悪魔の時間
それからというもの、バルトロマイは何かに取り憑かれたかのように、私の絵を描き始める。心を落ち着かせるためには、これが一番らしい。
「ジル、視線はこっちだ」
「バルトロマイ様をじっと見つめ続けるのは、とても恥ずかしいんです」
「なぜ、恥ずかしくなる?」
曇りのないまっすぐな目で見ながら問われ、言葉に詰まる。
こういうときは隠さず、本当の気持ちを打ち明けたほうがいいのだろう。
「バルトロマイ様がとてもすてきだからです」
「なるほど、そういうわけか」
あろうことか、バルトロマイはキャンバスから目を逸らさずに言葉を返した。
彼にとって、私の羞恥心などお構いなしなのかもしれないが……。
「では、今描いている表情は、俺にしか描けないものなのだろうな。完成したら、誰にも見せずに厳重に保管しておこう」
「あの、誰にも見せないって、なんのために描いているのですか?」
「自己満足だ。この絵は、他人の心を癒やすものには使わせない」
絵画を飾る専用の部屋でも作ろうか、なんて呟いていたが、勘弁してほしい。
「前世では、父に絵の趣味がバレて、さらにジルを描いていたことを責められて、本当に大変な目に遭った」
「ええ」
前世のモンテッキ公爵は恐ろしいお方だったが、今世のモンテッキ公爵はそうでない。きっと、絵画にも理解を示してくれるような気がしてならないのだが。
この辺も慎重にならなければいけないのだろう。
あっという間に夜が更けていく。
バルトロマイは食事をし、湯を浴びてからも筆を取って私の絵を描き続けていた。
没頭してしまうほど、前世の記憶が戻った件が精神的なダメージになっているのだろう。
けれどもこれ以上続けたら、体を壊してしまう。
「バルトロマイ様、そろそろ休みましょう」
「あと少し」
「今日、一緒に眠るんですよね?」
耳元でそう囁くと、忙しなく動いていた手がぴたりと止まる。
「忘れていた」
「では、参りましょうか」
共寝なんて恥ずかしくてたまらないのに、私から誘ってしまった。あまりにも熱中して絵を描くので、止めるためには仕方がないのだ。
一度は夫婦の契りを交わし、夜を共に過ごした関係である。
けれどもそれから百年経っているので、とてつもなく新鮮な羞恥心が沸き上がってきていた。
寝室の灯りは即座に消し、ガウンを脱いで布団の中へと潜り込む。
バルトロマイも隣に寝転がっていた。
「ジル、寒いから、もっと近くに寄れ」
「いえ、わたくしは別に寒くはないので」
「いいから来い」
強制的に引き寄せられ、彼の胸の中にすっぽりと収まってしまう。
「やはり、体が冷え切っているではないか」
「バルトロマイ様はぬくぬくですね」
「これが普通だ」
どうやら私は、信じがたいほどの冷え性らしい。布団に入ったのに、いつまで経っても体が温まらない、というのはありえないようだ。
「このようにお傍にいてドキドキして落ち着かないのに、どこかホッとしているわたくしもおります。果たして、眠れるのでしょうか?」
「安心しろ。俺も似たような状況だから」
バルトロマイは私の背中を優しく撫でてくれる。瞼を閉じると、眠気に襲われた。
まさか、こんな単純な寝かしつけに落ちてしまうなんて――と考えている間に、意識が遠のいていく。
深い眠りに誘われたのだった。
『ジュリエッタ……ジュリエッタ……』
「う……ん」
『ジュリエッタ……ジュリエッタ……下着を、下着を見せてくれえ』
「なっ、きゃあ!!」
妙な声が聞こえ、目を覚ますと、目の前に角を生やした黒い馬が、鼻息荒い様子で私を見下ろしていた。
『ジュリエッタ、はあはあ』
「な、なんですの!?」
私の声に反応し、バルトロマイが目を覚ます。
「ジル、どうした!?」
「馬の悪魔が、すぐ近くにおりますの!」
暗闇の中、バルトロマイの視界には靄すら見えないらしい。
『げえ、男じゃん! くそ、絵の具の臭いのせいで、男がいることに気付いてなかった!』
「あなたは、何者ですの!? 何をしに、ここを訪れたというのですか!?」
ダメもとで問いかけたのだが、馬の悪魔は答えてくれた。
『ジュリエッタ、お前の下着を見にきたんだ!!』
「なっ」
馬の悪魔がそう答えたのと同時に、バルトロマイが剣で斬りかかる。
『ぎゃあ! こいつ、何をするんだ!』
「邪悪な気配を感じた」
「バルトロマイ様、右下のほうです!」
私の指示どおりに斬りかかったが、馬の悪魔は寸前で回避していた。
『あ、危なっ! こいつ、よくよく見たら、殺さないといけない男じゃないか!』
「やはり、あなた方悪魔が、彼の命を狙っていたのですか!?」
『ご主人様の命令だからな!』
途中、馬の悪魔はぶつぶつと呪文を唱える。黒い靄が生じ、バルトロマイを襲った。
「うっ――!」
その場に倒れたので覗き込んだら、すーすーと寝息を立てて眠っていた。
どうやら、この悪魔は強制的に睡眠状態にできる能力を持っているようだ。
「バルトロマイ様、起きてくださいませ!」
頬をばんばん叩いても、目覚めようとしない。
『ジュリエッタ……ようやくふたりっきりになれたな。ほら、下着を見せるんだ』
「気持ちが悪い!!」
そんな言葉を返すと、馬の悪魔は急に蹲る。
『あああ、そういう言葉、もっとよこしてくれ!』
「えっ」
『とても気持ちがいい言葉だ』
「バカなことを、おっしゃらないでください」
『もっと、もっとゴミのように、乱暴に扱ってくれ』
「……」
これは時間稼ぎだ。そう言い聞かせ、渾身の罵声を浴びせる。
「わたくしに近付かないでくださいませ、この、色欲の権化が!!」
『ああああああああ!!!!』
馬の悪魔が悶えている間に、私は聖水を手に取って口に含む。それを、口移しでバルトロマイに飲ませた。
「うっ――!」
バルトロマイは目を覚まし、瞬時に起き上がる。
「俺はいったい?」
「馬の悪魔の能力で、眠らされていたようです」
「そうだったのか」
部屋の灯りを灯すと、寝台の上に倒れ込み荒い呼吸を繰り返す馬の悪魔の姿が確認できた。早くも消したくなったが、耐えるしかない。
「これが、悪魔か」
「ええ」
バルトロマイにもしっかり目視できるようになったようだ。
馬の悪魔は顔だけ起こし、私を見る。そして、次の瞬間には、とんでもない宣言をしてくれた。
『これで、俺はお前の僕だ』
「な、何をおっしゃっていますの?」
『お前は俺の正体を、見破ったからな』
「はい!?」
馬の悪魔は自らを名乗る。
色欲の悪魔、ルッスーリアだと。