バルトロマイの悩み
「いったい何を描けばいいのか、よくわからなくて――」
そういえば、と思い出す。元夫は私の絵ばかり描いていた。
もしかしたら、人物画しか描かない人なのかもしれない。
先ほど彼が口にしたモデルの中に、人の絵はなかったはずだ。その点に気付いたので、提案してみた。
「でしたら、人物画を描かれたらいかがですか?」
「人を、描くのか?」
「ええ」
「いったい誰を描くというのだ?」
「それは、ご友人とか、ご兄弟とか、ご両親とか」
執事や従僕でもいい。とにかく、人が題材ならば、どこにでもモデルはいるはずだ。
「なるほど。誰でもいいのか」
人物画を描いたら、きっと彼の心も穏やかになるはず。
前世でも、私を描くときの元夫は、とても優しい微笑みを浮かべていたから。
「わかった。試してみよう」
「はい、ぜひ!」
これでお開きか、と思って立ち上がったら、バルトロマイから引き留められる。
「次はいつ来る?」
「わ、わたくしですか?」
「そうだ」
「え、えーっと」
今日は上手く脱出できた。しかしながら、今回みたいに上手くできるとは限らない。
「あの、こちらにはジャン・マケーダ院長という、すばらしいお方がおりまして、お話ならば、いつでも聞いていただけるかと思います」
忙しい院長はいつでも応対できない。けれども、寄付金を積んだバルトロマイならば別だろう。そう思って伝えておく。
「いや、俺はお前と話がしたい」
「わ、わたくしめと、ですか?」
「そうだ、ダメか?」
少し憂いを含んだ声色に、胸がキュンとなる。
ダメなわけがない。喜んで!! と言いそうになったが、ごくんと呑み込む。
彼の幸せを心から願い、悩み事があれば解決してあげたい。
けれども、これ以上接したら、大変なことになるのではないか、と危惧している。
現に今も、バルトロマイと話しているだけで、呼吸が乱れ、鼓動が激しくなっているような気がするから。
前回、鼻血を垂らしてしまった前科があるので、天井を見上げておく。
それくらい、彼との会話は刺激が強いのだ。
「えーっと、えーっと、えーーーーっと、お約束は、難しいですわね。わたくし、毎日ここにやってきているわけではありませんので」
言い切った!! 私は世界一偉い!!
なんて絶賛していたが、バルトロマイは思いがけない発言をする。
「ならば、三日おきの、今日と同じ時間にやってくるから、偶然会えたら話を聞いてほしい」
「なっ!?」
暇なのですか!? と叫びそうになったが、そんなわけあるはずがない。
前世の元夫は、太陽よりも早く目覚めて自主訓練をし、日付が変わるまで働いていた仕事人間だ。
もしも時間を作ってここにやってきているとしたら、彼は睡眠時間や食事を削ってやってきているに違いない。
ならば、別の方面から諦めてもらおう。
「あの、実はわたくし、見習い修道女なのです。あなた様の告白を聞けるような、立派な人間ではなく――」
「別に構わない。声を聞いてすぐ、熟達した修道女でないくらい、わかっていた」
「ならばなぜ、深刻な悩みを告げたのですか?」
「わからない。先日も言うつもりはなかったのだが、お前の声を聞いていたら、いつの間にか話していた」
そんなことなど、ありうるのだろうか。
よくわからない。
前世の元夫は自尊心がとにかく高くて、他人に弱みを見せるような男性ではなかったから。
「どうしてか理由は不明だが、とにかく話を聞いてもらうならば、お前がいい。お前しかいない」
ここまでバルトロマイから言われて、断れる人なんているのだろうか?
否、いないだろう。
「……わかりました。それでは三日後の同じ時間に、ここでお会いしましょう」
「いいのか!?」
「え、ええ、まあ」
「よかった。シスター、感謝する」
バルトロマイは弾んだ声で言葉を返す。
きっと明るい表情を浮かべているのだろう。もしも直視していたら、卒倒していたかもしれない。
彼との間を隔てる壁があって、よかったと心から思った。
ここでお別れかと思いきや、バルトロマイは思いがけない質問を投げかけてくる。
「名前を聞いてもいいだろうか?」
「わたくしの?」
「ああ。俺はモンテッキ家のバルトロマイだ」
お互いに名前は秘密にしておきましょう、と言おうとしていたのに、先に名乗られてしまった。
一応、ここではシスター・ジュリエッタと名乗っていたが、院長は私の名前を言わなかったようだ。
どうしようか、悩んでしまう。
当然、カプレーティ家の者だと名乗るつもりはない。もしも彼に伝えたら、告解室の壁を破壊し、暴れ回る可能性がなきにしもあらずだから。
「どうした?」
「あ――では、〝ジル〟とお呼びくださいませ」
ジルというのは、前世で元夫が呼んでいた愛称である。
よりにもよって、咄嗟にでた名前がそれだったとは。
未練がたらたらではないのか、と自身を心の中で責める。
「わかった。では、ジルと呼ばせてもらおう」
「――っ!!」
叫ばなかった私を、誰か盛大に褒めてほしい。
必死に声を絞り出し、「それでは、ごきげんよう」と彼を見送る言葉をかける。
だが、彼はなかなか立ち上がろうとしない。
「あの、何か?」
「せっかく名乗ったのに、お前は俺を名前で呼ばないのか?」
少し拗ねたような声色で、そんなことを言ってくる。
かわいいが過ぎる……ではなくて、心臓に悪い発言だ。
「えーっと」
「まさか、こちらの名乗りを聞いていなかったのではないな?」
「いえいえ、そんなわけありませんわ」
「だったら、呼んでみろ」
おそらく、私が名前を口にしないと帰らないのだろう。
仕様がないと思い、呼びかけてあげる。
「それではごきげんよう、モンテッキ卿」
「は!?」
なんともドスの利いた声で聞き返してくれる。
理由を聞かずともわかる。
家名ではなく、名前で呼びやがれ、と言いたいのだろう。そういう意味が込められた「は!?」だった。
「やはり、名前を聞いていなかったのではないのか?」
「そんなことなどありません! バルトロマイ様! これでよろしいでしょうか!?」
必死に訴えると、くすくすと笑う声が聞こえた。
あのバルトロマイが笑っている!?
いったいどんな笑みを浮かべているのか、窓を覗き込みたくなってしまったが、寸前で堪えた。
「あ、あの、わたくし、何かおかしなことを言いましたか?」
「いや、冗談だったのに、必死になって言うものだから、おかしくて」
「ううっ……」
どうやら、彼の策略に嵌まってしまったようだ。
「ジル、悪かった」
「いいえ、どうかお気になさらず」
「今度謝罪の品を持ってくる。それで許せ」
「え、その――!」
そういうのは困ります、と訴えようとしたのに、バルトロマイは颯爽と去ってしまった。