危機
「では、一刻も早くこちらに降り立ってくださいませ!」
『残念ながら、いくら対価を積まれようと、その場に駆けつけることはできない』
「どうしてですの!?」
『前に言っただろうが。俺は世界各地の寝台の上ならば、どこでも行き来できる万能の悪魔である、と』
「寝台まで行かないと、あなたは能力を発揮できない、というわけですのね」
『そうだ』
ならば、バルトロマイと共に寝台がある部屋まで行かないといけない。
けれどもイラーリオの激しい勢いで繰り出される攻撃が、それを許さないだろう。
どうすればいいのか。寝台の上だけしか能力が使えないなんて、ある意味役立たずの悪魔である。
寝台まで行かずとも、なんとか彼の力が使えたら――と考えているところに、ピンと閃く。
「ルッスーリア、あなたが下り立つことができるのは、人が眠る場所、ですわよね?」
『ああ、そうだが』
「寝台ではなく、布団でもいいのですか?」
『ああ、問題ないぞ』
ならば、布団をここまで持ってくれば、バルトロマイと共にクレシェンテ大聖宮からの脱出が可能となる。
私は急いで寝台がある部屋を探す。
しかしながら、上層の部屋は儀式用に仕立てられたものばかりで、寝台がある部屋は見当たらない。
早くしないと、イラーリオがバルトロマイを殺してしまうだろう。
せっかく生まれ変わったのに、死に別れたくない。
今世では絶対に、彼を助けるのだ。
角を曲がった瞬間、シスターとぶつかってしまう。
「きゃあ!」
「あ――ごめんなさい」
母と同じくらいの年齢のシスターであった。謝罪し、立ち上がるのに腰を支えた。
「そんなに急いで、どうかなさったのですか?」
寝台のある部屋を探している、と言えるわけがない。
だが、なんの用事もないのに急いでいるシスターというのは、不審でしかないだろう。
「あの、司祭様が二日酔いで、少し横になりたいとのことで、布団を探しておりました」
「まあ、そうだったのですね」
とっさに、それらしい理由が浮かんだものだ、と自分自身を褒めてあげたい。
私はさらに言葉を続ける。
「シスター、その、布団がある場所を、ご存じでしょうか?」
「ええ、あちらに仮眠室がありますので、そちらの布団を持って行ったらいかが?」
「あ、ありがとうございます!」
シスターに深々と頭を下げ、教えてもらった仮眠室へ急ぐ。
そこには六つの寝台と、清潔な布団が用意されていた。
畳んだ布団を抱えた瞬間、ルッスーリアの声が聞こえる。
『なあ、お前だけ逃げたらどうだ?』
「な、何をおっしゃっているのですか!?」
『だってあの男は、お前の実家が敵対するような家の生まれではないか。一緒にいても、永遠に幸せにはなれない』
嫌なことを言ってくれる。
けれども今の私は、前世の何も知らなかったお嬢様ではない。バルトロマイの幸せを願い、奔走する日々を送っている。
未来を悲観していなかった。
「ルッスーリア、教えてさしあげます。わたくしの下着姿を描けるのは世界でただひとり。バルトロマイ様だけです」
『そ、そうなのか!?』
「ええ。彼以外、肌を見せるつもりはありませんので」
『そ、そうだったのか……。ならば、奴も助けないといけないな』
ルッスーリアとお喋りしている時間はないのだ。布団を抱え、再度バルトロマイとイラーリオが戦う場に戻った。
ふたつの影があるはずなのに、片方の姿はない。
どちらかが、倒れている。
「バルトロマイ様――!?」
彼の名を叫んでも、返事はない。
代わりに、イラーリオの声が聞こえた。
「ジュリエッタ、こっちに来い!」
イラーリオは全身が靄に包まれて、人型であるというのがぼんやりわかる程度だった。
「お前はこの男に、騙されているんだ。何も知らないお前は、この男の愚かな甘言に騙されたんだろう?」
「違います! バルトロマイ様は、そんなお方ではありません!」
イラーリオがこちらへ一歩、一歩と近付くたびに、血をポタポタ滴らせていた。
彼の血だと思ったが、倒れたバルトロマイのほうを見てギョッとする。
バルトロマイが倒れた辺りの絨毯が、真っ赤に染まっていたのだ。
「なっ――!?」
「ジュリエッタ!!」
気がついたときには、イラーリオは眼前に迫っていた。
布団を投げつけたが、手で払われてしまう。
靄をまとった手で私の腕を掴んだ瞬間、ぞわっと全身に悪寒が走る。
「い、嫌!! 離して!!」
彼を拒絶したのと同時に、靄がイラーリオの体から噴きだしてくる。
息苦しさと目眩を覚える。
これ以上彼を刺激してはいけないとわかっていたが、かと言って従いたくなかった。
「お前……オマエハ、ダマ、ダマサレテ、イル!!!!」
それはイラーリオの声ではなく、幼い子どもの金切り声やしわがれた老婆のような声が混ざり、とてつもなく不気味だった。
イラーリオは怒りに支配され、我を失っているのだろう。
腕を掴んだ手が、ギリギリと締められる。
「イラーリオ、痛い、です!」
「オオオオオ、マエエエエエ!!」
会話が成立していない。すでに、イラーリオとしての意識はないのだろうか。
「イラーリオ、しっかりしてくださいませ!」
「ガガガガ……ウウウウウ」
悪魔を使役するというのは、己を強く保っていないと難しいのかもしれない。
でないと、イラーリオみたいに、逆に悪魔に体を乗っ取られてしまう。
手を振り払おうと思っても、難しかった。
このままではバルトロマイだけでなく、私も悪魔にやられてしまう。
ルッスーリアの焦るような声が聞こえた。
『おい、お前だけでも、ここから脱出するぞ! この布団に足を一歩でもいい、踏み入れるんだ!』
「できません!!」
私の命なんて、惜しくもない。それよりも、バルトロマイを助けたい。
だから、私は叫んだ。
「アヴァリツィア、わたくしの〝強欲〟と引き換えに、バルトロマイ様を助けて!!」
それは私が初めて望む、アヴァリツィアへの強い欲求であった。