大切なハンカチの行方(その二)
ちょっと長くなりました。
彼女にとって大きな事件があった次の日。僕はいつも通りに登校していた。
昨日、別れてからも心配になって、メッセージの一つでも送ろうかと悩んだ末に、開かれたアプリはそのままの状態で何も送られることはなかった。正直に言うと、何を送るべきか分からなかった。どんな言葉を、どんな形で送ればいいのか、その正解が分からなかった。
そのまま夜は更け、そして明け、今になっても正解は分からない。今日、彼女に会った時、どうすればいいのか。そんなことを考え続けていた。
でも、そんな思考はほとんど無駄になる。どれだけ考えようとも、それを伝える相手がいなければ意味がない。
「ねぇ、大崎。春留のこと何か聞いてる?今日休んでるらしくてさ」
教室に入り、席に座って鞄から教科書類を出していると、スマホを片手に小野さんがやって来る。開口一番が彼女のことなあたり仲の良さが窺えるけど、どうして彼女が休んだ理由を僕に訊ねるのか、それについて僕が訊ねたくなる。
「僕も何も知らないかな。連絡の一つもないってこと?」
「そう。五組の子が不思議がっててさ、春留って滅多に休まないから」
何も知らない──わけではない。明確な心当たりがある。でも、当の本人が小野さんにも伝えていないなら、僕が言うのはお門違いというもの。
彼女についた傷がどれほどのものかは、僕には量れない。だから、今日、彼女が学校に来ていなくても、そのことについて聞くことも、ましてや、急かすことなんてできるわけがない。
そういった理由から、昨晩の僕はメッセージの一つも送れなかったのかもしれない。
「ま、風邪かなにかだとは思うけど。休み明けには元気になって戻ってくるでしょ」
「そうだね」
僕も、そう願う。彼女には、その名のように暖かさを届ける存在でいてほしい。
──なんて、ハルを嫌う僕が言うのは可笑しな話だけど。
……
そんな一段と寒さを感じる学校でも、授業は変わらず進んでいく。
廊下のドアも、グラウンド側の窓も、全て締め切られた教室内でも寒さを感じるのは、きっと彼女がいないからだろう。僕は、この学校の温度さえも変えてしまう存在だと、それが彼女なのだと考えている。
実際には、そんな暖房のような役割はないかもしれない。でも、昨日の彼女の涙を見た時と同じように、今の学校は冷えているように感じる。
きっと気の迷いだろう。少しだけ、ほんの少しだけハルが恋しくなったのは。
そんな彼女のいない一日は、不思議ととても長く感じた。僕たちは同じクラスじゃない。彼女がクラスにいないのは当然なのに、一限目の数式が羅列された授業、二限目の否が応でも走らされた授業、その後の全ての授業でも、時間が引き延ばされたかのように長く感じた。
彼女が学校にいないことを意識するだけで、これほど時間に囚われるとは思ってもいなかった。
人間の体感時間が、楽しいものは短く、楽しくないものは長く感じるとは聞くけど、まさかここまではっきりと差を感じるとは。
僕は時間だけでなく、彼女の存在にも囚われているのかもしれない。強引に、ひとの気も知らないで無理やりに僕の時間に割り込んできた彼女に。
……
黒に近い灰色。そんな仄暗さが抜けないまま、放課後になった。当然、彼女は学校に来ていない。
彼女のいない、冬の到来を感じる寒さに身が震えつつも、僕は図書室へと向かう。
彼女がいる可能性を探すわけではないが、どうしても期待してしまう。もしかしたら、彼女は学校に来ていて、そのことを僕には黙っていて、ここで隠れて待っているのかもしれない、と。
けど、そんな都合のいい可能性はない。扉を開けて感じるのは、春を思わせる暖かなものではなく、はっきりとした冬を孕んだ冷たい風だった。
あり得ない期待を抱いていた僕は、数秒間、ただただ茫然としてしまう。誰も座っていない椅子を眺め、彼女のいない空間を実感する。
そんな佇んでいるだけの僕を、聞いたことのある声が呼ぶ。
「大崎くん。ちょっと」
図書室のカウンター。その内から、司書の先生が手招きしている。そういえば、今この瞬間まで司書の先生のことを忘れていた。昨日は事情を聞かなかったけど、今日はそうもいかないだろう。この手招きはそういう意味だと思う。もしくは、単純に入口に突っ立っているのが邪魔なのか。
「とりあえず、ここ座って。それで、神原さんは?大丈夫だった?」
「大丈夫だと思います」
「思う?どうして、曖昧な感じなの?」
「今日、神原さんとは会ってないですから」
「それって、学校を休んでるってこと?」
「はい」
それを聞いて、ため息を吐いたかと思えば、今度は項垂れるようにカウンターに突っ伏す。分かりやすく、体が今の心境を表現してくれている。だからこそ、この人が本気で彼女のことを心配しているのが伝わる。
「メールの一つくらいはした?連絡先は知ってるでしょ?」
「特に何も」
「何もしてないの!?」
「はい」
「それはまたどうして?」
「送るべき言葉が…分からないので」
昨夜から考えている問いの答えは、日を跨ぎ、放課後になった今も出せずにいる。
「とりあえず、そのことは後にするとして。先に事情を教えて。昨日、何があったの?」
そこからは、場所を図書準備室に移して話を始めた。事情が事情だけに、万が一にでも誰かには聞かれたくない。むやみやたらに話を大きくしていいものでもない。彼女もそうしてほしくないだろうし、僕もしたくない。僕にそんな話をする相手がいないのは、ある意味幸いなことかもしれない。
昨日の出来事、その一部始終を話した。ただ、それはあくまでも僕が知る限りのこと。当事者ではない僕では計り知れないことがあるだろうけど、知っていることは全て話した。
でも、少しだけ迷った。果たして、このことは僕から話していいのか、と。もし、彼女が望んでいなかった場合、当然僕から話すべきじゃない。
それでも、今こうして話したのは、司書の先生が何も知らない部外者ではないから。昨日の気遣いが…お節介な部分もあったけど、彼女のことを考えて、今も心配しているのが分かるから。この人であれば、彼女も事情を話したと思う。
そうして、話が終わる頃には、冬の近づく気配と共に空が赤く染まり始めていた。人と話す機会の少ない僕だから当然ではあるけど、どうやらかなり長い時間を説明に費やしていたらしい。話す内容を纏めていなかったのも時間がかかった要因だろう。
「そう、事情は把握しました。この問題をどうするか、神原さんと話したかったけど、今日学校にいないのなら無理ね。次に会うのは休日を挟んだ週明けになるけど、大丈夫かしら?」
「どうでしょうね」
「まぁ、いざとなったら大崎くんに頼むから、その時はよろしく」
「なんで僕に…」
とは思うが、当然といえば当然ではある。彼女の事情を知っているのは、僕たちだけなのだから。けど、全く気は向かない。メッセージ一つ送れないというのに、直接会って何が言えるというのか。いや、何も言えない。今もまだ、何て言葉をかければいいか分からないのだから。
「さて、この話は一旦終わりなんだけど。勉強してく?」
「いえ、そのつもりだったんですけど、今日はやめておきます」
「そう。じゃあ、気が向いたらでいいから、神原さんの家を訪ねてみて。住所知ってるでしょ?」
「……気が向いたら」
そんな可能性が微塵もない言葉だけを残して、僕は図書室を後にする。
校舎を出た途端に吹いた風はやはり寒い。
来週は彼女が来ることを密かに願いながら、僕は家路についた。
……
次の日。彼女が来ることを期待する月曜日はまだ遠い。
何かを待ち望む。そんなことを考えたことなんて、今までにあっただろうか。自分でも不思議なほどに待ち侘びているものの、そういう時ほど時間の流れとは遅くなるもの。
時計を見ても、まだ一日の半分も過ぎていない。
「大崎くん。さっきから頻りに時計を気にしてるけど、何か予定があるの?」
そんないつもと違う様子を、バイト先の店長に感づかれる。他人から自分のことを訝し気に見られることなんてなかったが、今の僕は以前とは違うらしい。そして、その要因に真っ先に上がるのは神原さんである。
「いえ、予定はないですけど……まぁ、ちょっと…」
「何かあるなら、少しくらいは抜けても構わないけど?どうする?」
「…大丈夫です。本当に何もないので」
「そう。じゃあ、レジは任せた。ちゃんと笑顔でね!」
漢気溢れる店長の言葉と共に、肩を叩かれ活を入れられる。女性の一撃とはいえ、文化祭の仕事一つで倒れてしまう僕にはそこそこ響く。叩かれた右肩がジンジンする。
痛む肩を摩りながらレジ前で姿勢を正すが、暖簾をくぐって来る客はいない。これでは任されたレジも動かすことができない。
それからも、来るのは見慣れた常連客ばかり。それも、その数は多くない。僕が退勤するまで、レジは数えるくらいしか動きを見せなかった。
家までの帰り道を歩きながら、バイトを雇っていることに疑問を感じる。忙しい時は忙しいものの、今日のような暇な時間までバイトを雇う意味はあるのだろうか。そんなことを考えることはしても、楽な仕事で給料が貰えていることに気づき、これ以上は考えないことにした。
……
休日という時間のある日にもかかわらず、勉強が捗ることはなかった。その理由はもちろん神原さんのことだ。どれだけ時間が経とうとも、やはり送る言葉は見つからない。そのことが頭の隅にずっと引っ掛かって、広げられたノートには少しの文字しか書かれていない。
バイトに行く前も、行った後も、変わらずペンを握る手は動かなかった。どうしたって、彼女のことが頭から離れなかった。
そうした日々も、彼女に会えば解決するというもの。
週の明けた学校には、いつも通りと言うべき彼女の姿があった。
多くの友人たちに囲まれ、朝から元気過ぎるほど挨拶をして、そのうちの一つを僕に向ける。そんな彼女の姿が。
「おはよう、大崎くん。あー……、久しぶりって言った方がいいかな?」
「おはよう。もう大丈夫?」
「それに関しては全然大丈夫。家族には心配されたけど、大崎くんのことを話したら安心してくれたよ」
「どうして、そこで僕が?」
「お母さんが会いたがってたよ?また今度、家にも来てよ」
「……気が向いたら」
と言いつつも、そんな気が向くことはたぶんないだろう。彼女の母親ともなれば、彼女以上にパワフルな人が現れてもおかしくはない。その娘ですらこれほど振り回されているのに、それ以上というのは……あまり想像したくない。
「あ、お母さんといえば。これ、返すね」
何かを思い出した彼女が鞄から取り出したのは、見覚えのあるハンカチ。僕が彼女に貸したものだ。
「ありがとう。大崎くんのおかげだよ」
「どういたしまして。このハンカチが役に立ったのならよかった」
「もぅ、ハンカチもだけど大崎くん自身のこともだよ。じゃあ、また放課後にね!本当にありがとう!」
用は済んだとばかりに、そそくさと階段を上がって僕とは違う教室へと行ってしまった。
残された僕は、返されたハンカチを見て、彼女が戻ってきたこと実感する。その実感は、いくらか僕を安心させて体から力が抜ける。僕は自分が思っていた以上に、彼女のことを気にしていたらしい。いや、それも当然か。ここ数日は、勉強にすら真面に手が付けられなかったのだから。
「なにしてんだ?大崎」
「いや、別に」
壁に力なくもたれ掛かっている僕に、久しぶりに見た坂下が声をかけてきたが、話す必要はない。適当に流して、僕も教室へと向かった。
……
クラスを跨いで学年中に友達が多くいる神原さんが帰ってきたとなれば、朝から彼女の周囲は騒がしくなる。朝、昇降口でああして話せたのは奇跡に近いかもしれない。
移動教室やら、休み時間やら、ことあるごとに廊下に見える彼女の周りにはいつも以上に人が多くいた。僕の見たことある人もいれば、全くそうではない人、本当に多くの人がいた。その中に真っ先に入りたいであろう人物は、僕と一緒にその集団を遠くから眺めていた。
「小野さんは向こうに行かなくていいの?」
「行きたいのは山々だけど、あれじゃあねぇ。ま、放課後には落ち着くと思うから、その時でいいかなってさ」
「たった一日休んだだけで、えらく騒ぐね」
「それだけあの子が人気者ってことでしょ。それより、大崎こそ春留と話さなくていいの?」
「僕は今朝話したから」
「手が早いね」
ずいぶんと心外な言い方だが、早かったのは事実なので何も言わないでおく。ただ、僕の方からは手を出していないので、その点については言及するべきかもしれない。
そして、小野さんの読み通り、彼女の周りいた集団は放課後にはその数を大きく減らしていた。といっても、減っただけでいなくなったわけじゃない。いつも通り、図書室へ向かおうと教室を出た時、遠くに見える神原さんの教室、その出入口で話す彼女の姿が見えた。
そんな彼女を後目に、一人行こうとした僕は、彼女と同じように教室の出入口で引き留められる。
「大崎、ちょっと待って」
慌てて出てきたのか、口が開いたままの鞄を手に持った小野さんが僕を呼び止める。
「なに?」
「図書室、行くよね?私も行く」
「いいけど、なんで急に?」
「春留も来るんでしょ?その時にちょっと話そっかなってさ。大丈夫、勉強の邪魔はしないから。ちょっと話して、さっと帰る。私はね」
「邪魔しないなら好きなように。でも…あれじゃあ、もうしばらくはかかりそうだけどね」
再度、ちらりと見た彼女はまだまだ忙しそうだった。
……
それから、神原さんが図書室に来たのは、ずいぶんと遅かった。どうして、こうも遅くなったのか理由の詳細は不明だが、彼女の様子を見ればとても苦労したことが窺える。入ってくるなり、ふらふらと近づいてきたかと思えば、勢いよく椅子の上に崩れ落ちた。
「ちょっと、大丈夫?風邪がぶり返してきたとか?」
「つ~か~れ~た~」
「あーはいはい、大変だったねぇ~。おー、よしよし」
小野さんに泣きつくと、犬のように頭を撫でまわされている。整っていた長い黒髪がこれでもかというほど乱れていく。そんな乱れる髪とは裏腹に、撫でられる神原さんの表情は次第に和んでいく。
「はい、終わり。髪直してあげるからちゃんと座って」
「ありがとー」
言われた通りに背筋をしっかりと伸ばして、椅子に座り直す。ボサボサになった髪を、鞄の中から現れた櫛で梳いて整えていく。
綺麗な黒髪が艶を取り戻すと、それだけでは終わらず、頭の上へと集められる。
「そのままでいいよ?」
「今から勉強するんでしょ?こうも長いと邪魔じゃない?」
「そうだね。ありがと」
それから見る見るうちに神原さんの頭の上に一つのお団子が出来上がった。長かった髪がすっきりと纏まり、普段は見えない首筋や耳まで露わになっている。
「おお~!いいね、お団子。…ん?大崎くん、変じゃないかな?これ」
手鏡で出来を確認する彼女と目が合ってしまった。目の前でこうも珍しい光景が繰り広げられていたら、当然勉強に集中できるわけもない。
段々と晒されていく彼女の横姿に、どうしてか目が離せなかった。そうして、最後まで見ていた僕の目は彼女の瞳に捉えられてしまう。
吸い寄せられるような、きらきらと輝きを放つその瞳に。
「あ、いや…まぁ、いいんじゃない?いつも髪をかき上げてたから、それなら邪魔にならずに勉強に集中できるだろうし」
「ありがとう。よく見てるんだね」
「目の前にいるんだから、嫌でも目に入る」
悪態をついて、大きくなっている心臓の鼓動を誤魔化す。どうしてか、さっきから心臓が落ち着いてくれない。初めて彼女の名前を聞いた時と同じ、自分のものではなくなったように独りでに鼓動を速くする。
「じゃ、私は帰ろうかな。勉強頑張って、特に春留。ちゃんと教えてもらいなね~」
「え?え?美月帰っちゃうの!?一緒に勉強しないの!?」
「私は春留ほど成績悪くないから。それに──」
小野さんは僕と神原さんを交互に見る。何度か往復した視線は神原さんの方で止まり、先の言葉を口にはしなかった。
「ま、頑張りなさいな」
代わりに、激励するように肩に手を置いただけで、図書室を後にした。
「小野さんもああ言ってたことだし、勉強頑張ろうか」
「そういう意味じゃないと思うけどね~」
「じゃあ、どういう意味?」
「さぁ?なんだろうね~」
明らかに理解している口ぶりだが、その意味を教えてはくれなかった。とはいえ、知らなくても問題はない。そもそも、これから彼女は教える側ではく教えられる側になる。質問をするのは彼女の方だ。
小野さんの言葉の意味も、神原さんが教えてくれない理由も、今の僕には知らなくてもいいことだ。
……
神原さんが戻って来て二日目。
この日、僕と彼女は思いがけない形で、あの日の真相を知ることになる。それは偶然が重なった結果、僕たちが、特に神原さんが知りたかったであろう事柄が露わになった。
……
「おはよう、大崎くん」
昨日の朝とは違い、ずいぶんと彼女の周りからは人の数が減った。昨日の今日であろうと、いくら彼女であろうと、これ以上は心配の声を引きつけないらしい。とはいえ、全くいないわけではない。僕に挨拶するまでも、数人から声をかけられていた。それが挨拶か心配なのかは分からないけど。
「おはよう、神原さん」
ともかく。僕も挨拶を返す。少しの心配を含んだ、いつも通りの挨拶で。
その後、何かを言いかけた彼女だったが、後から来た彼女の友達に連れられ、呆気なくその機会は失われた。僕としても、彼女にあの日のことについて聞こうと思っていたのだが、機会は放課後に持ち越しとなった。
手持ち無沙汰になり、ただ佇むだけの僕に、もう一つ、挨拶をする声が届く。一瞬、自分のこととは理解出来ず、反応が遅れたが、軽く肩に触れられたのだから間違いはない。ただ、その相手が僕にとって他に数少ない友人と呼べる二人ではなく、思い出すのに時間がかかるほどに関係の希薄なクラスメートだったのは意外だ。
どうして、今になって挨拶なんてされたのか。僕が返す前にいなくなってしまっては聞くことも叶わない。だけど、そこに大した理由なんてないだろうし、僕も追及するほどの興味はない。きっと、ただの気まぐれで、すぐに忘れてしまう出来事だ。僕にとっても、相手にとっても。
それから、教室に向かい席に着いた僕は、ついさっきの事をまるで忘れたかのように全く気にせず、朝一番の授業から真面目に取り組んだ。幸いと呼ぶべきか、むこうも僕にもう一度接してくることはなかった。やはり、ただの気まぐれだったのだろう。
……
朝から発揮された集中力は最後の授業まで途切れることはなかった。そして、その影響は放課後になっても続く。つまり、今日も開催されるであろう勉強会は、いつも以上に捗ることだろう。この事実を知った神原さんの顔が思い浮かぶが、そんなもので僕の意欲は止まらない。むしろ、一層捗るまである。
「ねーねー、今日くらいは休もうよ~」
「……残念だけど、今の僕はすこぶる調子が良いから、今日は是が非でも勉強をするよ」
「な~ん~で~~」
僕の予想通りだった。やる気になったわけではなさそうなのに先にいた神原さんは、僕のやる気に満ちた顔を見るや、早速おさぼりの提案をしてきた。それを素気無く却下すると、抵抗の意思を表すかのように机に突っ伏す。
ここが図書室であることを忘れたかのように、彼女はどうしてもやりたくない意思を口に出す。元気の良い彼女の声は、この場合は悪い意味でよく通る。だから、周囲の冷ややかな視線が一点に集まる。そしてそれは、どうしてか僕にも向けられる。
まったく、堪ったものじゃない。僕は見ての通り、真面目が過ぎるくらいに勉強をしている。今もこうして教科書たちを……と思ったが、どうやら僕はまだ一切の準備を整えていなかったらしい。机の上には、突っ伏した神原さんの上体と腕くらいしか置かれていなかった。これでは、僕にまで視線が向くのも無理はないかもしれない。
気を取り直して、今度こそ教科書たちを取り出す……気でいたのだが、僕は重大なミスを犯したことに気づく。
膝上に置いた鞄が、あり得ないほどに軽い。かつてないほどに重さを感じない。つまり、教科書の一切が入っていなかった。あれだけやる気になっておきながら、恥ずかしいことに何の準備もできていない。幸いと呼ぶべきか、なぜかノートだけは入っていた。どうして、ノートだけ入っていたのかは疑問だけど。
「神原さん」
「な~んで、な~んで、な~…ん?なになに?やっぱり今日は止めにする?」
「しないよ。だから、教科書を借りてもいいかな?」
「もしかして、置いてきちゃったの?」
「そう。取りに戻ってもいいけど、神原さんが持ってるなら借りた方が早いから」
「そうだね。それなら……アー、シマッター」
快く貸してくれるのかと思ったら、僅かに身体を起こした体勢から実に珍妙な声が飛び出た。何を思い付いたのかは分からないけど、とんでもない大根役者ぶりを発揮した。棒読みという言葉に失礼なほどにわざとらしさ全開な言い方。実に、分かりやすい物言いである。
「どうしたのさ、急に」
「……いやね、私もその教科書持ってないなーって」
「まだ、どの教科かも言ってないけどね」
「……コレハモウ休ミニシヨー」
「しないって。じゃあ、僕は教科書取りに行くから、神原さんは一人で進めておいて」
「私も行こうか?」
「来なくていいから」
あまりにも軽い腰を上げようとしている神原さんは静止して、僕一人で図書室を出る。僕の後に続いてくる人物いない。どうやら、真面目に取り組む気になったようだ。いや、果たして付いてきていないだけで、勉強しているかは分からない。
どうか真面目に勉強してますように。そう願いながら、僕は階段を上がる。僕一人では余してしまう階段も、廊下ですら人とのすれ違いはない。聞こえてくるのは、グラウンドで必死に駆けているであろう運動部の声くらいだ。その声すら、まるで地平線の彼方から届いているくらいに遠く聞こえる。
だから、それより近くから発せられる声が明瞭に聞こえるのは必然で、否が応でも僕がその内容に反応してしまうのも仕方ない。
僕のクラスである一組に向かう途中、偶然…というよりは、自然と彼女のクラスである五組の前を通った。ちらりと視線を送った教室内には、当然だけど彼女の姿はない。今頃、真面目に教科書と向き合っているはずだから。あるのは、三人の女子の姿だけ。なにやら、楽しそうに話している。
ただ、この会話を聞くつもりなんてなかった。盗み聞きみたいになるから、耳を傾けることさえしていなかった。なにより、その会話の内容を知っていれば、聞くことはおろか、話している姿さえ見たくはなかっただろう
でも、この静けさでは、どうしたって聞こえてしまう。
「あいつ、意外とメンタルきたっぽい」
「ね、まさか学校休むほどとか。メンタル弱すぎ」
「でも、かなり効いたってことでしょ?やって正解じゃん」
僕の耳に届いたのは、三人の女子があけすけに誰かのことを嗤う様子。僕が彼女のクラス、五組の前を過ぎようとした時に聞こえてきた会話の冒頭部分。これだけなら、聞き流して自分のクラスに行っただろう。誰がどれだけ酷く言われていようとも、僕には微塵の興味もない。
でも、届いてしまった。僕にとって無関係ではいられない、彼女の名前が。
「これに懲りて大人しくしてろっての」
「ほんとそれ。神原のやつ、人の男に手出すとかあり得ないっしょ」
「てか、もっかいやっとく?ハンカチだっけ?今度は動画も撮ろうよ」
「はは、それいいね!目の前でボロボロにして、どんな反応するか見るか~」
一人が発した彼女の名前を聞いて、僕の足は縫い留めらたように動きを止める。そして、聞こえてくるのは、僕には理解のできない笑い声。何に対して、どうして笑っているのか、僕には一分も理解できなかった。
でも、その理解できていない頭でも、僕の身体は動いてしまった。ぴたりと止まっていた身体は、弾かれるように五組の教室の扉を開け放った。
僕が意図した行動じゃない。ほとんど無意識のうちに動いていた。考えて足を動かしたわけでも、手を動かしたわけでもない。ましてや、続く言葉が僕の考えていた言葉なわけがない。これはきっと、僕の中に燻っていた感情が発した言葉だったと思う。
「今の、どういうこと?」
扉を開けると、途端に三人の女子の視線は僕に向き、弧を描いていた口元は徐々に真っ直ぐに戻っていく。
こうして対面して、僕はこの人たちを見たことがあるのを思い出す。あの日、彼女を追いかけて図書室を出た時、数少ないすれ違った人物が、この人たちだ。バカみたいに大笑いして、その笑いを彼女には真似てほしくないと思った、あの人たちだ。
「なに?あんた、誰?」
「なんか、見たことある気がするけど」
「あ~、あれじゃね?神原のカレシ」
一人が気づいたことをきっかけに、他の二人も思い当たる。どうやら、僕は彼女たちから一応の認識をされているらしい。
「なるほどね。うちらの話に神原の名前が出たからってこと?てか、それって盗み聞きしてたってことじゃね?」
「うーわ、サイアク。会話に割って入るだけじゃなくて、盗み聞きまでしてるとか。このこと、神原が聞いたら幻滅されるくね?」
「あー、どうしよっかなー、言っちゃおっかなー」
戻っていた口元が、またニヤニヤと吊り上がる。明確に自分に向けられた悪意に、僕の中から冷静さが失われていくのが分かる。少しずつ、感情の割合が多くなる。
「したいなら好きにすればいい。でも、僕の質問には答えてもらうから」
「いいよ。面白いから聞くだけ聞いてあげる。なに?」
「……神原さんの、ハンカチ。あれをやったのは…」
「ああ、あれね。てか、もう分かってんでしょ?さっき聞いてたなら」
一層、中心に座る女子の口角が上がる。それは明確な悪意を有した微笑みで、僕の神経を逆なでするには充分過ぎる行為だった。
「うちらがやった。てか、うちってば優しいと思わない?あいつの忘れ物をわざわざ届けてあげたの。まぁ、届けるまでに色々あったから、ちょーっと汚れちゃったけどねー」
「ほんと優しー。あたしなら放置するって、あんなの」
「それそれ。マジ優しい」
そして、あの行為を善行だと言い張る。全く悪びれる様子もなく、そうすることが当然のような振る舞い。そして、また嗤う。もはや、神経を逆なでされたというものじゃない。僕は内に明確な怒りを覚えていた。
筋違いなのは分かっている。これは本来、僕が持つべき感情じゃない。だけど、この人たちが知らない彼女を、僕は知っている。
とても大切だと、笑って話してくれた彼女を。
悲しいと、はっきりと涙を流した彼女を。
そんな彼女を見ていたからだと思う、僕の中にこんなにも怒りが生まれたのは。それに、これは彼女のためじゃない。たとえ、彼女が許そうとも僕が許せない。許したくない、そう思った。
「どうして、あんなことを…。神原さんが、何したっていうんだよ…」
「あんた、あいつの近くにいて気づかないわけ?それとも、気づいてて知らないふりしてんの?」
「なに、が…」
「あいつ、男に愛想振りまいてキモいでしょ?」
「は……?」
意味が、理解できなかった。一体、誰の話をしているのか、僕とこの人とで別々の人のことを話してるのかと思った。でも、そんなわけがない。そのことを頭で理解できても、何を言っているのか分からない。
「誰にでも良い顔して。ちょっとモテるからって、調子に乗ってんじゃない?」
この人は彼女のことを何も知らない、だから悪く言っている。そう頭では理解できていても、もう堪えられそうになかった。今にも、僕の身体は感情に支配されて、過ちを犯しそうになる。
「そんなんだから、誰かに悪戯されるんじゃないの?自業自得よ、自業自得。自分で招いたんだから、当然の報い」
ふと、もういいか、と、そんな諦めのような呆れのような考えが頭を過った。そう思ってしまったら、僕の拳は驚くほど軽くなった。簡単に暴力を容認し、簡単に腕は上がり、躊躇いなく振り下ろす気になった。
「っ!!」
そんな僕の行動を察したのか、彼女のことを散々に言っていた女子が、身を守るために身体を縮こまらせる。必死になって顔を腕で覆い、悲鳴にはならなかった声を上げる。
「大崎くん」
でも、僕の拳は頭上で硬く握られたまま振り下ろされることはなかった。僕の凶行を止めたのは、止めてくれたのは神原さんだった。
もう一方の扉から、まるで似つかわしくない、冷たい表情をした神原さんが現れた。僕を呼んだ声も、ついさっきまで話していた彼女とは、まるで別人に思えた。だからこそ、僕の動きは完全に止められた。
ゆっくりと、僕たちの方へと歩いてくる神原さんを見て、最初に声を出したのは僕が殴ろうとした女子だった。その声は、僕がこれ以上動かないのを見てか、先ほどと同様に相手を不快にさせるものへと戻っていた。
「神原、なに?あんたまで盗み聞き?揃って悪趣味なことするね」
「あなたたちほどじゃないよ。他人の悪口を喜々として話して。それに、度が過ぎた悪戯。…悪趣味はどっちだろうね?」
「な!?あんた…っ」
またしても、彼女に似合わない嘲笑を浮かべる。聞いたこともない声色、見たこともない表情、僕の知らない彼女の存在に、いつの間にか僕の腕は元の位置まで下がっていた。
一方の言い返された女子は、僕の熱を奪うようにヒートアップする。その顔には明らかな不快感が刻まれ、誰よりも感情を昂らせる。
「あんたが悪いんだろ!あんたが、人のものを盗ろうとするから!」
「一体何の話?こうして話すのも初めてなのに」
「あんたが!あんたが、先輩のこと振ったせいで、うちが八つ当たりされた!あんたのせいで!」
「先輩って?本当に何の事を言ってるのか分からないよ」
神原さんにとっては純粋な疑問だったのだろう。でも、相手の受け取り方はまるで違った。彼女の言葉は、さらに激情に駆らせた。
「文化祭の時、あんたが他の男と踊ったりするから!そのせいで、先輩は機嫌を損ねてうちとは踊ってくれなかった!あんたが!あんたのせいで…!」
その時のことを思い出したのか、怒りに混ざって悲しみが滲んでいる。目じりに涙を浮かべているのは、どちらの感情から起因しているのか。
ただ、それを考えるよりも、僕はこの人の言動の理由がやっと分かった。文化祭の後夜祭にて催されたあのキャンプファイヤー、どうやらあの時の一件が絡んでいるらしい。あの時に彼女に迫っていた人が、この女子の言う先輩ということだと思う。
つまり、あの時、僕が彼女を助けたから、この人は先輩とやらと踊れなかった。その腹いせが、あのハンカチというわけだ。
「そう、それなら思い当たる節はある。その人とのことには同情もする。だけど、あなたのことを許せないし、あの時、私は怖かった。しつこく付き纏われて、強引に迫られて。だから、私は大崎くんに助けられて、すごく安心した。あなたにとっては、その先輩が好ましいのかもしれないけど、私からしてみれば恐怖の対象でしかなかった。同じ女なら、少しは分かるでしょ?」
言葉を続ける神原さんを見て、相手の鬼気迫る表情にも次第に落ち着きが見えてくる。それでも、怒りも悲しみも収まることはなく残り続けている。
「だからって…っ。だからなんだって言うのよ!あんたは先輩を無下にした、それは変わらないでしょ!」
「そうだね。だから、私のことは許さなくていい。私もあなたのことを許さないから。だけど、もう終わりでいいでしょ?」
「終わり…?」
「お互い、これ以上関わらない。私はあなたにやり返したりしないし、あなたも私を、私のものを傷つけない。それでいいしょ?」
神原さんはそれだけ言うと、相手の有無も聞かずに僕の手を取る。
「行こう、大崎くん」
連れられるまま、僕はその場を後にした。振り返って見た相手の背中は、どことなく納得もしていなければ言い足りなさも纏っていたが、これ以上は何も言ってこない、そんな風に思えた。
……
揃って図書室に戻っても、当然勉強をしようという気になんてならない。だから、示し合わせるまでもなく、僕たちは片づけを終えると並んで昇降口へと向かった。
人の気配が薄い昇降口、靴を履き替え歩き出そうとした僕の手を、僕以上に熱を持った温もりが包み込む。一瞬、驚きのあまりに振り払いそうになったが、その温もりに覚えがあったから大袈裟な反応はしなかった。
それでも、何事かと視線を手元に移せば、予想通りに誰かに手を握られていた。誰か、というのは明らかなのだけど、唐突な出来事に理解が追いついていない。
その正体を知るべく、手元にある視線を徐々に上へと向けると、そこにはこれまた驚くほどに顔を赤らめた人物がいた。
「神原さん…?」
「……」
「えっと…?」
「……」
呼びかけてみても、全く取り合ってはくれない。口を噤み何も答えなければ、視線は何を見るでもなく俯いて目も合わせてくれない。これでは全く意図を掴めない。掴めるのは、合わさっている彼女の掌くらいだ。
そんな大いに困惑している僕なんて構わないように、神原さんは歩き出す。遅れて反応した僕は、またしても引っ張られる形で連れられ隣を歩く。
もしかすると、このまま彼女の家まで連れていかれるのでは。そう覚悟したものの、どうやらそこまではならないらしい。校門を出て少し歩くと、ようやく彼女は口を開く。
「いいでしょ、今くらいは」
「え、なにが…?」
「私だって、平気でいられるわけじゃない…」
たぶん、手を握ってきた言い訳をしているのだと思う。脈絡もなく話し始めたせいで、会話の流れを上手く掴めないけど。
「少しくらい、我が儘言ったって…」
「ダメだとは言ってないよ。それに、我が儘くらいいくらでも言えばいい。それくらいの権利はあるよ。あんなにも立派だったんだから。まぁ、その相手が僕じゃあ、不満だろうけど」
何かを訴えるような彼女の視線が僕のものとぶつかる。でも、すぐに離れ、また俯く。その代わり、ぽつぽつと言葉を紡ぎ始める。
「ありがとう…」
「お礼なんていらないよ、これは当然の我が儘なんだから」
「それも、だけど。私のために怒ってくれたことも。君がそんなにも私のことを想ってくれていたと思うと、嬉しいよ」
想って、なんて正しいのだろうか。そもそも、『ありがとう』なんて言われる筋合いはあるのだろうか。あの時、僕が抱えた怒りは何に対してなのか、彼女のため、なんて言い方は決してできないと思う。
だけど、そんな僕の心情を知ってか知らずか、彼女は再び僕に笑いかける。可笑しなことに、まるで僕が助けられるように。
「ありがとう、大崎くん。もう大丈夫、本当に…君のおかげ。……ね、明日デートしよっか?」
「え…?い、いきなりだね?」
「やっぱり、何かお礼がしたいから。いいでしょ?どうせ勉強くらいしかすることないんだし」
「それ、重要なことだけど」
でも、いつも通りの…いや、いつも以上の笑顔な彼女相手に、僕なんかが提案を拒否できるわけがない。当の彼女も、僕が断らないと分かって言ってきている気がする。
だけど、そんな先読みをされていたとしても、僕の中に嫌な感覚なんて微塵も湧かない。
「じゃあ、決定ね!明日の放課後、約束破ったら三倍にして返してもらうから!」
そうやって一方的に約束を取り付けると、最後に一層ぎゅっと強く手を握り、離れる。掌に痛いくらいの何かを感じるが、それは痛みなんかじゃない。走り去ろうとする彼女が残した温かな熱だ。全身まで広がるその温もりが、あまりにも熱すぎて勘違いをしてしまった。
この冬の寒さ、心の寒ささえ吹き飛ばしてしまうほどの熱を僕に伝え、彼女は大きく手を振る。もう一度、僕に大丈夫だと伝えるように。
「大崎くん!またね!」
振り返ることなく進み続ける彼女の背中を、僕は見えなくなるまで見送り続けた。時折、頬を刺しているであろう風が吹くが、今の僕には微塵も効かない。
笑顔の彼女の背中が消えてから、僕も歩き出す。このハルの陽射しのような温かさと、そして彼女の居る日常が続くことを願いながら。
……
だが、僕の望んだ日常は、一日として続いてはくれなかった。何か、数奇な運命を辿るように作為されているのかと思えてしまう。
神原さんを見送り、僕も帰路に着く。しばらく歩き、街が明るさを失って夜の顔を覗かせ始めた頃、自宅であるマンションのエントランスが見えてくる。
周囲よりも少しだけ明るいその場所は、良くも悪くも目立つ。毎日毎日、そこへ帰っている僕からすれば何も思わないが、住人ではない人からすれば気になるのだろうか。先ほどから、そのエントランスの方に視線を向ける通行人が多い。
とはいえ、いくら少しばかり明るいといえど、前の道を通るのは近隣住民がほとんど。今更、目を向けるほどの珍しいものなどないはず。そう思いながら、自動ドアが並ぶエントランスの全容が見えたところで、理解する。どうして、ああも人の視線が集まっていたのかを。
そこには一人の少女、近くの中学校の制服を着た少女がドアをくぐらずに佇んでいた。本格的な冬が近づくこの時期に、暖房もなければ雨風に曝される屋外で息を白くしながら立っていた。
離れていても、俯いている顔の端正さが分かる。そして、その顔にどこか見覚えを感じる。つい最近、似た顔をどこかで見た気がする。テレビに出ている芸能人とかだろうか。
そんな少女を横目で見ながら、通り過ぎる。僕も他の人同様、遠巻きに見るだけで関わることなんてないと思ったから。
──そう思った。そうしたかった。
だが、僅かに視線を上げた少女は僕を視界に捉えるや否や、途端に動き出した。今まで、石像のようにぴたりとしていたのに。
「あ、あの!」
そして、動き出すだけにとどまらず、確実に僕を見据えて声をかけてきた。
そしてそして、衝撃はまだ終わらない。
「大崎くん……で、あっていますか?」
少女は僕の名前を口にした。見ず知らずの少女に、僕の顔と個人名と住所を把握されていた。
寒さの強まる十一月も終盤の夜。季節の移ろいを感じながら、僕はまた新しい季節と出会う。
そう呼ぶには少し遅い、季節外れとなったアキに。
やっぱりシリアスは難しい。