕を開ける───



 そんなところで、僕の意識は本の世界から現実の世界へと引き戻される。少し前まで聞こえなかった複数の靴音。どうやら、僕の意識はこれに連れられたらしい。


 閉じた本の先では、今頃、圧巻のパフォーマンスを携えた彼女が歌い、踊っていることだろう。それでも、ページをめくっていない僕には、この先は読めない。物語を掴むためにもう少し読み進めてもいいんだけど、既に本から意識が離れてしまっては再開は難しいと思う。


 僕はもう一度、本を紙袋にしまって鞄に戻すと、代わりに財布を取り出す。鞄にはお茶の入った水筒があるものの、どうにもお茶の気分にはなれない。ここは、今朝も飲んだコーヒーといこう。少し早起きした弊害として、いつ眠気が襲ってきてもおかしくない。先んじて、手を打っておいて損もない。


 そう思い、人が疎らに行き交う廊下へと出る。学校に来たばかりとは変わって人の数が増えたとはいえ、まだまだ全校生徒に遠そうだ。歩く廊下にも、まだいくらも余裕がある。


 購買に向かうまでに、数えられるほどのすれ違いを繰り返し、昇降口を横切ろうとしたところで僕の足は止まる。というよりは、止められる。


「おはよ、大崎」

「小野さん。おはよう、意外と早い登校だね」

「意外とは失礼ね。これでも遅刻なんてしたことがない優等生なんだけど?」

「優等生は髪を染めたりしないよ」


 風の吹いていない今は見えないけど、彼女の髪の内側は今も色濃く染められているのだろう。


「ま、それは置いといて。あんたこそ、いつもより早くない?誕生日だからって浮かれてんの?」

「そういうわけじゃないけど…いや、誕生日は関係あるけど」

「そんな浮かれ野郎にはこれをあげよう」


 と言って、手渡してきたのは一本の缶ジュース。


「もしかして、誕生日プレゼント?ありがとう、ちょうど飲み物を買いに行こうと思ってたんだよ」

「いやいや、冗談だから。それは自販機で買った時の当たり分だから普通にあげるって。本命はこっち」


 そう言って鞄から取り出したのは、そこそこ重さのある紙袋。重さは感じるものの、手に触れる感触はとても柔らかい。何か、粉のようなもので入っているのだろうか。それに、中身が飛び散らないようにか、紙袋の上から重ねて密閉するようにジッパー付きの袋で覆われている。


「これは…なに?」

「開けて匂い嗅いでみ。ぜったい分かるから」


 その言葉に従い、少しだけ袋の口を開けると、途端に香しい匂いが鼻に届く。この匂いは、今朝も嗅いだことがある。なにより、ここで呼び止められていなければ、今ごろ買っていたであろうもの。


「コーヒー?」

「そ、正解。私からのプレゼントはコーヒー豆。前に嵌ってるって言ってたから。もちろん、それはインスタントじゃないよ。道具もあるって言ってたし、ちゃんと淹れて飲んでみてよ。きっと美味しいから」

「うん、ありがとう。今日、帰ったら淹れてみるよ」

「淹れてみ、淹れてみ。そんで、感想も聞かせて。それ、私のオリジナルブレンドだからさ」

「へぇ、それはすごい。ということは、結構本格的?」

「まぁね。ていっても、私の好みに偏ってはいるかもだけど」


 なんて、肩を竦めてみせる小野さんだけど、袋から漂う鼻孔を擽る香りは、否応なしに美味しいものだと思わせてくれる。でも、彼女としてはあまりハードルを上げないでほしいのかもしれない。僕としては、期待せざるを得ないけど。


「そういえば、他にプレゼントもらった?」

「もらったよ。朝一に秋希ちゃんから。それに、少し前にも坂下から」

「それは何より。やっぱ、春留(はる)はまだか。放課後とかかな、そうなると」

「何を渡されるか分からないから怖いんだよね。何か聞いてたりする?」

「ん~…ま、聞いてても言わないかな。その方が楽しいでしょ?あんたも、あの子も」


 きっと、小野さんはプレゼントの内容を知らないのだろう。でも、神原さんが何やら面白いものを用意すると察して、僕の不安を煽るような言い方をする。


 本当に、この二人は親友なのだと思う。僕を揶揄うという点において、ここまで息が合っているのだから。


 ……


 そんな親友の片割れに会ったのは、彼女の言う通り、放課後だった。本日最後の授業が終わるとほぼ同時に、スマホが一つのメッセージを受信する。その差出人は言わずもがな。ただ、そこには、なぜか図書室に来てほしいと書いてあった。


 場所に対する疑問はあるけれど、了承の旨を返信して僕は席を立つ。その時に視界に捉えた小野さんが、何やら愉快な顔をしていたのは気になった。でも、聞くより先に逃げられてしまったので、諦めて教室を出た。


 それにしても、どうして図書室なのだろうか。小野さんや坂下みたいに、会った場所で渡してくれればいいのに。それとも、図書室でなければならない理由でもあるのか。


 そうこう考えていると、目的の図書室にあっという間に着いた。なぞの緊張感に苛まれながら、静かに扉を開ける。もしかすると、彼女のことだから扉を開けた瞬間にクラッカーでも見舞われるかと思ったけど、どうやらそれはないらしい。扉を開けて数秒、破裂音どころか、そこにはいつもと変わらない光景が広がっていた。疎らに座る人たち、各々がやりたいことを静かに進めている。


 そんな拍子抜けしている僕を、待っていたというのが声色で伝わる彼女が呼ぶ。なぜか、僕はその声にどきりとしてしまう。自分でも分かる、心臓が浮かれるように弾んだのが。もしかしたら、彼女にも聞こえていたんじゃないかと思うほどだ。


「大崎くん!こっちこっち!こっちに来て」


 そう彼女が呼ぶのは、本来は立ち入ることができないはずの図書準備室。そこに、彼女は堂々と踏み入っていく。当然、カウンターには例の如く司書の先生がいる。ちらりと窺った顔色は、意外なことに不機嫌そうには見えなかった。というより───


「早く行ってあげて。今日は、特別に準備室を使うことを許可してあげたから」

「ありがとうございます…?」


 言っていて自分でも疑問に思う、果たして、これは礼を言うことなのか。そもそも、これから起こることが良い事とは限らない。可能性として、文化祭の時にように脅かされるかもしれない。それなのに礼を言うなんて、中々に奇怪な姿ではないだろうか。


 なんて考えても、おそらく結果は変わらないだろうから、いつもより少しだけ気を強く持って、僕も続いて図書準備室の扉をくぐる。


 すると、そこは僕の想像とはおよそ違いのない場所だった。背よりも高い書架が立ち並び、所狭しと本が詰め込まれている。ただ、想像と違う点もある。


 その一つが綺麗であること。もっとホコリ臭い場所かと思っていたけど、床や書架、そこに並ぶ本たちも含めて綺麗に清掃されている。いつもこうなのだろうか。それとも、今日が特別に使っていいとなったから綺麗にされたのか。おそらく前者だと思う。そう広くない空間とはいえ、一朝一夕ではこうはいかないと思う。


 なんて、初めて立ち入る場所に少し感動していると、そっと扉が閉まる音の後に、予期していた破裂音が耳を劈く。


「お誕生日おめでとー!いえ~い!」


 手に持ったクラッカーを次々に炸裂させていく。絶え間なく続くクラッカーが出番を終えると、彼女は僕に満面の笑みを向けてくる。どうやら、僕からの一言を待っているらしい。


「えっと、ありがとう。素直に嬉しいよ。それに、まさかこんな場所が用意されているなんて。ありがとう、神原さん」

「ひっひ~、どういたしまして。先生に相談したら、特別に使っていいって言ってくれたの。それでね、こんなものまで用意できたんだよ!」


 彼女は、さらに奥にある部屋へと続く扉を開ける。図書準備室とは、二つの部屋から成り立っているらしい。一つは主に書架を置く場所。そしてもう一つは、司書の先生の休憩所。そこには、本来は学校にあるはずのないものがあった。


「じゃじゃーん!ケーキを用意しました!ここってば、冷蔵庫があるからね。安心して、ちゃんと冷やしておいたから」


 その言葉通り、部屋の中央に置かれたテーブルには堂々と一つのショートケーキが鎮座していた。赤く煌めく苺を頂点に飾りながら。


「さぁさぁ、食べて食べて。今日の主役は君だからね!」

「学校でケーキを食べるって、なかなか抵抗あるんだけど」

「いいじゃん、珍しい体験ってことで」

「そういうものかな…」


 かなり強引に納得しておいて、僕は傍に置かれたフォークを手に取る。改めて見た彼女は、にこやかにケーキを促している。僕は手を合わせて、主に彼女に向けた言葉を言う。


「いただきます」

「うん、お誕生日おめでとう」


 彼女に見守られながらという面映ゆい状況の中、ショートケーキの端を掬い、ゆっくりと口に運ぶ。柔らかなスポンジ生地と強い甘味の生クリーム、甘酸っぱさが際立つ苺、そして何より、得も言われぬ羞恥が綯い交ぜになった味が口の中に広がる。


「どう?美味しい?」

「うん、まぁ」

「そっか、よかったよかった。ほんとはね、ろうそくも立てたかったんだけど、ケーキが小さかったのと火気厳禁ってことで出来なかったの。ちょっと悲しいよね~」

「そう…でもないよ。僕としては、こうして祝ってくれるだけでも嬉しいというか…」


 なんて、柄にもないことを口にしてしまうと、彼女の顔はすぐに綻び、喜びを全面に出すかのように口角を上げる。


「そっか~、嬉しいんだね。そう思ってくれたんだね~」

「こういうことに慣れてないから、どう言えばいいのか分からないだけ。…ほら、この大きな苺をあげるから、静かにしておいて」

「ほんと!?やった、ありがとう!じゃあ、あーん…」

「え…?」


 フォークを渡そうとする僕と、なぜか口を開けるだけの彼女。どうやら、あげるということについて僕たちで相違があるらしい。彼女の中では、僕が食べさせることになっているようだ。前に、秋希ちゃんとも似たようなやり取りをした気がする。あの時とは立場が逆だけど、考えることは姉妹同じらしい。


「ほーら、食べさせてよ?…ね?」


 どうしても、引き下がる気のなさそうな彼女だから、結局のところ、いつも通りに僕が諦めるしかないらしい。


 こうなったら、僕としては変に意識せず、ただただ作業のように身体を動かそう。フォークを持ち直して、煌めく甘酸っぱい果実を、下に手を添えながら彼女の口元へと運ぶ。ただ、あまりに距離が近くなるから、目は逸らしておこう。


「はい」

「あーん……ん~!やっぱり、ケーキといえば苺だよね!この甘酸っぱさが堪らないんだよ」

「そう…美味しいならよかった」


 僕以上にその美味しさを噛みしめているらしく、頬を紅潮させて蕩けさせている。ここまで大袈裟なほどに表情に出してくれるのであれば、彼女に食べてもらった方が作り手も嬉しいのではないかと思えてくる。


「残りも食べる?」


 だから、こんな提案をしてみるけど、それを彼女は受け入れないらしい。


「ううん。君に食べてほしいから、私はもう食べないよ。実はね、そのケーキ、皆からのプレゼントでもあるんだ」

「皆から?」

「そう。私と美月(みつき)に秋希、それに坂下くんも。皆でちょっとずつお金を出し合って、一つのケーキを買ったの。ほんとはね、皆でお祝いしたかったんだけど、秋希は坂下くんとは初対面になるから気まずいかと思ってそれはなしにして。かといって、坂下くんを呼ばないのは可哀想だから、こうして私が代表して君にケーキというプレゼントを渡すことにしたの」

「なるほどね。だから、皆が僕の誕生日を知ってたわけだ」


 これで一つ、謎が解けた。どうやら、僕の個人情報が漏れていたわけでも、盗まれていたわけでもないらしい。すべて、彼女の計画の一部だったようだ。強いて言えば、彼女から漏れたと言えなくもないけど、今更、追及する気もない。


 なにより、驕った言い方になるけど、僕のためにここまでしてくれた彼女に、今日くらいは文句は言わないでおこうと思う。今は、素直に感謝の言葉だけでいい。


「ありがとう、神原さん。嬉しいよ、どう言葉を尽くせばいいか分からないけど」

「どういたしまして。君が嬉しそうにしてるのは、顔を見れば伝わるから大丈夫だよ」


 そう言ってくるけど、今の僕はそんなにも分かりやすい顔をしているのだろうか。ぺたぺたと頬や目元に触れてみても、何か変わっている感じはしない。


「それじゃあ、ケーキを食べ終えたことだし、最後にこれをあげよう!」


 最後の一口を食べ終えると同時に、彼女はどこからか一つの綺麗にラッピングされた袋を持ち出す。彼女が両手で抱えるくらいには大きいそれが何なのか、いくら祝われた経験の少ない僕でも分かる。


「それ、もしかして…」

「そう!私から君へのプレゼントだよ!お誕生日おめでとう!」

「ありがとう。もう聞き飽きるくらい聞いたけど」

「何度言ってもいいでしょ?私は何度だって言いたいんだから」


 受け取りつつ、どうしても僕は悪態をついてしまう。素直にお礼だけを言えばいいものを。でも、そんな僕の悪態も、彼女は気にもしないどころか、覆い隠すように人を喜ばせる言葉へと変える。


「ね、開けてみて開けてみて?きっと、君は喜ぶよ~?」


 と、自ら期待値を上げてくるけど、彼女に僕が欲しいものについて話した記憶はない。そもそも、今考えてもぱっと思いつかないというのに、一体何を用意して、どうしてそこまでの自信があるのか。当人である僕にすら、よく分からない。


 何が入っているのか、期待と少しの不安を抱きながらリボンを優しく解くと、袋から可愛らしいものが顔を覗かせた。そう、言葉通りに顔が覗いたのである。


「これは……猫?」

「そ、猫。君って、猫すきでしょ?」

「そんなこと言ったっけ?」

「言って…ないかもしれないけど。前に、私が野良猫に好かれるって話をしたら、羨ましそうにしてたから」

「してたかな…?」

「してたよ。だから、私は猫のぬいぐるみをプレゼントに選んだんだよ」


 袋の中からは、デフォルメされた猫がこちらを見ている。くりくりと光る愛らしい双眸が、今か今かと日の目を見ることを待ち焦がれている。


 その期待に応えて取り出すと、その茶トラの毛並みをきらきらと輝かせる。ぬいぐるみなのは理解しているけど、中々の出来の良さに少し驚く。これが家にあったら、本物と見間違ってしまいそうだ。


 出来も良く、可愛らしいものだとは思うけど、まさかの猫。神原さんがプレゼントにこれを貰うなら分かるけど、男の僕が貰うには些か可愛すぎる気がする。どうしたって、似合わないという感想になる。


「それ、ちゃーんと見えるところに置いといてね。リビングとかキッチンのカウンターとか。それか、ベットの傍に置いてもいいよ?」

「……まぁ、帰ってから決めるよ」

「可愛がってあげてね」


 と、彼女は言うけれど、この後、僕が置き場所と扱いに困ったのは言うまでもない。


「私が君にそのプレゼントを選ぶまでの経緯を懇切丁寧に話してあげる。まずはね、君へのプレゼントを何にしようか悩んでたところから始まるんだけど──」


 などと、聞いてもいないことを話しだそうとする彼女を止めようとしたけど、案の定、僕が止められるわけがない。それに、『君ともう少し話したいから、嫌と言われても止めないよ』なんて言うのだから、どうしようもない。


 でも、司書の先生が痺れを切らすほどに長い話だったけど、聞き終わった後では無駄な話だったとは思わない。猫のぬいぐるみというプレゼントに困惑はしたものの、似つかわしくないから捨てようとも、収納の奥に押し込もうとも、そんなことは微塵も考えなかった。


 ただただ、置き場所について頭を悩ませ続けるのだった。


 そうして、僕にとって初めて尽くしの誕生日は終わりを迎える。今日この日を、僕の記憶の中で『楽しい思い出』となった。

「偶像変化」、いつか書きます。きっと

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