ハル、訪れた一週間(その一)
さくらのことをしるまで
僕は自分の名前が好きではない。どちらかと言えば、嫌いに近い。それ故に三月や四月、いわゆる春という季節が苦手だ。この季節になると、否応なしに嫌いという深く刻まれた感情を浮き彫りにさせられる。
街ゆく人は、華やかだと、綺麗だと口にするが、僕は一年という期間の中で春が来なければいいのにと、いつも考える。考えるけれど、そんな僕の意思なんて気にすることも、気づくこともなく春はやって来る。
名所だなんだと、どこに行っても目につく、その綺麗だという花をこれでもかと咲かせ、その散り様を、散ってからも人々の目を心を楽しませる。一季節の一時とはいえ、これだけ長い期間も影響し続けるなんて、僕からしてみれば迷惑でしかない。何かの嫌がらせなのかとさえ思えてくる。
だから、そんな季節が過ぎ去って、うだるような暑さの夏が来ることを僕は喜ばしく思う。世間一般としては、暑いだけの夏の方が来てほしくはないかもしれないが。
良くも悪くも季節は巡る。僕としては、暑すぎず寒すぎず、そして春でもない季節であり続ければいいのにと思う。だから、過ごしやすく、何の憂いもない季節である秋が僕は好きだ、と常々思っている。
そして、今。季節はそんな秋に向かって進んでいる。
春の入学式が終わり、初めましての顔ぶれが揃う教室で、彼らは皆一様に友達を作ろうとスマホを片手に教室内を、ないしはクラスを超えて練り歩いている。
かくいう僕は、スマホを持つわけでもなく、渡された教科書に目を通すわけでもない。
窓際、一番後ろの席。ただ、穏やかに吹く風を感じていた。
名前は好きではない。でも、この苗字だけは有難く感じる。多くの場合で、学年初めの席が窓際の一番後ろになるからだ。逆に、一番前になることもあるけど、それならそれでも構わない。誰とも関わろうとしない僕にとっても、クラスの人たちにとっても都合がいいだろう。一切話さない僕が、教室の真ん中にでもいたら迷惑極まりない。
だから、これでいい。これがいいまである。
皆が皆、初めての高校生活を勢いよく始める中、僕は夏が来るまで、夏が来てもなお、誰も彼もが思い描く高校生活を始めていなかった。
季節が春から夏へと変わり始める頃。未だに僕は、窓から吹き抜ける風を感じていた。
頬を撫でる風も、今は暖かいものから少しずつ暑いものへと変化している。だがそれでも、僕はこの季節の移り変わりを喜ばしく思う。窓から風に吹かれてやって来る花びらも、その数を減らしているから。
そして、季節が本格的に夏になった頃。学生諸君には、長い長い夏休みが訪れた。
終業式が終わり、踊り狂うかのようにはしゃぐクラスメートを他所に、僕は一人で学校を後にした。
約一ヶ月の夏休み。僕の予定はほとんどが空いていた。入学とほぼ同時に始めたバイト以外の予定はない。無論───
友達と海に行く!バーベキューを楽しむ!プールで大はしゃぎ!
なんてことはない。ただただ、課された宿題をゆっくりと終わらせるだけ。黙々と、一人で。
そして、また季節は変わる。
十月。夏休みが終わってから早一ヶ月ほど。夏の暑さを忘れ過ぎ去り、僕の好きな秋の季節になる頃。朝晩の寒さに薄手のカーディガンが欲しくなりながらも、日課になりつつある図書室へ、肌寒さに身を震わせながら向かう。
入学から約半年。誰にとっても初めての高校生活とはいえ、六ヶ月もすればクラス内、あるいは学年内での交友関係は出来上がっている。元より出来上がっていた交友関係の延長、気の合う仲間との邂逅、クラスの内外を問わず、青春が構築されていった。だけど、そんな輝かしい青春の中に僕はいない。
今、こうして部活にも入らず、教室に残って誰かと駄弁るわけでもなく、ひっそりと一人で教科書と向き合っている事実が、その証明になっている。
だけど、そんな僕にも過ぎ去ったと思ったハルがやって来た。もう望むこともなく、青く色ずくこともなく、淡々と日々が過ぎると思っていた僕にも。
ただ、僕の元に訪れたのは季節の春ではなく、もっとしっかりと、形のあるハルだった。
「大崎くん……で、あってるよね?」
放課後になってから一時間ほど。他の利用者が数人しかいないこの図書室で名前を呼ばれた。こんなことは、この六ヶ月で初めてだ。
教科書にしか向かなかった視線を上げ、呼んだ人物を視界に捉えるが、その顔には全く覚えがない。真っ直ぐに伸びた綺麗な黒髪を揺らし、特徴的な長いまつ毛が離れていてもわかる。おずおずと不安さを表して揺れている瞳も、その心情とは裏腹に澄んだように輝いている。短い距離を走ってきたかのように僅かに頬を紅潮させているのは、この人の感情が昂っているとでも言うのだろうか。
今、僕が欲しているカーディガンまで羽織っている彼女は、きっと男子生徒から人気があることだろう。初対面ながら不躾かもしれないが、その整った容姿に目がいく。
そんな彼女が一体、僕に何の用なのか。そもそも、どうして僕の名前を知っているのか。どうして、互いに互いのことをほとんど知らないのに声をかけてきたのか。一瞬の内に、疑問がいくつも湧いてくる。だから、口を衝いて出る疑問に委ねることにした。
「えっと…誰?」
「あぁ!そうだった、まずは私から名乗るべきだよね」
声をかけてきた女子生徒は、なぜか佇まいを正して自身の名前を教える。そんな緊張を孕んだ声が発した響きに、僕は思わず反応してしまう。衝撃が走るとは聞くが、まさか自分の身をもってそれを体験するとは思っていなかった。
「私は神原 ハル。春を留めると書いて春留です。あなたと同じ一年生で、図書室の委員会…あ、えっと、つまり図書委員で。その…大崎くん…だよね?」
「そうだけど。その図書委員の神原さんは、僕に何か用があるの?」
質問をされているから答えているものの、この時点で僕は自分でも驚くくらいに気分が冷めていた。その理由は明らかだ。彼女の名前を聞いた瞬間から、本来であれば女子に話しかけられるという事態に慌てふためいていただろう僕の思考には、身勝手な嫌悪が蠢いていた。
ただ、それと同時に僕の名前について言及しないことに、情けなくも安堵している。声をかけてきたのは僕を揶揄するためではなく、他に何かあるのだろう。もしくは、単に僕の名前を知らないか。
「気軽に春留って呼んでくれていいよ?」
「……いや、それは…厳しいかな」
どうやっても、今の僕にこの人のことを名前で呼ぶことはできないだろう。あまりに遅すぎる訪れとはいえ、僕にとってハルは早々乗り越えられるものじゃない。
「それより、僕に話しかけてきたのには何か理由が?」
「あ、うん。…えっとね…ちょっと聞きたいことがあるっていうか…、やりたいことがあるっていうか…」
「なに?」
「ちょっと前のこと…なんだけど…その……」
向こうから話しかけてきたにしては、なんとも歯切れが悪い。一向に話が見えてこない。理由は分からないが、聞くのを躊躇っているようにも見える。
続きの言葉を待っても、話を切り出す気配がない。最初は、こっちが照れてしまいそうになるくらい真っ直ぐに僕を見ていた瞳も、今やその視線は下に落ち、僕ではない別の何かを見ている。
「……勉強?」
「え…?」
「いや、勉強のことで聞きたいことでもあるのかなって。教科書見てるし」
「………………そ、そうっ!勉強!勉強で分からないところがあったから、大崎くんに聞こうと思ってたの!」
数瞬…とは言い難いほどの間が空いた後、首が捥げるんじゃないかと思うくらいに頭を上下させる。実際、ちょっとふらついて机に寄りかかっている。
「分からないことを聞くのは良いことだけど、なんで僕に?ここには他に聞けそうな人がいると思うけど。ここじゃなければ、もっといると思う」
同じ学年とはいえ、クラスが違うから神原…さんの交友関係は計れないが、友達は多い方だと思う。わざわざ、僕という個人に聞いてくる理由が分からない。というか、そういうことは先生に聞くべきでは。
「えーと…その…何と言うか……あっ!ここにいるのは皆、先輩なの。二年とか三年の。一年生は大崎くんだけだから…えと…」
「先輩たちの邪魔はしちゃいけないって思った、と」
「そう。そうなんだよ!さすがに悪いから。…だから……いいかな?大崎くん」
男子の友達ですらいないような僕が、女子と二人で勉強を教えるなんてこと、普通であれば不可能だ。緊張と自惚れで、それどころではなくなる。けど、相手が彼女──神原 春留ならその限りではないかもしれない。僕にとって、その名前の印象は良くも悪くも大きい。
「僕なんかでよければ。上手く教えられるかは分からないけど」
「あ、ありがとう。じゃあ、早速今から───」
今から、という言葉通りに彼女は座ろうとする。だが、一体どういう意図なのか──いや、どんな意図もないのかもしれないが、彼女は僕の横の椅子を静かに引く。勉強を教えるって、まさか横に座ってやるつもりなのだろうか。
そんな、僕の中では危機的状況を、彼女の今日の仕事が遮る。
「神原さん、お静かに。あと、委員会の仕事をしてください」
「え…?あ!ご、ごめんなさい!すぐに戻ります」
図書室の奥、図書準備室から司書の先生が顔を覗かせていた。そういえばそうだ、彼女は最初の自己紹介で図書委員って言ってた。そして、それは今日のことでもあったらしい。
委員会の仕事をサボってまで教えを乞うなんて、それだけ成績が切羽詰まっているということなのだろうか。何かを教えるより先に、彼女の現状の学力を把握しておくべきかもしれない。……と、どうしてか、僕は始まってもいないのに、先のことを考えている。一体全体、どうして僕はこんなにもやる気になっているのか、自分自身のことながら全く分からない。
「じゃあ、この続きは委員会の仕事が終わったらでいいかな?」
「いや、今日のところは僕も帰るよ。続きは委員会が無い時にでも。じゃあまた」
「え?ちょ、ま…お、お預け…?」
「犬みたいのこと言ってないで、早く戻った方がいいと思うよ。ご主人様…じゃなくて、司書の先生が睨んでるから」
奥の部屋から覗く眼光があまりに鋭い。向けられているわけではない僕まで竦んでしまうほどだ。彼女がこの眼光に怯まないのは、日々の行いゆえに慣れてしまったからかもしれない。彼女の普段の態度は知り得ないが。
「わかった…。でも、今度ね?今度は教えてね?」
「僕はいつもここにいるから、また放課後にでも」
「知ってる!じゃあ、また明日ね」
どうやら、僕がいつもこの図書室にいることはバレているみたいだ。まぁ、図書委員なら知っていてもおかしくはない。既に何度も僕の姿は見ているのだろう。だから、僕のことを知っていたりする。
手を振って戻っていく彼女をなんとなく見送りながら、教科書やペンケースを鞄に仕舞って静かに図書室を後にした。
僕が出ていくその最後まで、彼女は司書の先生に小言を言われていた。その言葉に強い語気は感じない。怒るというより呆れるに近い。そんな彼女もまた、毎度のことなのか反省の色は見えなかった。
「また明日…か。──あ」
そういえば、彼女のクラスや連絡先を聞きそびれた。聞きに戻ろうかとも思ったが、あの怖いご主人様──もとい、司書の先生がいること、委員会の仕事の邪魔になること、なにより今後も図書室に行けば自ずと彼女に会うことになる。色々と理由をつけて、その踵は返さないことにした。
聞いておけば便利なこともあるかもしれないが、そもそも用があるのは僕ではなく彼女の方であって、僕は勉強を教えても教えなくてもどちらでもいい。何か不都合があるとすれば、彼女の方だ。僕じゃない。
だから、今じゃなくていい。それに、僕の方から言ったらまるで僕が知りたがってるみたいで癪でもある。
それに、僕が自ら関わりたいと思うわけがない。僕の苦手とする季節の名をした彼女、神原 春留と。
……
そう僕は思っていない。だが、当の彼女は違うらしい。
なにも言わないからだが、僕の考えなんて知る由もない彼女は顔を合わせた次の日に、早速来た。
春一番かのような勢いでやって来る彼女と、僕はまた会った。いや、その約束をしたわけだから会うのは当然なんだけど。
でもまさか、放課後になってすぐに僕の教室まで来るとは思ってもみなかった。教室の空気を搔き乱すように視線を巡らせる彼女に、僕は見つかってしまう。
そんな春風のように颯爽と現れた彼女が僕を呼べば、当然クラスは騒然とする。クラスに友達と呼べる人物など一人もいない僕が、どうして彼女に呼ばれるのか、という視線が飛んでくる。視線だけで、言葉そのものは飛んでこない。僕に友達はいないから。
これで僕の考えの一つが肯定された。やはり、彼女はクラスの内外を問わず人気者ということ。同じクラスの男子が懐疑と嫉妬、羨望の入り混じった感情を突き刺してくるくらいには顔が知れているようだ。
その視線にのった感情を察して、少しの優越感が湧いてくるが、その相手が彼女であることを思い出して、そのほんの少しの優越感も僕の中では霧散する。彼女でなければ、この感覚は大きく膨れ上がっていただろう。心の中は舞い上がって、小人が踊っていたかもしれない。
そんな気分の上がり下がりがあった僕を、彼女は教室の入口から手招きしている。僕を呼びながらも、クラスの女子から何事かと問い詰められている彼女の眉は困った様に八の字に曲がっている。
僕を呼んだことにより、彼女の周りには多くの人が円を作り逃がすまいと質問攻めにしている。だが彼女も、僕が動き出したのを見ると、隙間を縫うように抜け出そうとするが取り囲む人たちはそれを許さない。というか、僕の周りには一人も集まってこない。わかってはいたが、これが今の僕の交友関係を表している。
結局、彼女がどうやって抜け出したかはわからないが、合流は昨日と同じ図書室になった。先に座っていた僕の対面に、疲れた様子で腰を下ろす。
「大変だったぁ~、皆して大崎くんのこと聞いてくるんだよ?人気者なんだね、大崎くんって」
「人気なのは僕じゃなくて、神原さんだけどね。僕なわけがない」
冗談なのかそうでないのか、これは冗談だとしても自分の人気の高さを自覚してなさそうではある。だからこその、あの行動だろう。
「いやいや、大崎くんは中々の人気だったよ」
「どうしてそう思うわけ?」
「だって、皆が『あの暗い大崎くんと何かあったの?』とか、『友達がいないのを見かねた?』とか、『まさか付き合ってるの?』って、みんな大崎くんのこと知りたがってたから」
「それ、知りたがってるわけじゃないと思う。仮にそうだとしても、僕のことではないね」
「そうかなぁ?」
クラスメイトが抱く僕の印象はともかく、あれだけで付き合ってると思うとは…。彼女もそうだが、クラスの連中もどこか頭のネジが抜けているのかもしれない。今後、また同じようなことが起きる前に、彼女には釘を刺しておこう。できれば釘ではなく、彼女の頭にネジが一本欲しいところだけど仕方ない。
「神原さん。今後は教室に僕を迎えに来るなんてしないでね」
「どうして?」
「今日みたいなことになるから。ああいうのは面倒でしょ?」
「でもでも、私か大崎くんに急用ができたらどうするの?連絡は…あ!連絡先、交換しよっか?」
あまりに自然に会話の中に織り交ぜてくる。人と関わる能力に長けている人は、こうも簡単に自然に、僕が躊躇って出来なかったことをしてみせる。これが彼女が人から好かれる理由の一端なのかもしれないと納得せざるを得ない。
「僕もちょっとは見習わなきゃかな…」
「ん?なに?連絡先、交換しないの?」
「いや、しよう。しとこう。その方が色々と便利だからね」
「じゃ、スマホだーして!はい、これ私の。読み込んで!」
スマホを取り出すと、慣れた手つきですぐに交換の準備を整える。かくいう僕は家族とバイト先以外の連絡先を知らないので、あたふたと操作を誤ってしまう。画面を行ったり来たり。そんな僕を見かねた彼女がわざわざ机を周り、僕の隣に腰かける。
すぐ隣、少し動いたら肩が触れ合ってしまいそうな距離。彼女が人と接する距離はこんなにも近いものなのか。思わず、僕は少し体を引いてしまう。
「スマホ貸して?教えてあげる。高校生にもなってスマホの使い方も分からないの?」
「スマホの使い方は分かる。ただ、このアプリの使い方が曖昧なだけで」
「同じことだと思うよ~?ほら、ここ見て。このカメラマークを押して、それで相手の画面を読み取るの。簡単でしょ?」
僕のメッセージアプリに新しい連絡先が追加された。この約半年の高校生活で初めて。
「じゃあ、次は私の番ね。………うわっ、大崎くん。アイコンなんにも変えてないじゃん。そのままって…」
僕のプロフィールを見てなんとも言えない表情をしている。そういう彼女は友達との自撮り写真をアイコンにしている。こんなところでも、僕と彼女の差が垣間見える。
「変える必要ないかなって。何に変えればいいかも分からないし」
「何かないの?自撮りは…ないとしても、お気に入りの風景とか」
「ないよ。風景どころか、写真なんて一枚たりともないから」
「うそ…。今時、そんな人いるんだ…」
そんなに驚くことだろうか。僕のスマホは買った時から変わらず、写真フォルダの中には一枚の画像もない。真っ新な状態だ。
「う~ん……あ!折角なら、私とのツーショットにでもしとく?何かの記念ってことで」
「しないよ!するわけないだろう。他の人に見られたら大変なことになる」
「でも、見られて困る相手がいるの?私の他に、学校の人の連絡先はないみたいだけど…?」
未だ彼女の手にある僕のスマホは、その個人情報をさらけ出していた。見られて困るようなもの特にないが、他人に見られるという行為が快くはない。
「その数少ない相手に見られたくないって言ってるんだよ。特に、親に知られたら何を言われるか想像に容易い」
「別にいいじゃ~ん。一枚くらい」
「よくない。終わったなら返して」
「はいはい………でも、その前に───」
「なっ!?ちょっと!」
僕に返されると思っていたスマホは、そうはならずに伸ばした僕の手を躱す。掴めると思っていた僕は大きく体勢を崩し、最初から近かった彼女との距離がさらに縮まる。これでは僕たちの距離はほとんどゼロだ。
「はい、チーズ!」
パシャリ!
そんな瞬間を綺麗に捉え、彼女は撮影した。右手に持った僕のスマホで。
「はい、良い感じに撮れたよ。それをどうするかは大崎くん次第。アイコンにするもよし、家に帰って密かに喜ぶもよし、誰かに自慢してもいいかもね?」
「どれもしないよ。消す」
「ぬぇー!折角撮ったのに消さないでよ~。せめて、私にも送ってから消して?私も欲しいな~、その写真」
悪気など微塵もない笑顔で、僕にスマホを返してくる。写真が欲しいと言いながらも、自分で送らないのはなぜなのか。どうして、僕にその行為を委ねるのか。僕がこのまま写真を消してしまうとは思わないのだろうか。
「ね、送って?はーやく」
手渡されたスマホを受け取ると、その画面いっぱいに今しがた撮られた写真が映っていた。笑顔に加えてピースまでしている彼女と、驚いて目も口も開いている僕が。今までも写真を撮られたことはあるけど、こんな顔は初めてだろうな。
「もう消した」
「えぇー!なんで?なんで?なんで消しちゃうのさ~、もう一回撮ろ?」
本気で悔しがっているのか、僕のスマホを軽々と奪い取ってしまう。だが、その画面を見て首を傾げる。
「あれ、消してないじゃん。もぉ~、嘘吐かないでよ。はい、今度こそ送って」
再び、僕の元へと何の操作もされずに戻って来る。消していない写真もそのままで。
「神原さんは僕がこの写真を本気で消すとは思ってないの?ていうか、そんなに欲しいなら自分で送ればよくない?」
「消すの?」
「……」
「どうしようとも自由とは言ったけど、大崎くんはそんなことしないと思ったから。それに、本当に消したら私はすごく悲しいよ。あとあと、私が自分で送るのと、大崎くんが送ってくれたのとじゃあ全然違う!」
「……はぁ、分かったよ。送ればいいんでしょ」
「うん!よかったよかった」
何がどう違うのか分からないが、どうやら僕は諦めるしかないらしい。彼女のその強引さに僕は負け、その功名な仕草に負けた。これも彼女の魅力の一つなのだろうか。僕は、いつの間にか近くなっていた彼女との距離に気づかなかった。
この一枚の写真、初めての写真。誰かに見られでもすれば僕は悶絶し、見た者は怒り狂う気がする。それが男子なら特に。とはいえ、僕は誰にも見せないし、そんな相手もいない。彼女はこんな写真を見せびらかす人ではないだろう、きっと。
「お!きたきた。……この写真、新しいアイコンにでもしようかな」
「………冗談だよね?」
いや、それは僕の勘違いかもしれない。教室で僕を呼ぶほどだ、そうしても何ら不思議ではなかった。だが、それは僕の今後の学校生活に関わってくる事案だ。絶対に阻止しないと僕が困る。
今後、彼女といるとこうして僕の写真フォルダに色々なものが保存されていくのだろう。この写真はその一枚目に過ぎない。いつからか、その枚数を数えなくなり、面倒な問答もなくなるのかもしれない。
だけど、それもいいと思う。彼女がこんな出来事一つでこうも一喜一憂しているのだから、しばらくは好きにさせておこう。
そう───
彼女が、僕のことを知るまでは。