政府は国民の一つの命でも軽視する態度は見せるべきでない
機械文明に対する、人間文化の戦いが始まりそうなので、檄文みたいなのを意識しました。
前提となるのは、
人間は価値観を持ってそれを内的な秩序とするが、
機械に近い人間は法律を以て外的な秩序とする。
内的な秩序は自由とともにあるが、外的な秩序は制約である。
そして外的な秩序は罰が正常に機能しないと崩壊する。
競争原理などと言う人間性の欠片もない原則に従い、
法によって制御される機械となるか、
価値観によって規律できる個人となるか選ぶといい。
って、これも檄文ですね。
政府は国民の一つの命でも軽視する態度は見せるべきでない
私なんかはこれを当たり前に思うから、国民がぜんぜんこのことを言い出さないのを不思議に思ってる。そういう国民なんねーとも思ってる。競争原理というのはこういうのを当たり前にする思想だけど、実は思想ではなくて単なる自然の法則の一部。つまり人間は自然現象でいいと思ってる人たちはこれに疑問を持たない。
つまり競争原理を支持するのは自然現象を一歩も出ない動物だということ。人間はそれにたいして理念や思想を持って未来を描く。新自由主義も競争原理から一歩も出ないから、だから内的秩序を持たない機械みたいな動物が増える。競争原理はエントロピー増大則で、実際の進化論とも整合しない。
だから、この人間の競争原理は動物界よりもさらに不条理性を増している。動物界なら適者なら淘汰を免れるが、競争原理は適者でも言論や理解力に長けると殺害される。どちらにしても、今の競争原理は動物に有利で人間に不利である。競争原理を人間なら支持しない、という一点が、動物に有利さを許す。
直観的に人間のとれる手は2つほどある。一つは人間らしさが有利になる点を模索するという手段。これは非常に人間的だと思うし有望だろう。またこの策が炸裂すれば競争のルールが変更される。もうひとつは動物たちの競争から離脱する手段。これは個人個人が人間としての機能を高める必要がある。
動物の勝者は敗者をいたわる心を持たないから、奪い合いの世界は絶対に終わらない。そして人間の勝者はきちんと敗者をいたわる上に、人間としての見込みがあればしっかりとその性質を引き上げるだろう。奪い合いは終わり、全ての性質が向上しようやく平和が見える。競争は人間が勝つように設定しよう。
競争の勝者は人間であるべきという主張は第一段階である。
意味が理解できないと競争に乗り遅れる、という競争だと、おそらく人間が勝つ。意味なんかなくても競争できる競技だと人間は余計な意味を読み取って負ける。経済なんかは間違いなく動物優位のゲームである。なので、人間は経済では熱くなってはいけない。協力ゲームなど他のゲームを創造しよう。
余裕がある人は動物ゲームからの離脱法を試すといい。
・お金を無意味な数字ではなく、意味を付与する。感謝を私は当てはめている。当然、使う時貰う時はこれを思い起こす。
・支配されることにむきにならない。優劣とは関係なく単なる物理現象だと思うべし。柔軟に快適となる手段を現実的に模索する。
・いい人間の見分け方は、自分に力を与えてくれる手段で助けてくれる人はだいたいいい人。代わりにやってくれる人はグレー。助けてあげる、得をするよと持ち掛けてくる人はブラック。
・自分の本心をよく見つめて、動物じゃない自分の発見に努める。
現時点では、人間であることが必ずしも得にはならない世界。それは確実。得をするよと持ち掛けられて実際に得をするかもしれないけど、得をしたことによって人間を失うという構図も見えないと人間ではいられない。それに、大切な人に対する態度も「いつまでも俺が守る!」ではなく、「早く自分で守れるようになって!」って言うかもしれないし、人間なら。その上で尊重し合う地点を信じられなければ、人間ではないんだろう。
ただ、人間は絶対に、
国民の一つの命でも軽視する態度は見せるべきでない
という要求をするし、その要求の重みも知ってる。簡単に動物が受け入れられない主張であることも理解する。でも、その態度を隠ぺいすらしなくていい世界は本当にまずい。
ちなみに競争原理を支持する理由は、きっと疑う機会がなかったから。小さい頃から親とかに「出来る子」を期待され続けた人や「出来ない子」で排撃され続けた人は疑う余地すらなかったのだと思う。比較され続ければ心を病む。そして酷い時は心を閉ざす。競争原理の肯定は、そういう心の病みであり、閉ざされた心なのだと思う。
現在、国民は切実に「自由か? 尊厳か?」と潜在的に突きつけられている状況にあると思う。これに盲目的に自由を選択していると、次の選択肢は「服従か? 死か?」になりかねないことは、見える人は見えてるよね? 二番目は、第三の道もあるけど、そこは尊厳選んだ人しか見つけられないしね。怖いね。




