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宿の入り口で待っていてくれと言う篠崎を待っていれば、懐かしい潮の匂いに、上京した始めの頃に感じていた地元の恋しさを思い出した。
今では学校やバイトで小忙しい毎日に地元を思い出す時間も少なくなっていたからか、ここ最近は実家にも電話していなかったなぁと少し反省してみたりする。
そのお詫びと言ったら少し変だけれど、今日の帰省には沢山お土産を用意したし、何しろ篠崎を連れて行くのだから面食いの母さんは大喜びだ。
篠崎を目の前にして喜ばない女子などいないはずで、息子そっちのけで篠崎に釘付けの母の様子が目に浮かんでくる。
しばらくして宿のドアが開く音がした。
ようやく篠崎が来たと思った俺は、遅いぞーなんて小言を言いながら篠崎を出迎えてやろうと後ろを振り返った。
けれど後ろを振り返るなり、俺は絶句する。
振り返った先にあったそこには、挟もうと思っていた小言さえ忘れるほどの衝撃的な待ち人の姿があったからだった。
「ごめん、待たせた」
そう言って少し眉を下げてこちらへ颯爽と向かってくる一人の男性は、間違いなく篠崎葉一本人だ。けれどその姿はいつもの篠崎ではなく、冬の寒さに溶け込むような真っ白いニットに身を包んだ彼の姿だった。
目の前まで来れば、それはより一層目立つもので、よく見れば白のニット以外にシルバーのアクセサリーや茶色いブーツも身に付けている。あの黒の篠崎など面影もない。
「お前…どうしたんだよその格好…」
見慣れない光景に、一体何が起きてるんだと俺は大袈裟なほど狼狽えた。あれほど黒を徹底していただけに、白を着た篠崎はもはや篠崎ではない別の誰かのようだ。けれど当の本人は全く気にしていない様子で、「あぁ、これな」と今気づいたと言わんばかりに呑気に服へと目を向ける。
「たまには良いだろ」
「いや、でもお前ずっと黒だったよな?そんな急に白とかあるのか…」
「まぁ今日だけは白の気分でさ、まさか良仁がそんなに驚くとは思わなかったけど」
そう淡々と言われてしまえば、ますます篠崎の気持ちを推し量ることは難しかった。突然何の前触れもなく、彼のシンボルとも言える黒を辞めた篠崎の心境がまるで分からない。
けれどただ一つ分かったことといえば、出会ってから一年、毎日欠かさず黒だけを身につけていた人間が、初めて黒以外を身に纏った時の破壊力は凄まじいものだという事だけだった。
そして案の定、久しぶりに帰省した息子は置き去りに、隣にいる何処ぞの王子様から母の目線は動かなくなった。
玄関先で出迎えてくれた母の開口一番はさすがに息子への「おかえり」だったけれど、後ろに控えていた篠崎を目にした直後にはもう「格好良いわね!」だの「来てくれてありがとう」だの、それはもう目の前の息子よりも目を輝かせて息子の友人の訪問を喜んだ。
「親子水入らずのところ、お邪魔してしまってすみません」
「そんな!息子がいつもお世話になってます。」
落ち着いた様子でそう頭を下げる篠崎に合わせ良識的な挨拶が進む。けれど束の間、うちの母は興奮冷めやらぬ様子で「本当に格好良いのね~!」と再び熱い視線を送った。
「良仁からしばらく連絡来ないもんだから、あの馬鹿は何やってんのなんて思ってたんだけどね~、まさかこんな格好良い友達といたなんて羨ましくなるわ」
「良仁とは学部が違うのでずっと一緒ではないですけど、一番仲良くさせてもらってます」
「あら、良仁からも葉一くんは一番仲良くしてる友達って聞いてたのよ!相思相愛で良かったわね、あんた」
そう言って俺に肩を叩いてくる母の力は、やけに興奮していて骨に響いてくるようだった。そして痛い。母の異様なテンションにさすがの篠崎も引いてるんじゃないかと思って隣を伺うが、驚くこともせず特に変わりはないようだった。
しかしいつもの澄ました顔にはない、何かを考え込むようなどこか陰りを帯びた篠崎の表情に俺は驚く。
「しのざ、」
「相思相愛、か……」
「え……?」
俺が声を掛けようとしたその時に被さって、篠崎が何かを呟く。けれど束の間、篠崎は上機嫌な母に改めて向き直り、「お母さん」と柔らかな声色で呼びかけた。
「良仁くんは俺の大事な人です。だから、これからも仲良くさせてください。」
気品のある整った顔立ち。
陽だまりに咲くような微笑み。
そして、身に纏う、清純で何一つ穢れを知らない白。
まるで彼を構成する全てのものが神に愛された者への贈り物のようで、目が霞んでしまったのではないかと思うほど神秘的な美しさだった。
見とれていたという表現が正しいかは分からない。けれど俺も母も、目の前にいる篠崎に何のアクションも起こせずにいた。
それは時間にして一瞬の出来事だったと思うけれど、その後我に返った母は先程の饒舌な喋りは何処へ行ったのか、「あ、えっと、なんて言うのかしら、、」と顔を真っ赤にしてしどろもどろに言葉を返そうとする。
でも結局返せたのは「こちらこそ良仁をよろしくね」と何一つ篠崎の言葉の真意を問わない、当たり障りのない言葉だった。