1話-③
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「お疲れ様です」
オフィス内に独り言が虚しく響く中、俺、日村直人は帰宅する準備をしていた。 特に大きな夢や希望があるわけじゃないんだけど、今の生活は充実している方なんじゃないかと思う。週末に参加しているボランティアではいい友人に巡り会えたし、家に帰って本を読んだり、絵を描いたりする時間はとても楽しい。まあ満足だ、職場のことを除けば。
俺はここ最近ずっといじめを受けている。あまり周囲に馴染めなかったからだろう。挨拶の無視や連絡事項を共有してくれないなんてのはよくあることだし、上司には怒鳴られたり嫌味をじっくり聞かされている。「使えねえな」「お前が部下とか人生最大の不幸だわ」夜はそんな彼の言葉が脳内で反復して、あんまり眠れない。怒られることが怖くなってまた失敗して、また怒られて。そんな悪循環に陥ったせいで、俺の部署内での成績はいつも最悪だ。はやく転職先を見つけなくちゃな。くたびれた頭でそんなことを考えつつ会社を出ると、目の前の信号をおばあさんが渡ろうとしていた。なんでもない光景。
…と思ったがちょっとおかしい。なんで道の真ん中にいるんだ。赤なのに。この道はまあまあ車が通る。とっさに走り出しておばあさんを呼び止めようとする。
「おばあさん!赤ですよ!」
どうやら聞こえていないようだ。急いで歩道を飛び出しておばあさんに駆け寄ったその時、猛スピードで車が突進してくるのが見えた。大きな衝撃が体を駆け巡って、目の前が真っ暗になった。
……
目が覚めると、辺りはほの暗い洞窟のような景色に変わっていた。おばあさんもいる。何が起こったんだろう。病院…ではないよな。
「お目覚めですか?」
声のした方向に顔をやると、そこには薄紫色の髪をした女性が立っていた。どうしてこんな所でにこにこ突っ立っているんだろう。ちょっと意味が分からなかったが、俺は彼女に助けを求めることにした。
「はい、すいません。あの、ここがどこだかご存知ですか?先ほど車にひかれそうになってしまって…」
「いえ、バッチリひかれましたよ。あなたは車にひかれて死んだんです」
「え!!!!!?」
一瞬何を言われたのかよくわからなかった。死んだ?え、どういうことだ、死んだ?頭の中がひどく混乱してきた。呼吸がだんだん早くなっていく。
「ど…え、どういう…」
「あ、でもおばあさんには帰ってもらわないとなー」
「え!!!!!?」
なんだ、帰れるのか!?慌てて聞き返す。
「帰れるんですか!?じ、じゃあ俺も…」
「君はだめー」
「どうしてですか!おばあさんがいいなら俺もいいでしょうよ!」
「いやぁ、おばあさんは手違いだったから…」
「手違いって何ですかぁ…!?」
おばあさんが帰れるのは良かった。だけど俺は現実を受け止めきれなかった。目から大粒の涙が溢れてくる。職場の嫌がらせなんて知ったことか。来週は友人と遊ぶ約束があったし、注文した本もそろそろ届くはずだ。そして、置いてきてしまった両親のこと。彼らに何もできなかったことがあまりにも悲しくて、慟哭した。うぐふぁ、あぐ、あ、あ、あ、あ、はああああっはっはっはあああああん!!!と、お菓子を買ってもらえなかった子供のように小一時間ほど泣きじゃくっていたら、さすがに同情した女性が布を手渡してくれた。
「…こんなに大泣きしてる人を見たのは初めてだよ。まぁ切り替えていこう?元気出して!」
「試合前半の失点みたいな感覚でいわないでくださいぃぃ…」
「しょうがないなあ。じゃあスキルで頑張るってのはどう?」
「………は、はい?」
「君はこれからスキルを1つ持って別の世界に行くことになるんだけど、そのスキルを「元の世界に戻れるようなもの」にするんだよ」
「スキルって… 資格か何かですか…?」
「ちがうよ」
「な、なら壁をすり抜けるとかそういう類のものですか…?ゲームとかにある」
「ゲームが何かよくわからないけど、多分そんな感じ」
もはや覚悟を決めるしかなかった。それで元の場所に戻れるのなら、そのスキルとやらで頑張るしかないようだ。
「…わかりました。好きなのを俺が1つ決められるって事ですよね。なら「元の世界に帰るスキル」にします…」
「了解!これで君の望みが叶うまではどうにかやってけるよ。ただ、実際に「元の世界に帰る」ためにはいくつか条件があるから気をつけてね」
「条件ですか」
「うん。要件を全部満たすこととか、自分がそれを望むこととかかな」
「要件はどれくらいあるんですか?」
「2000くらい!」
俺は膝から崩れ落ちた。たちの悪い情報商材を掴まされてしまったような気分だった。
「反応が忙しいねー君!大丈夫だよ1個1個は大したことないからさ!」
「うぅ…信じますからね、えぇと…」
「キクモって呼んでね!君の名前は?」
「…日村直人です」
「じゃあ行きましょうか、ナオトくん」
こうして俺の新たな生活が始まった。この「スキル」の予想外の力を知らずに。
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