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篠崎は、大学に入った当初から何かと有名な男だった。
毎日全身黒の服を着るミステリアスな男がいると、大学という大きな組織の中なのにその噂はいたる所で耳にした。特に女子はその噂の話をする時は決まって、その全身黒の男とやらは超絶カッコ良いと口を揃えて言うし、一方、男子の方もあいつの男前具合には敵わないと、妬むよりも崇拝する輩がほとんどだった。
当時はまだ直に篠崎を見たことがない俺にとって、その全身黒の男とやらの情報は噂の範疇でしか知り得なかったし、ミーハー心が人より少ないせいか、あぁ、そんな奴が同じ学年にいるんだという感想だけで特別知りたいとも思ってはいなかった。
しかし、そんな日常はすぐに覆ることとなったけれど…
大教室で行われる一般教養の授業。
学科関係なく誰でも受けれるこの授業は、中々空いている席を見つけるのは難しい。時には荷物を置くために一個余分に席を取ることも遠慮しなくてはならず、肘が当たってしまうような近さにある隣の席へ詰めて座らなければならなかった。
そんな授業を一人で受けていたある日のことだ。
「すみません、隣良いですか?」
「え?あ、はい、どう……」
人が集まる雑音の中で響いた心地よい低音。俺に向けられたその声の主が目に映った瞬間、ほとんど条件反射のように出た言葉が不自然に止まってしまった。
(な、なんだ…?この男前は………)
綺麗に伸ばされた艶のある黒髪が印象的な、今だかつて見たことのない程の男前が俺の前に立っていた。
「…?他に空いている席がなくて、ここ良いですか?」
絶句する俺に、目の前にいる男前はもう一度確認するように尋ねる。それに慌ててはいと返事したが、凄い男前を目にした衝撃なのか返事がどもってしまった恥ずかしさからなのか、まだ微かに落ち着かない心で隣に座る男の気配を肩で感じていた。
(うわぁ…なんかパリコレに出る一流のモデルを見た気がする…)
ミーハー心が無いと思っていた俺も、気づけばイケメンにキャーキャー言う女子のように一人興奮してしまった。いや、興奮よりも芸術品を見たような感動に近い何かだったけれど、確かに俺はその男前に心を持っていかれたのだった。
それが、あの篠崎葉一だとも知らずに。
違和感に気付いたのは、横目で盗み見るようにもう一度隣の男を見た時だ。
顔だけではなくそのモデルみたいなスタイルも気になった俺は、なんとなく彼の全身に目を移す。男が着ていたのは黒のTシャツ、黒のパーカーに黒のズボン、黒の時計も身につけていた。
こう一つ一つ見てみると、どうやら男は黒のアイテムしか身につけておらず、アクセントになるようなシルバー系のアクセサリーも本当に皆無だった。
(全身黒か…なんかそんな奴が大学にいるって言ってたよなぁ………ん?)
いたる所で耳にする例の噂が、ふと自分の思考の中によぎる。けれど自分の目で確かめたことのないその噂が、薄い膜を破って急に現実味を帯びたように立ちふさがった。いや、実際に今、その現実が俺の目の前にある。
(この人が篠崎葉一……絶対そうだ…)
男女問わず崇められる端整な顔立ち、少しの色も混ぜない徹底された黒。その二つを兼ね備えた隣にいる男は間違いなく…
「篠崎……」
「は……?」
その瞬間、交わることのなかった視線が、ガチリとパーツがはめ込まれたかのようにしっかり合わさった。
「あ………」
人間、失態を犯してから気づく。
俺はそこでやっと、自分が心内にあったその人物の名を口に出してしまったことに気づいた。
あんた誰?という無表情ながらも感じる篠崎の視線。こうしてしっかり相手の名前を呼び視線が交わっている時点で、もう無かったことには出来そうにもない事を悟った。
ここはもう覚悟を決めて行くしかない。
「あ……と、ご、ごめんな、急に名前呼んじゃって…」
「……いや、大丈夫ですけど…」
恐る恐る話しかけてみれば、誰なんだろうという視線を向けられたものの、最初の「は……?」から少し警戒の色を解いた控えめな返事が返ってきた。
ただ表情だけは相変わらず真顔というか、引き気味にこちらを見るでもなく、だからと言って興味を持っているわけでもなさそうなその顔は、返ってこちらを嫌にドキドキさせる。
美形の真顔は怖いやら冷たいやらとたまに聞くが、確かに今がそうなのかもしれない。自分が起こしたハプニングとは言え、ここは慎重に言葉を選ばなけれならないところだ。
「俺、1年の藍川 良仁っていうんだけど……で…えっと、同じ1年の篠崎だよね?」
「まぁ、そうだけど……」
「ごめん!本当に初対面なんだけど、俺が篠崎のこと一方的に知っててさ、それでつい話しかけちゃっただけなんだ。あの、本当にごめんな、急に…」
「あぁー……」
重ねて謝る俺に、篠崎は何と言って良いか決めかねるようなそんな様子だった。
けれど無表情な顔に少し困ったように微かな苦笑がこぼれているのを見ると、さっきまで分からなかった篠崎の気持ちが見えたような気がして、俺は少しホッとする。
「ごめん、こんな事急に言われても困るよな」
「いや、まぁ、そんな事はないんだけど…逆にこういう事よくあるから」
「え、そうなの…?」
目を丸くして聞き返す俺に、「時々ね」と篠崎は柔らかいトーンで答えてくれた。
「良くも悪くも、俺って噂されているらしいだろ。だから今みたいに、知らない奴によく話しかけられる」
「あぁ…まぁ、噂というか、女子も男子も、篠崎はリスペクトする程カッコいいってよく聞くよ。特に女子なんかすっごい話しかけてきそうだよな」
「…あと、職務質問とかもある」
「しょ、職質…?」
「ほら、こんなナリしてるから、」
そう言って、篠崎は座りながらも俺の方へ身体ごと向くと、黒に覆われた全身を見せるように小さく両手を広げた。
「こんな格好で繁華街歩くと、たまに職質受ける。今はまだ抑えてる方だけど、黒のマスクに黒の帽子なんか深く被ったら割と止められるな」
「そ、うなんだ…えと、それはやっぱり黒が好きだからなの?」
「好きだし、黒が1番落ち着く」
「へぇ……」
皆に噂されるほどの男前が、もの凄い真面目な顔をして黒色が好きだと語る。
他の色は一切入れず黒だけを見に纏うという男の噂を聞いた時、皆ほど興味は無かったものの、何でなんだろうという疑問は俺も持っていた。
せっかく持って生まれた皆が羨む程の格好良さがあると言うのに、一色だけなんて勿体無い。まさか黒しか身に付けられない何かデリケートな理由があるのか、俺はそんな風にさえ思っていた。
けれど蓋を開けてみれば、そんな大層な理由なんてものは無く、ただ純粋に黒が好きだと言う。黒が好きだから黒を着る。そこに矛盾も歪んだ理由なんてものも無い。なんて言うか…
「真っ直ぐなんだなぁ…」
「え……?」
「あ、いや…なんか真っ直ぐな人なんだなぁって思ってさ…!好きな色があるって言っても、その一色だけ着続けるなんて中々出来ないだろ?でもそれを極めてるって凄いよな。」
「………」
初対面の相手に向かって、少し馴れ馴れしかったかもしれない。けれど思ったことをそのまま口に出すと、呆気に取られたように篠崎は目を丸くさせた。
「篠崎…?」
「あ…ごめん。なんて言うか、そんな風に言われたの初めてだったから、少し驚いた」
「え、そうなの?普通に凄いと思うけど…カッコ良いとかよく言われるだろ」
「そうじゃなくて、真っ直ぐな奴とか言われた事なかったから」
淡々とした話し方は変わらないものの、少し咳払いをするように口元を隠す仕草は、少なからず篠崎が照れているようにも見えた。
その様子がまたさらに、篠崎葉一という人間の魅力的な部分にも思えて、俺はいつの間にかたまたま隣に座った他人だとも忘れ、自然と笑みを浮かべていた。
けれどそれは、篠崎も同じだったみたいだ。
驚くことにその授業後、篠崎の方から連絡先を聞かれ、さらにご飯も共にするという、未だかつてない程の速さで俺たちは距離を近づけていったのだった。