ハルに似た秋風(その一)
帰り道の途中…というより、家の目の前。そんな場所に一人の少女が立っていた。それだけなら、僕はその横を素通りして、マンションのエントランスをくぐっただろうけど、僕を視界に捉えるや否や、声をかけてきてはそうもいかない。
「あ、あの!」
緊張している、というのが言わずとも伝わるほどに震えた声で、少女は僕を見据える。いや、もしかしたら外で長く待っていたのかもしれない。その所為で体が冷えてしまった。それ故の、声の震え。そういう可能性もある。だけど、続く言葉を聞いてからは、恐怖と困惑が綯い交ぜになって、震えるのは僕の方だった。
「大崎くん……で、あっていますか?」
そう訊ねる少女の言葉は、どこか確認しているだけに聞こえた。既に僕のことを知っている、そんな確信があるように思えた。
少女がどうして僕の名前を知っているのかも、どうして声をかけてきたのかも分からない。この状況で分かることなんて一つもない。だから、僕の口から衝いて出た言葉は、純粋な疑問だった。
「えっと…誰?」
一先ず、少女の質問に答えるより先に少女の事を聞くべきだと思う。といっても、年下の少女が何かを答えるかは分からないけど。
「……わかりませんか?」
あなたは私を知っている、そう言いたげ瞳が僕を覗き込む。長く綺麗に伸びたまつ毛、人の目を引く整った顔の造形、どこか見覚えがあるのは感じる。だが、生憎と中学生の知り合いなんていない僕には、思い当たる節がない。
中学を卒業と同時に地元を離れたのだから、こんな所に後輩がいるわけもない。そもそも、地元に残っていたところで面識のある後輩なんていないはず。だから、逆に聞き返されたところで、僕の答えは変わらない。
「ごめん。全然わからない」
「そう…ですか。まぁ、そうですよね」
少し目を伏せたかと思ったが、自分の中で納得したらしく再び僕を見上げた顔は何もなかったように涼しい表情だった。
「とりあえず、名前聞いてもいい?思い出せるかも」
「その前に、先に確認させてください。あなたが大崎くんですか?」
ずいぶんと用心深い少女だが、家の教えに『知らない人には名前を教えてはいけない』なんてものでもあるのだろうか。いや、だとしたら先に『知らない人に声をかけない』を作った方がいいのではないだろうか。
「そう…だけど」
「よかったです、あなたが大崎くんで。あの写真は間違っていなかったみたいです」
何か気になることを言った気がするけど、それ以上に何とも言えないむず痒さが背中を這う。少女の丁寧な口調はとても好ましいのだが、僕の呼び方だけが気にかかる。どうして、僕のことを『大崎くん』と呼ぶのだろうか。ここは普通、『大崎さん』と呼ぶ気がするけど。お互いに制服を着ているのだから、歳の差は言わずとも分かる。なのに、どうしてそんな呼び方をするのか、何か理由があるのかもしれないけど、知る由もない僕は違和感を拭えない。
「それでは、私の自己紹介をさせてください」
そう言葉を始めた少女。それを聞いた僕は、自分の中にあった疑問の全てに納得がいった。どうして、少女が僕の名前を知っているのかも。どうして、少女に見覚えがあるのかも。どうして、少女が僕を待っていたのかも。全ての疑問に答えが出る。
「私の名前は神原 アキ。秋を希うと書いて秋希です」
神原 秋希。その名前を聞いて思い当たらないほど僕はバカじゃない。僕はこの少女、神原 秋希を二度見たことあるのだから。
「えっと…、一応の確認なんだけど…」
「はい。私はお姉ちゃ……ではなく、神原 春留の妹です」
「あぁ…そうだよね」
やはり、と言う他ない。この少女に見覚えがあったのは、最近…というより、ついさっきまで血縁関係にある人間といたからだ。
こうなれば、僕の抱いた疑問にも全て合点がいく。
知り得る情報の全ては、姉である神原 春留から聞いたのだろう。お喋りな彼女のことだ、当然のように僕のことを家族に話しているに違いない。この前も、家族に僕の名前を出したとか言っていた気がする。僕の印象がどう伝わっているのか、不安は拭えないけど。
「それで、僕に何の用でここまで?」
「それはそうなのですが、お話するならどこか暖まれる場所に行きませんか?それと、お時間は大丈夫ですか?」
「時間は大丈夫だけど…。どこか…、目の前だし僕の部屋に上がる?」
「………………」
僕の提案を聞いた瞬間、驚くくらいに冷たい目に変わる。姉とは対照的と言ってもいい。本気で言ってるんですか、そんな言葉が聞こえてきそうだ。
「本気で言っているのですか?」
本当に聞こえてきた。あまりに冷たい瞳からは、無遠慮な軽蔑の視線が注がれている。先ほどまであったはずの彼女の温もりが全て掻っ攫われる。
「おね……姉から何も学ばなかったのですか?知り合って一週間もしない内に女性を部屋に連れ込んだというのに」
「知ってるんだ……」
「姉から聞きました。甘い言葉で誘われた、と」
「それ、事実とは異なる部分があるかも」
神原さんがどう伝えたのか気になるけど、それ以上に神原家の反応が怖い。これから先、会う機会がないといいけど。
「何でもいいです、部屋には入らないので。ここに来るまでの道中で喫茶店を見かけたので、そこに行きましょう。バイトをしているそうなので、それくらいは問題ないですよね?」
「本当に全部喋ってるのか…」
彼女に話してしまうと、僕の情報は全部筒抜けになるらしい。これからは気を付けないと。
……
冬らしい寒さを孕んだ風から逃げるように入った喫茶店。喫茶店という響きを聞くと文化祭が思い起こされるが、ここにはメイドも執事もいない。いるのは渋い顔をした店主が一人と、疎らに座る客が数人。
僕の向かいに座る神原さんは温かな湯気を立てるココアのカップを手で包み、ぬくぬくと暖を取っていた。一体どれだけ待っていたのか、よく見てみれば指先が少し悴んでいる。
彼女を見送ってすぐに直帰した僕ですら、その寒さから体が震えてしまう。ホットコーヒーを飲むことで、体の内側からじんわりと温まる。寒さという震えから解放された僕は、早速、本題を訊ねてみる。
「それで、神原さんが僕を訪ねた用事って?」
「秋希でいいですよ。お姉ちゃ…、姉のことも苗字で呼んでいては区別が出来ませんから。それか、姉のことを春留と呼ぶのもいいかもしれません」
「……じゃあ、秋希ちゃんで」
「選ばれたのは私ですか、そうですか」
「特に深い意味はないから」
そう呼んでみたものの、なんともむず痒い。誰かを、それも女の子を名前で呼んでいる事実に羞恥すら覚える。
そんな気持ちを誤魔化すように、もう一度コーヒーを口に運ぶ。
「それで、秋希ちゃんの用って?まさかとは思うけど、神原家において僕の悪評が広まっていて、それを糾弾するために来たとか?」
「そんなことはしません。…いえ、部屋に連れ込んだのはどうかと思いますけど」
「だから、それは違うんだって」
「とにかくですね。私は非難するために寒空の下待っていたわけでありません。感謝を…伝えたいだけです」
「感謝?」
全く思い当たる節がない。こうして話すのも初めてだというのに、一体何を感謝するのだろうか。礼を言われるようなことをした覚えがない。むしろ、姉妹仲良くデートしていたところを邪魔した記憶なら、ほんのりと残っている。
「はい。お…姉のことで」
「普段通り、お姉ちゃんって呼んでいいよ?」
「いえ!これは…別に……いえ、わかりました。そうします」
会話は始めてからずっと取り繕っていた部分を指摘すると、初めて慌てたような素振りを見せる。神原さんとは違い、落ち着いた物言いで、中々感情が表に出ないのかと思ったが、どうやら努めてそうしていたらしい。外れた仮面から垣間見える驚いて丸くなった目も、必死になって否定しようとする動きも、どことなく彼女に似ている。
こんなことを言ったらまた口調が早くなりそうだけど、実に姉妹らしく、似ている部分が微笑ましく思う。
「な、何ですか…。ニヤニヤしないでください」
「いや、何でもないよ」
口を噤む僕から何も聞けないと察したのか、適温になったココアを一口飲んでから話を続ける。
「お姉ちゃんのことで、改めてお礼がしたいのです」
「それなんだけど…僕、何かした?」
「先日、お姉ちゃんが、帰って来た途端に泣きだしてしまった日がありました」
それからの話は僕もよく知っているものだった。
僕の記憶にも新しい、あの日の出来事。今日、また事態が進んだあの出来事。
神原さんの大事にしていたハンカチが何者かによって無惨な状態にされた。そのことを想って泣いた彼女は、家に帰ってから再び涙を流したそう。その涙の訳を聞いた秋希ちゃんたち家族は、特にお母さんが見たことないほどに怒っていたらしい。やった相手に、制裁を与えようと立ち上がるほどに。
でも、それを止めたのは他でもない神原さん本人。今更、犯人を突き止めて、どうこうしようとは思わない、と。そこで僕の名前が出てきた。前々から神原さんの口から僕の話題は出ていたらしいけど、その時は全く違う意味合いで出てきたとのこと。
「お姉ちゃんは、大崎くんに救われた、そう言っていました。私も話を聞いた限りですけど、そう思います。だから、こうしてお礼を言いにきました。お姉ちゃんのこと、ありがとうございます」
秋希ちゃんは深々と、真っ直ぐに頭を下げた。迷うことなど微塵もないように、当たり前に、そうするべきだと。
そんな真面目過ぎる感謝の言葉に、得も言われぬ恥ずかしさが込み上げてくる。背中がむずむずして、体温が高くなってくる。
外は冬の寒さだというのに、僕にだけは夏のような暑さが訪れていた。
「い…いいよ、そういうのは。それに、僕は偶々あの場にいただけで何もしてない。ハンカチを貸したくらいだよ」
「それがとても救われたみたいです。悲しい顔をしていたお姉ちゃんが、大崎くんのことを話す時は嬉しそうな顔をしていましたから」
「あー…そう、なんだ…」
「…………あ。今の、聞かなかったことにしてください」
遅れて、自分の発した言葉の意味を理解する。引っ込めようとしてももう遅い。聞かなかったことになどできるわけもない。僕の耳にはしっかりと届き、僕の頭はちゃんと理解してしまった。今更、頭部にどんな衝撃を受けようとも忘れることはないだろう。
「まぁ、いいです。このことは」
「いいんだ…」
「それより。明日、何か予定はありますか?改めて、お礼をさせてください」
「いや、お礼なんていいよ。秋希ちゃんから話が聞けて、僕のしたことに意味があったのが分かったから。あと、明日は先約があるからどちらにしても、かな」
「であれば、明後日はどうですか?次の休日でも構いません。ちなみに、明日の用事はお姉ちゃんですか?」
「明後日以降はいいけど、お礼とか本当に大丈夫だから。感謝の言葉なら、本人からたくさん聞いたから」
「そうですか。ちなみに、明日の用事はお姉ちゃんですか?」
「そこ、引かないのかぁ…。そう、そうだよ。神原さんからもお礼をしたいって言われた。だから、秋希ちゃんまでしなくていいよ」
「なるほど…」
それっきり考え込む秋希ちゃんの仕草が、いつか見た神原さんそっくりで、また微笑ましく思ってしまう。
「大崎くん」
「なに?」
「明後日、私とデートしてください」
と、思ったが、どうやらそんな呑気なことを考えてる場合じゃなさそうだ。僕とのやり取りが、まるでなかったかのような提案をしてくる。
「……ん?いや、だからお礼は必要ないって」
「それは分かりました。なので、私とデートしてください」
「???」
「これはお礼ではありません。私の個人的なお願いです。ダメですか?中学生なんて子供の相手はできませんか?」
「いや、そういうわけじゃないけど…」
「では、決まりということで。連絡先、教えてもらっていいですか?今日はもう帰るので、詳しい話は明日連絡します」
「あ、はい…」
似ている部分が多々あるとは思っていたけど、まさかこういう強引さまで似ているとは。これでは、神原家のお母さんまでこういう人というのが真実味を帯びてくる。どうしたって、お母さんとは会わないようにしよう。顔を合わせた瞬間に連れていかれるかもしれない。
「よし、これで大丈夫ですね。ココア、ご馳走様です」
「うん、これくらいは全然。…送っていこうか?」
「大丈夫です。万が一、お姉ちゃんに見つかったら面倒なので」
「そっか」
「はい。では、また…明後日、ですね」
「うん、また」
店の前で別れると、秋希ちゃんはすたすたと速い足取りで夜の暗闇が続く道へと消えていった。
家の前で待ち構える少女を見た時は何事かと思ったけど、蓋を開けてみたら出てきたのは柔らかいけど、確かに強引な秋風だった。つくづく、姉妹なのだと感じる。丁寧な分、まだ秋希ちゃんの方がマシな気はするけど。
そんな秋希ちゃんの言葉を思い出す。
『大崎くんのことを話す時は嬉しそうな顔をしていましたから』
どうして、彼女は僕のことを家族に話すのだろう。どうして、彼女は嬉しそうな顔をするのだろう。どうして───
僕は知りたくなっているのだろう。彼女が嬉しそうにする理由を。
コーヒーにより取り戻した熱を、冬の冷たい風が頬を撫で攫っていく。数分でもこうして突っ立っていては、熱を奪われ碌に考えが纏まらない。
寒さから逃げるため、僕は急いで自宅へと帰る。家に帰って温まれば、明日になって彼女と話せば、何か答えが見つかるかもしれない。そう願って、今日の夜は更けていった。
……
「おはよ!大崎くん」
お決まりになりつつある元気な挨拶。そんなものを僕に向けてくるのは一人しかいない。
「か、神原さん…」
振り返り、彼女の顔を見据えた途端に、昨日の秋希ちゃんの言葉が全身を過る。いつも返していた簡単な挨拶さえ、上手く口から出てこない。全身が、髪の毛の先から足の先まで、熱湯でも浴びせられたように一気に熱くなる。
「ん?どうしたの?」
「いや、大丈夫。何も…ないから」
「大丈夫じゃないよ!顔、赤いよ?熱あるんじゃない?」
「だから、だ──」
神原さんの顔を見たから、なんて馬鹿正直に言えるわけもなく、赤くなった顔を必死に誤魔化すことしかできない。でも、そんな事情なんて知らない彼女は、熱の有無を確認しようと僕の額に手を伸ばす。
そんなことをしたら余計に──
「熱っつ!なにこれ、めちゃ熱い!ほんとに熱あるじゃん!熱すぎて分厚いステーキも焼けちゃうよ!」
熱いと厚いをかけた彼女の小粋なジョークも、今の僕には反応の一つもしてあげられない。そして、僕の反応のなさが、彼女の心配に拍車をかける。
「ダメだ!これ絶対ダメなやつだ。ほら、保健室行こう。早く休まないと」
「体調は大丈夫だって。本当に」
「強がれるうちに休んでおこう。時間が経つと言ってられなくなるから」
「いや、本当に…」
「ついて行ってあげるから」
僕の言葉なんて意味もなく、否応なしに僕の手を取る。逃げないように痛くなるんじゃないかというくらいに強く握られた手は、より一層僕の体温を高くした。
それはつまり、体温計の数値も高くなるということ。
「あー、うん。普通に高いね。熱が下がるまでは大人しく休むこと。いいね?」
「はい…」
ベットに押し込まれ、体温計を突き立てられ、表れた数値は微熱をはるかに超えていた。こうなってしまっては言い訳のしようもない。身体というより、頭が冷えるまでここにいるしかない。
「それじゃあ、担任の先生に報告してくるから。大人しく寝ておくこと」
「あ!私が隣で看病してあげる。付きっきりでいてあげるから安心してね!」
「はいはい、そういうのいらないから。あなたは自分の教室に行きなさい」
「あぁ~、そんな~…」
シッシッと野良猫が追い払われるように、神原さんは外へと追いやられてしまう。
ぴしゃりと扉が閉められると、保健室の中は一気に学校の騒がしさとは一線を画す。と言っても、いくら静かになろうとも慣れない保健室、慣れない時間、慣れない服装では寝ようと思っても寝られない。そもそも、体調は悪くないので身体が休息を欲していない。
そんな目も頭を冴えた状態では、嫌でも神原さんのことを考えてしまう。他に誰もいない静かな空間、考え事をするにはもってこいな状況だ。
そして、考えることといえば当然、昨日の秋希ちゃんの発言。あの言葉が昨日から、今もずっと頭を離れない。その意味も、意図も未だに理解できない。いや、言葉の意味自体は理解できる。理解できないのは───
「どうして、僕のことは嬉しそうに話すんだ……」
どれだけ考えても、一向に答えは出てこない。数分か数十分か、本当に熱が出るんじゃないかというくらい考えても答えは出ない。あるのは、渦巻く一つの疑問だけ。
……
「ねぇ、ほんとに体調は大丈夫?無理してない?私は明日でもいいんだよ?」
「元々、体調は悪くなかったから。それと、明日は予定があるんだ」
「なら、いいんだけど…」
僕の正面に座る神原さんの表情は、その不安さを隠しきれていない。それでも、僕が大丈夫と言い続けたため、昨日の約束を果たすべく、僕たちは学校近くの喫茶店に来ていた。違う店ではあるが、昨日の秋希ちゃんと行った店を思い起こされ、それに連なって未だに答えの出ない疑問も浮かび上がる。
「ほんとに大丈夫?ぼーっとしてるみたいだけど」
「いや、大丈夫、ちょっと考え事してて。それより、これから何をするの?」
「今日はね、たくさんお話をしようかなって」
「お話…?」
「そう。お互いの好きなものとか、色々知っていこうってお話」
「突拍子もない提案から一日経って考えた内容がこれ?」
拍子抜け、とはまた違うかもしれないけど、彼女ならもっとはっちゃけたことを言うと思っていた。それなのに、出てきたのはお話なんていう落ち着いたものだった。どうしたのだろうか、もしかすると彼女の方が熱があるのかもしれない。
「なーんか、しょうもないとか思ってそうだけど、これ大事だよ?ぜーったい君は感謝するだろうね。私にはその姿が目に浮かぶよ」
「そうかな…?」
僕にはそんな姿は浮かんでこない。お互いの好きなものについて語ったところで、一体何になるのか。今後、それを活かす機会でも訪れるというのか。
「はい。というわけで、何か私に聞きたいことある?何でもいいよ。あ、いや、何でもは無し。答えられないこともあるからね。あと、エッチなのも無し」
「常識的な範疇でってことね。それくらいは弁えてるよ」
「でもでも、少しくらいなら…」
「いや、聞かないから」
「じゃあ、始めよう。最初の質問は何?」
一瞬流れた不穏な空気は、彼女の号令によって彼方へと流された。こうして、何の役に立つのか分からないまま、質疑応答は始まった。
「そう、だね…。改めて考えると、ちょっと悩むな」
「じゃあ、先に私から。まずは無難にね、好きな食べ物は?」
「好きな食べ物か。うーん…、これっていうものはないかな」
「好き嫌いがないんだね、きっと。私はね、甘いお菓子とかが特に好きかな。マカロン、チョコ、ドーナツ、アイス、プリン、和菓子だって好きだよ。あ、でもね。最近は君の作ってくれたオムライスが好き。あれ、とっても美味しかったよ!」
「ありがとう。それは何よりだよ」
「はい、次。何かある?」
「じゃあ、何か特技はある?」
「特技か~。特技はね~…早起きは前に言ったし。他には~あ、動物と仲良くできる。野良猫とかにすぐ懐かれるんだ~。君は?特技ある?」
「強いて言うなら、料理かな。今さっき、神原さんも褒めてくれたし」
「うんうん、それはすっごい特技だね。誇っていいよ、私が太鼓判を押してあげるから」
他人のことなのに、自分のことのように誇らしげに胸を叩く。そんな彼女の様子を見ていれば、僕のプロフィールの特技に『料理』が追加されるのは当然と言える。
「次は?何かある?」
「次は…そうだね。将来なりたい職業…もしくは、やってみたい仕事とかある?」
「将来の夢ってやつだね。そうだな~、小さい頃は色々あったよ。例えば、ケーキ屋さんとか、お花屋さんとか。皆が憧れるものに私も憧れてた。でも、今はね~…なんだろ。やっぱり公務員とか?安定してるって聞くし」
「ずいぶん堅実だね。神原さんはもっと夢を見てると思ってた」
「もちろん小さい頃の夢を諦めたわけじゃないよ?でもね、夢より現実を見るようになってきちゃってさ。て言っても、まだまだ高校生だけどね」
「夢があるだけ良いと思うよ。僕は大学に行こうかなって思うくらいで、将来なりたいものっていうのが分からないから」
「君の将来か~…、そうだね…」
腕まで組んで、真剣に思考を巡らせている。なんとなく発した言葉にも、彼女は頭を悩ませる。それが自分のことではなく、僕のことであるのに。
「あ!先生は?学校の先生はどう?君ってば、私に勉強教えてくれるでしょ?あれ、分かりやすいし」
「あれは半ば無理やりだったと思うけど。でも…僕が先生か…。考えたこともなかったな」
「向いてると思うよ~?あ、でもでも、もうちょっと元気な方が生徒から人気が出るかも?」
「それ、いらないでしょ。先生は勉強を教えるのが仕事であって、生徒から人気になるためじゃない」
「生徒からの人気は大事でしょ~?人気な先生の授業ならちゃんと聞く気になるし」
「誰であれ、授業は聞くべきだと思うよ」
彼女の言う、将来…について少し考えてみる。単純にも、彼女の言葉に絆されて、もしも僕が先生になったら、と。当然というべきか、上手く想像できない。彼女一人が相手ですら上手く教えられている自信がないのに、それが一人ではなくもっと多くの人に教える自分なんて、都合の良い妄想ですら難しい。
それでも、僕は本当に絆されたらしく、先生になるのもいいかもしれない、という甘い考えをしてしまう。
「小言なんて今は無し無し。次に行こう!」
それからは、僕の質問に彼女が答え、ついでに僕も聞かれ、彼女の質問に僕が答え、ついでに彼女も答え、当初の目的通りに色々を知ることができた。
それもそのはずで、気が付けば窓の外はとっぷりと暗くなっていた。日当たりのいいはずの窓際の席に座っていたにもかかわらず、僕は時間の経過に気が付かなかった。思った以上に、彼女との会話に夢中になっていたらしい。
「くぅ~!結構長いこと話してたね。大崎くんのこと、いっぱい知れてよかったよ。でも…でもさー!」
店を出て、一言目。笑顔で満足気な顔をしていたかと思うと、一転してその表情は不満さを隠さない。
「なんで、あんな質問ばっかりなのー!もっと…もっとあるでしょ!あったでしょ!?」
「マズイことを聞いたつもりはないんだけど」
「いやいやいや、あの面接みたいな質問は何だったの?好きな食べ物から始まり、特技、将来の夢まではよかったよ。でもさ!長所や短所、趣味、中学の時の部活動、高校の志望動機、その他諸々…。質問が硬すぎるよ!また受験してるのかと思ったよ!」
「ごめん、何聞けばいいかよく分からなくて」
「まぁ、いいけどね。なんとなく君らしいし」
このままどこまでも詰め寄られるのかと思ったが、意外にも鎮火は早かった。もとより、それほど燃え上がってもいなかったのかもしれない。ただ勢いがすごかっただけで。
勢いの治まった神原さんは、静かに帰路を辿り、歩き始める。なんとはなしに、僕も同じ方向に足を向ける。
「ん?こっちの方向に何か用があるの?」
「そうじゃないけど。送って行こうかなって。昨日は出来なかったから」
「昨日?」
「あ、いや、こっちの話」
それができなかったのは彼女ではなく、妹の秋希ちゃんだ。どうしてか、神原さんに送られたことを見つかりたくないらしく、素気無く断られてしまった。その代わりというわけではないけど。
「じゃあ、お言葉に甘えようかな。もう少し、君と話したかったし。色々言いたいことあるんだよ~?」
「もう充分じゃないかな…」
並んで歩きだした彼女の足取りはいつも通りだけど、どうやらまだ燻っていたらしい。彼女の中の不満の火種は、まだ煙は上げていた。
季節は秋が好きです。
登場人物は秋希が好きです。