大切なハンカチの行方(その一)
「大崎くん!おっはよぅ!」
週の明けた朝から、とぼとぼと元気の欠片もない、通った道に苔が生えそうな足取りで校門をくぐる。そんな僕の苔むした泥道を、香り華やぐ花道へと変えてしまうような明るさを纏った彼女の声が後ろから聞こえてくる。
僕たちの距離はまだそこそこ離れているにもかかわらず、彼女は後ろ姿だけで僕を認識して挨拶をしてくる。周りにちらほらと歩いている彼女のクラスメートより先に。
もちろん、そのクラスメートたちを蔑ろにするわけもなく、僕に追いつくその間もあちらこちらへと「おはよー!」「おはよー!」と元気過ぎるほどに朗らかな朝を伝えている。
小走りで近づいてくる彼女を、僕はなぜか立ち止まり待ってしまう。彼女と関わることを望むわけがないと思っていた一か月前の僕が見たらきっと驚くだろう。ごく自然に当たり前のように、追いつこうとする彼女を見守っていたのだから。泥道が華やいでいく様を見ていた、本当にそうなっているんじゃないかと錯覚してしまうほどに、段々と距離が近くなる彼女は影を知らない光に見えた。
「おはよぉ~、大崎くん。今日はちょっと暑いねぇ~。もしかして、夏がぶり返してきたのかな?」
「おはよう。暑いのは神原さんが走って来たからだと思うよ。はい、これ使って」
「お?」
日々、ポケットに忍ばせていたハンカチを差し出す。つい先日、使う機会を見失ったハンカチに、早くも出番が訪れた。心なしか、取り出されたハンカチも驚いているように見える。ハンカチにそんな感情はないだろうけど。
「汗拭いた方がいいよ。引いたら寒くなるだろうから」
「あ、ほんとだ。いつの間にか汗かいてた。だから暑いんだね。でも、ハンカチは大丈夫。私も持ってるから。お母さんから貰ったお気に入りでとっても大切なのが!」
そういって彼女もポケットから淡い水色のハンカチを取り出し、汗を拭っていく。
この前に見たハンカチとは別もののようだけど、彼女のものだと示す手製の刺繍が施されている。やはり綺麗だと思うそれを、僕はまたしても見てしまう。
そんな僕の視線には気づかない彼女は、汗で崩れた前髪を気にしている。
「あ~、前髪が~。折角整えてきたのにぃ~。ね、変じゃないかな?」
一通り拭き終えた彼女は気になる前髪の状況を僕に訊ねてくる。前髪を見せるためとはいえ、彼女のすべての要素が僕に向く。その整った顔の造形、特に目元。長く綺麗に伸びたまつ毛が彼女をより美しく魅せる。
そんな彼女が首をわずかに傾げて僕の顔を覗き込んでくる。前髪を確認してほしいのだから、こちらを見るのは当然なのだが、なにも目を合わせる必要はないだろうと逸らしてしまう。思わず心臓が撫でられたかのように大きく跳ねたのを誤魔化すためじゃない。
「ぼ、僕にはよくわからない」
「そっか。あとで、鏡で確認しよ。大惨事になってないといいな~」
呑気に前髪をいじる彼女だが、一方の僕は気が気ではない。彼女にも聞こえているのではないかと思うほど早鐘を打つ心臓を抑えようと必死だ。素っ気なく答えてしまったのは少し申し訳なく思うが、彼女の責任でもあるので容赦してほしい。
朝から著しく体力と精神を擦り減らした僕は、違う教室の彼女とは一旦別れる。これで少しは心の平穏を取り戻せる。
いつも通りに教室に入り、いつも通りに誰と挨拶することなく席に座る。そんないつも通りに、今更ながら変化を感じる。
その変化というのは、クラスの空気のことだ。
少し前までは、僕が登校してくる度に何やら視線を向けてくる人たちがいたものだが、今日も含めここ最近はそんな視線なんてどこにもない。まるで嘘だったのかと思えてしまう。
が、あの視線は紛れもなく存在していたはず。であれば、一体どこに行ったのか。どうして無くなったのか。
しばらく頭を悩ませてみるが、これといった理由に思い至らない。ほぼ確実に神原さんが関わっているとは思うが、それ以上はよく分からない。もしくは、明確な理由なんてないのかもしれない。噂の鮮度が落ちてしまった、ただそれだけとも考えられる。
……
そして放課後。
教室を出た僕の足取りは今までとは少し違い、急かされるように図書室へと向かう。その理由は明白、今日の授業の遅れを取り戻すためだ。
信じがたいことに、今朝始めた考え事が放課後になっても終わらず、今日行われた授業のほとんどを聞き逃してしまった。
我ながら馬鹿げているとは思うが事実である。気がつけば、持ってきた弁当はなくなっていたし、時計の針は正しく進んでいる。ただし、授業の内容についての記憶はない。
入学以来、初めて授業を聞き逃したが、それを仕方ないで済ませられる僕ではない。成績の維持は僕にとっては重要なこと。対人関係が疎かな僕のせめてもの取柄は失いたくない。これまで失ってしまっては、一体、僕に何が残るというのか。それを想像するだけで寒気がしてくる。
足早に廊下を進み、他に気を取られることなく図書室の扉を開ける。
どうやら僕は一番乗りらしい。中には誰もいない…いや、あの怖い司書の先生がいた。カウンターの中で何やら作業中のようだ。
「あら、今日はずんぶんと早いのね。神原さんはまだ来てないわよ」
顔を上げて開口一番が彼女のことなのは少し癪だが、今日も彼女はここに来ると思うと否定する言葉は出てこない。
「神原さんのこともですが、今は自分のことで手一杯です。考え事をしていたら、授業を聞きそびれたので」
「あら~、考え事って神原さんのこと?青春してるわね~」
これまた事実の一端ではあるが、なんとも受け入れ難い。第三者から見ても、最近の僕の言動には常に彼女が関わると思われているらしい。
僕は、僕の生活が彼女に浸食されている感覚に陥る。その感覚はあまりにもおぞましく、背筋がヒヤリとする。このままいけば先がどうなるか、想像に容易い。
「……それじゃあ、僕は自分の勉強します」
「はい、どうぞ。そうそう、神原さんね。今日は委員会の当番じゃないから」
「そうですか」
今の僕にとっては至極どうでもいい情報だ。彼女の仕事の有無に関わらず僕はこの図書室に来るし、彼女もそうするだろう。あの日のように、彼女は僕の都合なんてお構いなしに踏み込んでくる。
何やら嬉しそうに微笑む司書の先生の表情は、これ以上見ないでおこう。
他に利用者のいない図書室。これなら、今の内に今日の遅れを取り戻せる。今日一日の授業で使った教科書類(使っていない)を机に積む。そこそこの量があるが、集中して励めばすぐに終わるだろう。一つ懸念があるとすれば、神原さんが来た時点で僕個人の勉強は終わりだということ。
だが、そんな懸念も杞憂で、三十分経っても彼女は現れなかった。
想像以上の能力を発揮した僕は二教科分の復習を終えた頃合いで、小休憩として時計を確認して、時間の経過を実感する。だというのに、僕の正面には誰の姿もない。
「遅い。まさか、また逃げたのか?」
可能性としては充分にあり得る。まさか、昨日の今日でやる気になるわけもない。であれば、同様に逃げようとしてもおかしくはない。
「実は何か連絡があったりは……」
と、スマホを確認しようとしたところで静かに図書室の扉が開く。いつの間にやら、周辺の席にちらほらと人が座っているのを鑑みるに、この時間に訪れる人物の心当たりは僕にしかない。
「ずいぶんと遅かったね」
「あ、うん。ちょっと、ね……」
らしくない曖昧な笑みを浮かべながら、彼女は僕の正面に座る。いつもの位置。初めて会った時と同じ位置。
そんな彼女の位置からも見えているはずの教科書類。にもかかわらず、彼女は一向に何かを出す気配がない。むしろ───
「今日は何の話しよっか?」
少しでも勉強を先送りにしたいのか、いつも通りと言うべきな他愛のない話を始めようとする。
「じゃあ…まずは、勉強の話でもしようか。とりあえず、教科書とノートを出してもらってもいい?」
が、それを僕が許さない。というより、彼女が言ったんだ。明日から本気出す、と。まぁ、それとは関係なく勉強は続けているけど。
「べ、勉強ね。じゃあ、教科書を……を?あれ?」
と、今度はまた別の問題が顔を覗かせる。決して大きいわけではない鞄を探る彼女の手は止まり、首がこてんと横に傾げる。この反応はまさか…
「教科書を置いてきた、とか言わないよね?」
「あー…あはは……」
またしても曖昧に笑う。ここへ来た時からだが、今の彼女には妙な違和感を覚える。ただの勘違いかとも思ったが、この誤魔化すような笑い、少しぎこちなく不自然な言動。最初に僕に話しかけてきた勢いはどこに行ったのか、今の彼女は
───危うく見える。
「何かあった?」
彼女になにがあろうと僕にはどうでもいい……はずだ。なのに、どうしてこんなことを聞いてしまったのか。今は勉強のこと優先すべき、そんな考えがあるにもかかわらず。
「何かって、なに?」
「分からないから聞いてるんだよ。今の神原さんは、少し…変だ」
「そんなことないよ」
「いや、あるよ。短い付き合いで、友達のいない僕でも分かる。今の神原さんは…別人みたいに見える」
「……」
否定する彼女の言葉を否定しても、それを否定する言葉はなく、当の彼女は俯いたまま何も言わない。言わないが、それが答えだろう。
本当に何もないのであれば、ここで言い訳の一つでもするはず。そうしないのは、言えない、言いたくない何かがあるということ。ただ、今の僕にそれを問い詰める覚悟も、関係性もないが、このままでは勉強どころではなくなってしまう。どうにか、その事態は避けたいと思う。
「教科書、取ってくるね」
彼女はそれだけを言い残し、足早に来たばかりの図書室を後にする。
これもまた、違和感がある。今朝のように朗らかな風の彼女であれば、残す言葉はたった一言ではなかったと思う。
それに僕はまだ見ていない。今朝以降の、曖昧ではない、彼女らしく笑う顔を。
「まったく…なんで僕はこんなことを……」
自分でも分からない。彼女がいなくなれば、一人で復習する時間ができる。にもかかわらず、僕は握っていたシャーペンを、押さえていたノートを放り出し、立ち上がる。
どうしたってこのままではいられない。目の前であんな顔をされては、気になって勉強に集中できるわけがない。
「そもそも、勉強を教えるって約束したんだ。神原さんがいなければ、それは叶わない。だから……」
誰に対してかも分からない言い訳。もしかすると、自分に対しての言い訳かもしれない。彼女を追いかけるための、意味のない言い訳。今の僕が持つ感情に対して、何の効力もない言葉。
だから、僕は彼女の後を追う。言い訳なんて意味がない。初めて彼女に会った時に抱いた感情とは変わった今を抱きながら。
追いかけ、駆け出した放課後の校舎は、まだそれほど時間は経っていないものの、人の往来がほとんどない。すれ違うのは三人の大笑いしている女子生徒だけ。彼女もあんな風に笑ってくれれば……いや、なんとなく違う。あの女子生徒とはまた違った形で笑って欲しい。なぜか、そう思う。
この様子であれば、彼女を探すのも簡単そうだ。それに、教科書を取りに行ったのだから、向かう場所も決まっている。彼女が五組であることは知っているが、念のため全ての教室を覗いてみることにする。もしかすると、そのどこかにいるかもしれない。
僕のクラスでもある一組。ここは彼女のクラスではないが、可能性がないわけでもない。が、いない。彼女に限らず誰もいない。
次いで二組。ここにもいない。他のクラスというのを初めて見た気がするが、見た目はそれほど変わらない。だが、そのクラスの空気みたいなものが違うように感じる。
文化祭の時に、彼女に連れられて学年を問わずに、様々な教室を回ったが、あの時ともまた違う。お祭りの様相がなければ、楽し気な空気もない。
まさか、彼女を追って今ままで知ることのなかったものを感じることになるとは。彼女と関わると、知らなかったことを知る機会が増える。他人のことも、学校の雰囲気も、自分のことさえも。
感じたことのない空気を纏いながら次の三組へ。そこでも彼女の姿はない。そして、前の二クラス同様、誰もいない。
まるで人払いをしたかのように誰もいない。普段、他の教室に行く機会なんてない僕だから、ここまで人がいないことに少し驚いている。
驚いているが、目的の人物もいないのでさっさと次の教室へ。
「ん?」
だが、そこで僕の目にあるものが映る。見慣れたもの…ではないが、つい最近見たもの。それが何か、どこにあるのか、どんな状態なのかを認識した瞬間、僕の心の中で何か得体のしれないモノが蠢いた。
この感覚は前に似たモノを感じたことがある。今探している人物、神原 春留の名前を初めて聞いた時。あの瞬間に感じたモノに似ている。似ているが、その重さは、その暗さは、その比ではない。もっと真っ黒な色をした不愉快なモノ。
いや、違う、勘違いだ。似ていると勘違いをしている。知らない感情を似ているからと、知っているものと結びつけてしまった。僕が早合点したに過ぎない。
これは、今僕が抱くこの感情は変えようのない負の感情だ。彼女の名前に抱いた、抱いているそれとは、まるで違う。
自分でも分からない。どうして、ここまでの激情に苛まれるのか。どうして、あれをした人物にここまでの感情を覚えるのか。分からない。
分からないが、これは彼女にとって、とても大切なもので必ず返さなければならないものだということは分かる。たとえ、どんな状態であろうとも。
……
「神原さん」
僕の声は自分でも驚くくらいに声音が低く重くなっていた。普段の僕がこの声を聞いても、自分の声だとは思わないだろう。そして、こんな声が出ることは、この先あと一度くらいしかないと思う。
気の利かせられない心情の僕が声をかけた彼女は、結局のところ最後の五組にいた。僕の声が聞こえていないわけではないと思うが、彼女は応えることも振り向くこともしない。ただじっと、綺麗に並ぶ机の一つ、その一点を見て、立ち尽くしていた。
彼女が何を見ているのか、僕の位置からは見えない。彼女がなぜ立ち尽くしているのか、僕はその理由は聞いていない。でも僕は、彼女が何を見ているのか、なぜ立ち尽くしているのか、その両方に心当たりがある。僕が今包み持っている彼女の大切なもの、それが答えだ。
「神原さん、これは返すよ」
僕は握っていた手を広げ、中のものを彼女へと差し出す。
「っ!?…どう……して…?ど…どうして……お、大崎くんが……持ってる…の…?」
やっと振り返った彼女は、その綺麗な顔を零れ落ちる涙で滲ませながら、嗚咽混じりの拙い疑問を口にする。そんな顔を見てしまったから、僕の中で何かがより黒く大きくなるのを感じた。
「たまたま見つけたんだ。神原さんにとって、これは大切なもの。そう言ってたから」
「うん…。覚えてて……くれたん…だね」
彼女は震える手で、僕の掌からそっと掬い取る。瞬間、再び、もしかすると三度、彼女の顔は見えなくなる。覆い隠してしまうんじゃないかというくらいの涙を流しながら、彼女は大切な物をぎゅっと抱きしめる。
「あ、り……が…とう。ありがとうっ…!」
心の底からの言葉を尽くされようとも、僕の心は晴れない。それに、感謝されるようなことなんて出来てない。彼女を追いかけたら、偶然見つけたに過ぎない。そして、それが彼女にとって、とても大切だということを彼女が言ったのを覚えていただけ。昨日も今朝も聞いた、覚えていてもなんらおかしくない。
そう、僕が彼女に返したのはハンカチだ。彼女が持っていた淡い水色のハンカチ。綺麗な刺繍がされた、お母さんから貰ったという大切な。
だが、その綺麗だったハンカチは今や見る影もない。ずたずたに切り裂かれ、執拗に汚された跡、ハンカチの一部は完全に切り離されてさえいる。彼女はその一部をじっと、涙を流しながら見ていた。
彼女の言動がおかしかったのは、このハンカチが原因だ。落ち込んでいたように見えたのは、大切なハンカチを失くしてしまったと思っていたから。
そして、ついさっき、失くしたと思っていたハンカチは見つかった。考え得る限り、最悪のかたちで。
彼女はハンカチを失くしたのではなく、何者かによって盗られたのだ。そして、無惨にも今の状態にされた。誰によって、どんな理由でこんなことが起こされたのか、僕には皆目見当もつかない。
彼女のように涙が出るわけでもない、その何者かにやり返したいとも思わない。だけど、彼女のあの想いと、この涙を見ていると、得も知れない感情がどこからか湧いてくる。
けど、今はそんな顔も名前も知らない誰かより、目の前いる彼女に手を差し伸べなければならない。そうするべきだと思う。
「これ、使って」
「え…?」
取り出したのは今朝、一度行き場をなくした僕のハンカチ。あの時は断られてしまったが、今度は受け取ってくれるだろうか。
「そんな顔じゃあ、外を歩けないでしょ。好きに使っていいから。顔を拭くなり、鼻水拭くなり」
「ありがとう………っ……」
止まっていた涙がまたしても溢れてくる。段々と心配になってきた。このままでは体の水分がなくなってしまうんじゃないかと。
今度は僕の申し出を断らず、差し出したハンカチは彼女の手に渡る。
未だにぼろぼろと零れる雫を拭う彼女に、どんな言葉をかければいいのか分からない。分からないから、とりあえず一人の時間を作ろうと教室を出ようとする。一人であれば、大泣きこそ出来ないにしても、誰に憚られることなく涙を流せると思ったから。
けど、一歩踏み出したところで、後ろから誰かに制服の袖を掴まれる。いや、誰かなんていうのは明白だ。
涙でぐちゃぐちゃの顔を拭くのもそこそこに、彼女は僕の渡したハンカチを持ったままの左手で僕の服を掴んでいた。
「ひ、一人にしないで…っ!まだ…傍にいて……ください…」
泣きはらしたその顔は俯き、隠せていない両の耳が真っ赤に染まって、彼女の心情を僕に伝えてしまっている。
まだ、涙は止まっていない。俯いているせいで零れているが、ハンカチを持つ左手は僕を掴んで離さない。それにしても、なぜ最後は敬語なのだろうか。
「わかった。泣き止むまでは一緒にいるよ」
「ありがとう…」
……
それから僕たちは、教室の一番後ろで壁を背にしながら座り込んで時間を過ごした。
僕の服の袖を掴んでいた彼女の手は、なぜか服ではなく僕の右手を掴む形に変わった。いくつもの泣き跡ができた頬を僕のハンカチで拭い、ぐずぐずになった鼻をこちらはティッシュで拭き取り、鼻をすすっている。
整っていた彼女の顔は、今や泣き腫らした目元のせいでずいぶんとひどい有様だ。これでは、明日にも引きずるかもしれない。
日が暮れ始め、赤く染まっていた教室内が暗くなるほど長く、僕たちはその場を動かなかった。彼女が立ち上がるまでは、僕もその手を離すことなく傍に居続けた。泣き止むまで一緒にいるとは、そういう意味だと思うから。
その間、彼女には何も聞かなかった。気にならなかったわけではない。でも、何か聞くにしても今ではない。それくらいは友達のいない僕にだって分かる。
彼女が落ち着き、言葉を紡ぎ始める頃には、時刻は十八時になろうとしていた。
「ありがとう、大崎くん。本当に…」
「僕は何も。ただハンカチを貸しただけ」
「あ、そうだ。このハンカチは洗って返すね。このままは…さすがにね?」
「じゃあ、それでお願い。別に急いで返す必要はないから。それより…」
僕の視線はもう一つのハンカチに注がれる。大切に彼女の膝の上に置かれたそれは、もう本来の役割を果たせそうにない。
「私のハンカチ?大丈夫だよ。あれだけ泣いてるところを見られたから信じられないかもしれないけど、本当に大丈夫。こうなったのはとっても悲しいけど、大崎くんがいてくれたから」
そう言って、彼女は繋いでいる左手をよりぎゅっと、確かに握る。そして、紛れもなく笑った。
図書室で見せた曖昧でも誤魔化すでもない、今朝に見たものと同じ笑顔。やっと、笑ってくれた。そう思うと、僕の中で引っ掛かっていた何か、その一つが解ける。
散々泣き腫らした目元はまだ治っていないが、彼女は自分のハンカチだけをポケットに仕舞い、立ち上がる。繋がっている右手を引っ張られる形で、僕もつられて立ち上がる。
「もう大丈夫?時間を気にしてるなら、その必要はないから。僕に門限なんてものないし」
「大丈夫。時間を気にしてないって言ったら嘘になるけど、でも大丈夫。あ…だけど、この手はもう少しだけこのままでもいいかな?」
「好きにすればいいよ」
相手が彼女であれ、ここで手を振り払うほど僕は薄情ではない。ただ、こうして手を繋いでいても、内心焦ることも緊張で手汗が滲むこともないのは、少し色が薄いかもしれない。もう少しくらいは、青く色づいてもいい気がする。
……
彼女の希望通り、繋いだ手をそのままに僕たちは誰もいない校舎をゆっくりと歩いている。向かう場所は言うまでもなく、色々とほっぽり出してきた図書室。
本来であれば既に閉まっている時間ではあるが、司書の先生も彼女のあの表情を、僕のあの行動を見ていたはずだから、まだ戸締りはしていないと思う。というか、そう思いたい。じゃなきゃ、僕は家に帰れなくなる。家の鍵や財布も含め、全ての荷物を置き去りにしたのだから。
そう考えると、少しばかりは焦る気持ちがある。だけど、今隣を歩く彼女を急かしてまでとは思わない。司書の先生には悪いが、今の僕の優先順位は彼女のほうが高い。もう帰っていたら、僕が一晩野宿すれば済む話だ。
そう遠くない場所に図書室はあるが、今はゆっくりな歩調と寒くなるほどの静けさも相まって、時間そのものが遅くなり、遠くなっているように感じる。
ゆっくりと廊下を渡る。一歩ずつ二人の歩調を合わせて階段を下りる。その先の廊下をとても長く感じながらも、僕は、僕たちは何も話さず、ただ掌だけを重ね合わせていた。
図書室に着いたのは、周りの景色が一段と夜色になった頃だった。幸いにして、司書の先生は事情を察してまだ残ってくれていた。これで今日の野宿は回避された。
だが、手を繋いでいる僕たちを見るや否や、聞いたこともない嬌声を上げたかと思えば、泣き腫らした彼女を見て、その目つきはかつて見た刺し殺せるほどの鋭いものへと豹変する。
「大崎くん?どういうことぉ?まさか、あなたがしたとは言わないわよねぇ?」
さっきまでの黄色い声はどこにいったのか。あまりに低いその声に僕は萎縮するしかない。けど、隣の彼女は違う。
「本当にまさかですよ。むしろ、逆です。私は大崎くんに助けられたんです。本当に、本当に…」
僕を庇うその声が聞こえると共に、握られた手がまたぎゅっと強くなる。また少し涙ぐんではいるが、今は大丈夫だ。微笑みを向けてくれる彼女を見ればそのくらいは分かる。
「そう?それならいいけど。もうこんな時間だから理由は聞かないから、早く荷物を持って出なさい。鍵かけるから」
「はーい」
僕も彼女も自分の荷物を片づけるために、ここで繋いでいた手を離す。名残惜しさを誤魔化すように笑う彼女だが、その笑いに無理はない。この場合の「無理はない」はぎこちなさがないだけで、誤魔化せているという意味ではない。頬も耳も赤く染まり、触れていた手はとても熱かったのだから、誤魔化せるわけがない。
僕たちが荷物を持ち、図書室の外で司書の先生を待っている時、僕の右手に離れていた彼女の手がもう一度近づいてきた。もう甘えるように手を繋いだりはしないと思っていたが、そう考えていたのは僕だけだったらしい。
「いいでしょ?好きにしていいって言ったのは大崎くんだし…」
確かに言ったが、一度離してもなお、わざわざ繋ぎ直していいという意味で言ったわけではなかったんだけど。
「はぁ、本当に…。好きにすればいいよ」
「ありがとう」
くしゃっとはにかんだように笑う彼女を見れば、僕の放った言葉の意味なんて後付けでも何でもいいと思える。
「はいはいお待たせ~。ちゃんと手を繋ぐ時間は取れたかしら~?充分ね~?」
扉越しに聞いていたのか、そんないらぬ気遣いをしていたらしく、頃合いを見計らって出てくる。
「あ、ちなみに大崎くん」
「はい」
いらぬ気遣いをした直後。またもや、お節介が炸裂するのかと思ったら──
「先生は電車通勤なので、二人を送ってあげられません。なので、大崎くんが責任を持って、神原さんを自宅まで送ってあげてください。わかりましたか?」
「……」
その通りだった。この人が電車通勤なのは本当だろうけど、わざわざ彼女にも聞こえるように僕に頼むとは。彼女が万が一にでも一人で帰るとか言い出さないように、予め釘を刺しにきた。本当にいらぬ気遣いだ。
「そのつもりです」
「そっかそっか。それはよかった、ね?神原さん」
「は、はい!その……よろしくね?大崎くん」
「はいはい…」
そうして僕は、いつもとは違う帰り道を、いつもはいない人と一緒に帰ることになった。
ほとんど通ったことのない道、知らない家、知らない店。そんな、僕にとって未知の場所を彼女と並んで、手を繋ぎながら歩く。
十一月の夜。外気に晒される肌が全面で寒さ感じるようになってきたが、今は違う。繋いでいるのは、触れあっているのは掌だけ。ほんの一部にもかかわらず、そこから伝わる体温は僕の全身を包み、寒さをもろともしない。
僕がそうであるように彼女もそうなのか、それを確かめるような真似はしないが、しなくともわかってしまう。伝わってくる熱がさっきよりも熱いのは、寒さで熱に過敏になっているからではないだろう。
二人並ぶ帰り道。ぽつぽつと灯る街灯。聞こえるのは家々から覗く団欒の声だけ。とっぷりと暗くなった道を、僕たちはここでも無言のまま歩く。
そんな静寂を破ったのは、彼女のほうだった。
「大崎くんは…何も聞かないの?」
「……なにが?」
わかってはいる、その質問の意図を。わかっていながら、とぼけた。結局、彼女がどんな形で質問しようとも、僕は同じ答えをするだろうけど。
「私になにがあったのか」
「言いたくないなら、無理には聞かない。言うか言わないかの判断は神原さんに任せるよ。僕は、このまま何の説明もなくたって構わない」
全く気にならない…というわけではない。誰が、どんな動機で、あのハンカチに手をかけたのか。気になる点はいくつかある。
けど、それは僕の事情であって、彼女の事情ではない。そんな僕の身勝手で、彼女を苦しめる必要はないだろう。
だから、彼女が説明したいと言うのであれば聞く。そういう形をとった。そもそも、彼女自身も事の顛末を把握しているかは分からない。
「ありがとう。聞いてほしくなったら話すね。もしかしたら、一生言わないかもしれないけど」
「そうなったら、僕は一生待たなきゃいけないのか」
くすりと笑った彼女の反応があったきり、僕たちの間に会話はなかった。彼女の家に着くまで、また無言の時間が続いた。それでも、彼女は強く握った手を離すことはなかった。僕としても、温かさが伝わって、寒さを凌げるからちょうど良かった。
彼女の家の前に着き、立ち止まっても彼女は手を離そうとしなかった。僕は既に緩めたが、彼女は未だに強く握っている。これでは彼女も家に入れないし、僕も帰れない。
「神原さん?」
「っ……」
全く動こうとしない彼女の背中を呼びかけると、弾かれたようにぴくっと反応がある。
「家に…着いたんだよね?入らないの?」
立ち尽くす家の表札を見てみれば、しっかりと「神原」の文字がある。同じ苗字の違う人の家、というわけではないのなら間違いなくここが彼女の家だ。見たのは一度だけだが、僕の記憶にある彼女の家と一致する。
にもかかわらず、なぜかこれ以上進まない。ここまで順調に歩いてきたのに、あと一歩のところで止まってしまった。
「そ、その……!」
どういう訳か、第一声は見事に声が裏返った。続く言葉を待つが、羞恥からか耳まで真っ赤にしてるのが、肩越しにもわかる。
「な、中でちょっと休んでいきませんか…?」
またしても、なぜか敬語。というか、なんだ休むって。意味が分からない。これを機に彼女の家族とも仲を深めましょうって?冗談じゃない。どうして僕が知り合ってひと月ほどの人の家に入って、その家族と話さなきゃいけないんだ。そんなこと、するわけがない。
出会ってすぐの段階で彼女を家に招いた僕が言えた義理ではないかもしれないが、あれはお互いに勘違いしていた節があったからであって、今の彼女も僕もそうではない。理解したうえで言っている。
「いやいやいや、なんで?中に神原さんの家族いるよね?明かり点いてるし。普通に嫌だよ、いきなりそんなこと」
確かに、色々あって疲弊はしている。でも、だからといって、他所の家で一休み──とはならない。疲れているとしても、そんな状況では休める気がしない。
「そっか…」
そんな悲しい顔されても困るのは僕の方だ。傷心しているから大概のことには目を瞑ってきたけど、これはさすがに頷けない。今度は僕が疎外感から傷心してしまいかねない。
「今日はありがとう。……じゃあ、またね」
「また、学校で」
別れの挨拶を交わす。瞬間、離れる手を悲しむような、惜しむようないたいけな表情を見せる。だが、微かに笑うだけで彼女はそれっきり、家の中へと帰っていった。
最後まで、扉が閉まるその最後まで見届けて、僕は来た道を戻る。
いつもと違う道。いつもと同じで一人。寂し気に照らす街灯の下を歩く。
右手は離れた寒さを紛らわすため、暖かさを求めてポケットの奥へと仕舞いこむ。
少し寒くなった帰り道を思いながら、今日を顧みる。
「勉強、し忘れたな」
授業を聞きそびれたことを思い出す。半分も復習できなかったことがひどく悔やまれるが、あの時、あの瞬間、飛び出すように追いかけてよかったと思う。これはただの自己満足かもしれない。だけど──
何度も聞いた「ありがとう」を思い出す。頭の中で何度も反芻する。その言葉で暖かくなる。思い出す、離れてしまったあの暖かさを。
自然と空を見上げてしまう。夜の空には多くの星が煌々と輝いている。
だが、そんな光り溢れる彼らからは見えないだろう。そして、僕自身も気づかないだろう。微かに、ほんの僅かに僕が笑ったことに。
シリアスは難しい。