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ハルに似た秋風(その二)


 その日、僕の中で大きな出来事があったとすれば当然ながら、放課後から、そう言うだろう。といっても、大事件に巻き込まれたとか、とても幸運なことに出くわしたとか、そういう話ではない。


 だけど、一昨日初めて会った年下の、中学生の子にデートに誘われるというのは、大きな出来事と言っていいと思う。


「お待たせしました。では、行きましょう」


 パタパタと小走りでやって来た彼女、神原(かんばら) 秋希(あき)は小さく頭を下げた後、僕の腕を引いて歩き出す。そんな僕たちを、彼女と同じ制服を着た人たち、つまり同じ学校の人たちからこちらに向けた声が囁かれている。いつか見たような光景に、聞こえずとも潜めた声の内容を理解できてしまう。


「秋希ちゃん、何かと噂されているみたいだけどいいの?」

「構いません。というより、そのつもりで呼びましたから」

「……それって、どういうこと?」

「後で説明します」


 今はこれ以上語るまい、と頑とした態度で僕の疑問は後回しにされた。そんな彼女に連れられて、集合場所である中学校の正門を後にした。


 ……


「まず、謝罪をさせてください。ごめんなさい」

「それより先に、事情を聞いてもいいかな?謝罪を受け入れるかは、その後に決めるから」


 しばらく歩いて周りに人の気配が、特に同じ学校の生徒がいなくなった頃合いで、秋希ちゃんから謝罪の言葉が出てくる。


 反省の色を見せるように目を伏せる彼女は、既に僕とは一定の距離を保っている。会って早々に触れられるほどに近かった距離は、今や人ひとり入れる隙間が生まれている。


「はい。えっと…、まず、大崎(おおさき)くんをあの場に、私の通う中学校に呼び出したのはですね、これからも起こるであろう面倒を避けるためです」

「面倒?」

「はい。私って、お姉ちゃんと同じで顔が良いので、よく男子から言い寄られまして」

「あぁ…」


 なんとなく、言いたい事、やりたい事が分かった気がする。確かに、姉に似て整った顔立ちをしている彼女であれば、男子からの引く手は数多だろう。そして、彼女自身はそれに嫌気がさしている。僕はその男子たちを寄せ付けないための蚊帳として使われた、そんなところだろう。


「なので、ごめんなさい。何も言わずに、勝手に利用してしまって」

「……まぁ、事前に教えてほしかったけど、いいよ。僕としては何かされたという気はしないから」


 それに、小野(おの)さんも言っていた、中学時代の神原さんは多いにモテていた、と。であれば、妹の秋希ちゃんもそうなってもおかしくない。もし、これが嘘だったら、とは思うけど、その可能性は低いから都合良く利用されたところで何とも思わない。


「でもまぁ、ずいぶんと自信過剰なんだね。自分の顔が良いって言い切るなんて」

「嫌でも自覚します。さっきも言いましたけど、よく言い寄られますし。それと、気づかれていないと思っているのか、クラスの男子たちは誰の顔が良いかとか、付き合うなら誰とか、下品な妄想話なんてものもしていますから」


 秋希ちゃんのクラスの男子諸君、今すぐにその手の話は止めた方がいい。女子の耳には紛れることなく届いている。これでは、いくら告白しようとも良い返事は貰えないだろう。今の秋希ちゃんの冷めた表情が全てを物語っている。


「あと、今の私って中学生の時のお姉ちゃんにそっくりでして。ほら、見てください」


 追加の根拠を、求めずとも提示してくる。取り出したスマホに映された写真を、躊躇うことなく僕に見せる。


「…えーと、これって秋希ちゃん?」

「違います。三年前の、中学校に入学した頃のお姉ちゃんです」

「そっくりだ…」


 あまりにも似ている。似すぎて、秋希ちゃんの入学した写真と言われても信じてしまうほどだ。いくら姉妹といえど、似すぎではないだろうか。これなら、秋希ちゃんが姉と同じ道を辿るのも頷ける。


「とはいえ、本当にごめんなさい。このお姉ちゃんの写真を送るので許してください」

「いいって。僕なんかが秋希ちゃんのためになるなら、いくらでも協力するよ。あと、他人の写真は勝手に送らないように」

「あ、もう送ってしまいました」


 その言葉通り、ポケットに潜んでいる僕のスマホはしっかりと送られてきた写真を受け取ったらしく、ぶるぶると震えている。


「大丈夫です。お姉ちゃんなら、二つ返事で許してくれます」

「そういう問題なのかな…」


 姉妹の仲が良いことを喜ばしく思うべきなのか、遠慮がなさすぎるのを憂うべきなのか、今の僕には分からない。ただ…後になって、送られてきた写真におまけが付いていたことに気づいた僕なら、やんわりと注意したかもしれない。


 ……


「大崎くん、アイスクリームが売っています。食べますか?」

「いや、この寒い季節に冷たいものは遠慮したいかな」

「それもそうですね。この前の待っている時間はとても寒かったですから」


 鼻先まで赤くしながら待っていた一昨日を思い出したのか、あっさりと引き下がる。といっても、あの日の教訓なのか、今日はマフラーを始め、手袋からコートまで、しっかりと防寒されている。少しくらいは問題なさそうではある。


 そんな僕たちは、中学校から離れて事情を聞いた地点からもう少し歩いた、多くの店が立ち並ぶ大通りに来ていた。平日といえど、数多の店が軒を連ねる街の中心地ともなれば、人の往来は中々に激しい。


 その隙間を縫うように秋希ちゃんが見つけたのが、この時期でありながらアイスクリームも売っているスイーツ店。その店を中心として、いくつもの同種の店が明かりを灯している。この辺りはスイーツ競合地なのだろうか。


 店の外からも見えるディスプレイを遠巻きに眺める秋希ちゃんに、今になって最初に感じた疑問が蘇ってくる。


「……秋希ちゃん、前から気になってたこと聞いていい?」

「はい、何でしょう」

「どうして、僕のことを『大崎くん』って呼ぶの?ずっと違和感があるんだよね」

「えっと…、年上に対して生意気だ、ってことですか?」

「いや、そうは言わないけど。でも、普通は『大崎さん』って呼ぶんじゃないかなって」

「それはですね、きっとお姉ちゃんの影響です。前にも話しましたけど、お姉ちゃんは家で大崎くんの話をよくします。なので、自然と私まで『大崎くん』という呼び方が浸透した、というわけです」

「そっか、そうだよね」


 初めて会った時から疑問だったけど、その理由にはやはりと言うべきか、神原さんが関わっていた。彼女を伝って僕のことを聞いたのだから当然といえば当然ではあるけど。


 それにしても、会ったことも話したこともない人の名前を憶えてしまうとは、彼女は一体どれだけ僕について話しているのか。本当に、神原家の母に会ってしまった時が怖い。果たして、好意的に接してくるのか、それとも悪い虫の扱いをされるのか、出来れば今後も会わないことを願う。


「てことは、秋希ちゃんが僕の家を知っていたのも?」

「そうですね。詳しい場所まで聞いたわけではないですけど、おおよその位置と周囲にあるお店の情報、なによりマンションであるということで、目星をつけるのは簡単でした」

「探偵みたいなことしてるね…。……あれ?」


 そこまで知って、ようやく今更な疑問が浮かび上がってくる。


「でも、どうして僕の顔を知ってたの?最初に会った時、迷わず僕に声をかけてきたよね」

「それは写真を見せられたからです。聞いてもいないのに自慢されました、この人が大崎くんだって」

「写真…?」

「はい、ツーショットの写真です。えっと…あ、これです」


 手際よく、取り出したスマホには早々にいつか撮られた写真が映っていた。滑稽な顔をしている僕と、笑顔を咲かせたという表現がどこまでも似合う神原さんの写真。出会った当初に僕のスマホに記録された初めての写真。


「これか…。ん?いや、なんでそれを秋希ちゃんが持ってるんだ?」

「あ、………内緒です」


 神原さんに貰ったと言わないあたり、なにやら疚しいことがあるらしい。口が滑ったと言わんばかりに、声を漏らしてしまっているのがその証拠と言える。一体どうやって入手したんだか。


「そんなことより。大崎くん、あのお店に入りませんか?美味しそうなケーキがあります」

「ずっと眺めてたもんね。いいよ、入ってみよう」

「まるで、私が食いしん坊みたいな言い方はやめてください」

「そうは言ってないけど」

「女の子は等しく甘いものが好きなのです。私が特別食い意地を張っているわけではありません」

「だから言ってないって。大丈夫、神原さんも甘いものが好きって言ってたから」

「……まぁ、それなら」


 と、神原さんの名前を出した途端に、一気に勢いが萎んでいく。秋希ちゃんの扱いについて、一つ心得ができた気がする。とりあえず、神原さんの話をすれば落ち着いてくれる、そんな風に思う。


「ほら、行きましょう。…何ですか、その微笑ましいものを見る目は」

「いや…事実、微笑ましいなと」

「…?」


 何のことか自覚がないらしく、少しむっとした表情をしている。この姉妹の仲の良さに頷く僕を、秋希ちゃんは店のドアをくぐるその時まで訝しんでいた。


 ……


「……とても悩みます。どれにしましょう」


 ショーケースを眺め始めて数分、未だに隣で腰を屈める秋希ちゃんは頭を悩ませている。ずらっと並んだお菓子に目移りが止まらない様子。


「ケーキ、食べるんじゃなかったの?」

「そのつもりでしたが、いざ目の前にしてみると、他にも魅力的なお菓子ばかりで……、どうしましょう」


 本気で決めあぐねているらしい。確かに、品数はかなり多いが、この迷いは数の多さ故なのか、それとも秋希ちゃんがそういう性格なのか。


「ちなみに、どれとどれで迷ってる?そんなに多くないなら、全部でもいいけど」

「今は三つまで絞れました。でも、流石に三つは多いです。…それと、今日は私も払います。このままでは、奢られに来ているみたいで癪なので」

「気にしなくていいよ。あと、その三つを頼もう。僕はそれを少し分けてもらうってことで」

「それは…うーーーん………はぁ、分かりました。ありがとうございます」


 一人で三つ、ではなく二人で三つ。そうすることで、やっと秋希ちゃんは納得してくれた。


 が、席に着いた彼女の表情は、あまり晴れやかとは言えない顔をしていた。


「不服です。とても不服です」


 可愛らしく頬を膨らまして、その言葉通りの不服さを表している。


「やっぱり、別のやつがよかった?」

「違います。結局、私は一円も出してません。選んだのも私の好みで、食べるのもほとんどが私なのに、また大崎くんに払ってもらって…」

「いいって。流石に中学生相手に割り勘したり、奢ってもらうわけにもいかないよ。それに、僕はバイトしてるんだから」

「不服です」


 どう言っても、これに関しては納得してくれなさそうだ。こういう譲らないところも、姉妹そっくりに思う。


 と、僕は微笑ましく思っても一方の彼女は、テーブルの上に並んだスイーツを前にしても強張った表情は変わらない。


「なので、大崎くんも一口どうぞ。いえ、むしろ私が一口だけでも構いません。どれでも好きな物を選んでください」


 差し出されたのは、左からチーズケーキ、フルーツタルト、ティラミス、どれも秋希ちゃんが選んだもので、どれも美味しそうだ。


「じゃあ、チーズケーキを貰おうかな。フォーク、貸してもらっていい?」

「……はい、どうぞ」

「えっと…?」


 どうぞ、そう言われたものの、僕の前にはただのフォークが差し出されているわけではなく、チーズケーキの載ったフォークが差し出されている。


「どうぞ、食べてください。ほら、あーんしてください」

「もう一本フォークあるよね?」

「ありません」

「あるよね!?」

「ありません。大人しく口を開けてください」


 問答を繰り返す度に、彼女の持つフォークがじりじりと迫って来る。どうやら、こんなところでも彼女の性格は発揮されているらしい。こうなっては引き下がることはないだろう。


 結局、相手が神原さんであれ、秋希ちゃんであれ、この姉妹を相手にした時は僕が諦めるしかないらしい。こんな選択肢しか取れない僕を、誰か叱ってはくれないだろうか。


「…あーん……」


 他人から口の中へと食べ物を運ばれるという、乳児期を過ぎてからは経験したことない行為の所為か、口に含んだチーズケーキの味は、甘いという感想以外思い浮かばなかった。


 周囲から何やら噂されているのではないか、そんな異常な自意識の高まりと、当然の如く現れる羞恥とが綯い交ぜになって味どころではなかったのだ。正直、甘いのを理解しただけでも充分な方だと思う。


「…どうですか?美味しいですか?」

「甘いね」


 だから、食べた感想がこれだけになってしまうのは仕方がない。普通に食べても、一言二言増えただけかもしれないけど、何を言えなかった可能性があったと考えるとマシだと思う。


「それだけですか?チーズケーキですから、もっと色々あると思いますけど…まぁ、いいです。では…はい、どうぞ」


 と、なぜか今更になって僕にフォークが手渡される。すでに一口食べた後では、些か遅すぎるというもの。


「いや、もう貰ったからフォークはいらないけど」

「違います。今度は、大崎くんの番です」

「だから、後は秋希ちゃんが食べていいよ?」

「違いますって。今度は、私があーんして貰う番です」

「え…?いや、なんで…?」

「私たちは今、デートをしています。デートをしているのであれば、こういうことをするのは当然で、自然なことです」


 当然で、自然なことらしい。さっきも思ったが、こうなっては僕が引き下がるほかない。これ以上の問答は全て取っ払って、僕が大人しくなればいい。それで物事は円滑に進み、秋希ちゃんも満足してくれる。


「わかったよ。じゃあ、どれにする?」

「悩ましいところですが、私も大崎くんと同じチーズケーキを頂きます」


 角の食べられたチーズケーキを、もう一度フォークで掬い、一口分を載せ、彼女の口元へと近づける。


「はい、どうぞ」

「…ちゃんと言ってください」

「………はぁ、あーん…」

「ふふ、あーん」


 どうやら、僕は正しく察せていたからなのか、微かに口角が上がった気がした。ただ、それを確認するより先に、チーズケーキが口に収まり、真意は食べられてしまった。


「とても美味しいです。これほど美味しいものは初めて食べました。どうして、これほど美味しいのでしょうか?」

「さぁね、良い店だったってことじゃないかな」


 自分で食べようとも、他人に食べさせられようとも、食べ物自体の味は変わらないから店側の努力の賜物ということだろう。ちなみに、僕が味をほとんど感じれなかったのは、僕自身に問題があったのであって食べ方にも食べ物にも問題はなかった。その証拠に、今の僕は異常なほどに喉が渇いている。


 そんな渇きを誤魔化すために、コップ一杯の水を一気に飲む。飲んだ水が喉元を通り抜けようかというタイミングで、秋希ちゃんから思わぬ言葉が飛び出る。


「間接キスですね。ドキドキします…」

「っ!?」


 秋希ちゃんの口からは思わぬ言葉、僕の口からは含んだ水が飛び出るところだった。ただ、それを堪えた所為で盛大に咳き込んでしまう。それはもう、涙が目じりに浮かぶくらいに。


「大丈夫ですか?ごめんなさい、私が変なこと言ったからですよね」

「いや、それは…うん、大丈夫だから」


 正直、喉も鼻も痛いし、何事かと見てくる周りの視線も痛い。今すぐにでも消えてしまいたいが、テーブルの上にはまだ手付かずのスイーツが残っているので、大人しく座り直すしかない。


「お詫びに、このフルーツタルトをどうぞ。今度は、食べさせたりしませんから」

「ありがとう。じゃあ、一口だけ貰おうかな」


 僕の前に差し出された皿には、美味しそうに煌めくフルーツタルトと新しいフォークが置いてある。やはり、フォークはもう一本あった。頑なに渡されなかった結果、追加でフルーツタルトまで貰えたのだから、多少の痛いことは気にしないでおこう。


「秋希ちゃん、食べながらいいから、いくつか質問に答えてもらっていい?」

「どうしましたか?突然」

「この前は聞けなかったけど、気になってることがあって」

「まぁ、いいですよ。この三つのお菓子分は答えます」


 そのお菓子、決して安くはないから、三つ分となると中々な価値が生まれる気がする。と言っても、今からするのは質問というより確認に近いから、お菓子三つ分の価値はないだろうけど。


「少し前の話だけど。文化祭の日、秋希ちゃん、うちの高校に来てたよね?しかも、僕のクラスに」

「はい、行きました。大崎くんのクラスにも、お姉ちゃんのクラスにも。どちらとも、話す機会はありませんでしたけど」

「いや、僕の方に関しては、秋希ちゃんが逃げたから」

「仕方ないじゃないですか。あの時は、こうして会って話そうと思うほど、大崎くんのことを知らなかったので」


 それもそうか。こうして会う切っ掛けが生まれたのは、神原さんのことでお礼がしたいと思ったから。そして、その切っ掛けが生まれたのは文化祭が終わった後。文化祭の最中では、僕のことなんて『姉から聞く得体の知れない人物』みたいな認識だったのではないだろうか。


「でもまぁ、僕が秋希ちゃんのことに気づいたのは、後になってからだけどね」

「後?後っていつですか?」

「秋希ちゃんがお礼をしたいって言って来た時」

「文化祭終わってるじゃないですか」


 そう、文化祭が終わるまで、終わってもなお、僕はあの人が秋希ちゃんであることに気づかなかった。


「仕方ないよ。僕はまともに顔を見たことがなかったし、あの時は秋希ちゃんも帽子を被って顔を隠してたから」


 僕もまた仕方ない。あの時までに、秋希ちゃんを見たのは一度だけ。しかも、遠目から。あれでは顔を覚えることなんてできないし、当然僕のクラスに来ていたのが彼女だと気づくのには無理がある。


「そういえば、一番最初に…あれを会ったと言っていいのか分からないけど会った時、秋希ちゃんってば僕のこと睨んでた?すごい目つきだったけど」

「お姉ちゃんとお買い物に出掛けた帰りのことですよね。いえ、睨んでません。あれは単純に見えなかったので、目を細めていただけです」

「本当にそうだったんだ…」


 どうやら、神原さんの言った通り、僕は睨まれていたわけではなかったようだ。本当に、視力の問題だったらしい。


「でも、眼鏡とかしてないよね?コンタクトだったり?」

「眼鏡は持ってますけど、普段は使いません。授業中、黒板を見る時や、細かいものを見る時くらいです」

「へぇ、眼鏡をかけた秋希ちゃんか…」

「……変な想像しないでください」

「してないよ。新鮮味があるなって思っただけで」


 単純だとは思うけど、眼鏡をかけるだけで勉強ができる感じが出るから悪くないと思う。神原さんに眼鏡を与えれば、やる気になったりしないだろうか。


「まあでも、これで色々と分かったよ」

「質問は終わりですか?」

「うん、これ以上はないかな」

「では…最後の一口、食べますか?」


 いつの間にかなくなっていたチーズケーキに代わり、一口分のティラミスがフォークに載って、こちらを向く。


 少し身を乗り出して差し出されるフォーク。その下に添えられた細く、真っ白な手。なにより、確信犯のように悪戯な笑みを浮かべる秋希ちゃんの表情がとても神原さんに似ていて、僕の心臓から平静さを奪い去ってしまった。


 ……


「ご馳走様でした。またデートしましょう、その時は私が払いますから」

「またあるんだ…。正直、億劫ではあるよ」

「今日流した噂の信憑性を高めるためにも、たまにでいいのでデートしましょう。でも、お姉ちゃんから誘われたら、そっちを優先してください。あと、今後はあーんはしないので安心してください」


 やはり、最後のあれは分かっていてやったらしい。僕よりいくつか年が下なのにこんなことをするなんて…末恐ろしい子だ。将来は小悪魔にでもなる気なのだろうか。


「本当に頼むよ…、あれは色々と心臓に悪いから」

「はい、私はもうしません」

「じゃあ、帰ろうか。家の近くまで送るよ」

「はい、近くまでお願いします」


 どうしてか、姉の神原さんに僕といるところを見られたくない秋希ちゃんを家の近くまで送るため、歩き出した。以前に、そんなことを言っていたのを覚えていたので、一応のつもりで配慮したが、後にこの配慮は無意味だったことを知る。それを知るのは、そう遠くない未来…というより、明日である。


 ……


「ねぇ、大崎くん。秋希とデートしたってほんと?」

「え…?」

「いやね、昨日、秋希が朝から機嫌良く学校に行って、帰って来ても機嫌が良いから何かあったのか聞いてみたら、ぽろっと話したの。まぁ、君と出掛けたってことしか言わなかったけど。そりゃあ、あの子はお喋りな方じゃないけど、なーんで隠したがってたのかなーって。君も君で、昨日初めて会ったわけじゃないのに、そのことを話題に出さなかったのはなんでなのかなーって。二人でこそこそと何やってたの?」


 かつて聞いたことないほどの口数で圧倒してきたのは、こうなることを微塵も予想していなかった朗らかな朝の頃。神原さんの発した最初の言葉は、僕が下駄箱で靴の入れ替えを行っていた最中のものだ。普段なら、元気過ぎるほどに元気な挨拶から入る会話も、今日は眉間に皺の寄った不躾な疑問からだった。


 そんな彼女の一変した様子に、周りにいた僕や彼女のクラスメートは十人十色、様々な表情を浮かべている。彼女の様子に心配の目を向ける人、何事かと目を見開く人、普段とは違う様子に驚く人、そして、向けられる視線は彼女だけでなく僕にもある。僕に非があると言いたそうな目、憶測だけで膨らんでいる妄想を話す口、噂を真実と思いこむ耳、実に都合の悪い場が出来上がりつつあった。


 こんな状況でも周りの反応に気づいた彼女は───


「こっち、来て」

「いや、でもHRが…」

「来・て」

「はい…」


 否応なしに、僕は人の少ない場所へと連れられる。


 ……


「別にね、私は怒ってないの」


 こんな朝早くでは人の往来など全くない特別棟のさらに隅。碌に人の手も届かず、掃除もされていないような場所で、彼女は自身の感情が沸き立っていないことを明言した。


 だが、それをおいそれと信じられる僕ではない。事実、ここまで歩いてきた彼女の歩調はあまりにも早く、その後ろ姿はあまりにも恐ろしく見えた。これで怒っていないと言うのは無理があると思う。


 百人に聞けば、百人が「彼女は怒っている」そう言うだろう。それほどまでに、今の神原さんはあからさまに怒っている。これまでに見たことのある、いじけた様子でも拗ねた様子でもない。確実に、明確に怒って見える。


「いい?私は怒っていないの」


 再びの強調である。ここまですれば、もはや怒っていると言っているようなものな気がする。それでも、彼女は怒っていないと言い張る。


「私はね、どうして、君が秋希と二人でデートしたのか。どうして、それを私に隠すのか、それが気になるだけなの」

「デートってわけじゃなくて、あれは色々と言いたい事があっただけ。それと、隠した理由については秋希ちゃん本人が内緒にしたいって言ってたから、僕は詳しい理由までは知らないんだ」

「秋希…ちゃん…?」


 僕の言った言葉を反芻するように繰り返す。一体、何が引っ掛かることがあるのだろうか。まさか、今更になって呼び間違いが発覚するのだろうか、それとも実は秋希ちゃんは妹ではありません、なんて言われたりするのだろうか。


「ずるい…」

「え、ずるい?なにが?」

「ずるい!ずるい!ずるい!私のことは『神原さん』って呼ぶのに、秋希のことは『秋希』って呼ぶなんて!」

「いや、それは二人ともを『神原さん』って呼ぶとややこしいから」

「じゃあ、私のことを名前で呼んでくれてもよかったじゃん!それともなに?私の名前は忘れちゃったから呼べないとでも!?」

「忘れてないよ。でも、僕の中では神原さんは神原さんで、秋希ちゃんは初めて会った日にそう呼ぶことになったから」

「むぅ~」


 ああ、神原さんの頬がはち切れんばかりに膨らんでいる。怒っている時もそうだったけど、今日は一段と感情が露わになっている。そのほとんどがマイナスな感情な気がするけど。


「じゃあ、私が呼び方を変える!君のこと、名前で呼ぶから!えっと……あれ?君の名前って何だっけ?私、君の名前知らないや。ずっと、『大崎くん』としか呼んでなかったから。ね、君の名前って何て言うの?」


 ひやりと、背筋に寒気が走る。神原さんが呼び方を気にした時点で起こり得る可能性があったけど、まさか今ここでこの話が出るなんて。ずっと避けてきた、触れたくない、触れられたくないこと。


 僕の名前、それを思い出す度に過去の記憶が思い起こされる。どうしても忘れられず、思い出したくもない嫌な記憶。このまま、何も知られることなく日々が過ぎればいいと思っていたのに。


「いいよ、僕の名前なんて。僕は、この名前が嫌いだから」


 どうにか、これで引き下がってほしい、そう願いながら話すことを拒否した。でも、きっと好奇心の塊みたいな彼女は食い下がると思っていた。


 だけど、僕の人を見る目がない予想は覆る。


「わかった。じゃあ、聞かない」


 さっきまでの怒ったような声でもなく、かと言って好奇心に溢れた声でもない。何も知らないはず、何も言っていないのに、まるで安心させるかのような温かく包み込む声色を僕に届ける。


「だから、そんな辛そうな顔しないで。無理に聞いたり、調べるようなこともしないから」


 一層暖かな言葉が伝わり、僕の中で安堵の気持ちが溢れる。どうしてか、彼女の放つ言葉は嘘をつかないと思える。そんな優しさにもたれ掛かり、僕は口を噤む。


 何も言わないという申し訳なさから、顔を俯いたまま上げられない僕の頭に、ふと柔らかな感触が生まれる。


「神原さん…?」


 何をしているのかと顔を上げると、引っ張られるように背伸びをして、僕の頭を撫でる神原さんがいた。にこやかな笑みを浮かべ、優しく手を動かしている。


「大丈夫、大丈夫ですよ~」

「いや、あの、子供じゃないから」

「そうかな?私には子供のように見えたけど」


 さっきまでの自分の言動を思い出す。


 途端に、神原さんの言い方が的を得ている気がして恥ずかしくなる。おそらく、茹でだこのように真っ赤になっている顔を隠そうと、その場にしゃがみ込む。


「ありゃ、なんとも撫でやすい位置に。は~い、よしよし~」


 自分より低い位置に移動した僕の頭を、少し屈んで撫で続ける。自身の言動の幼稚さと、同級生に頭を撫でられている羞恥とが混ざり合って僕の頭は沸騰しそうになる。それほどまでに、この状況が居た堪れない。


「も、もういいから。もう充分だから」


 どうにか、僅かに残った理性で撫で続ける手を振りほどく。誰も来ないような学校の隅とはいえ、こんな現場を見られでもしたら落ち込むなんて程度では済まないかもしれない。


「大崎くん」


 そんな僕を、彼女は変わらない形で呼ぶ。ついさっきの揶揄うような声ではなく、また安心させるような優しい声で。


「ほら、立って。そろそろHR始まっちゃうよ?」


 顔を上げると、神原さんは僕に手を差し伸べてくれていた。悪戯な表情ではなく、どこか励ますような表情で。細く綺麗な指先におずおずと触れた僕の手を、彼女はしっかりと掴み立ち上がらせる。


 そのまま、彼女は手を離さずに歩き出す。


「ちょ、神原さん。手、離して…」

「いいでしょ、そこまでだから」


 まるで自分がしたいから、そう言っているように聞こえる。でも、きっとこれは僕に気を使っているのだろう。たぶん、彼女に手を握られた時、僕が安堵したから。


「ねぇ、大崎くん」


 また、僕を呼ぶ。変わらない、今まで通りに。


「いつか、気が向いたら教えてね。私は、君の名前を呼びたいと思うから」

「……」


 それに対して、臆病な僕は何も答えない。了承することも、拒否することもしない。今ここで、どちらかを決めてしまっては、もし彼女に話したくなった時、もし彼女に隠したくなった時、僕が決められた選択しか取れなくなることが怖いから。


 いや、少し違うかもしれない。


 もしかすると僕は、いつか彼女にならこの名前を言いたい、そう思ったのかもしれない。


 だから、少しだけ望んでしまう。その、いつかを。そうする、僕を。


最後まで書き終わりました。

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