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どしゃ降りの雨の中、高橋 沙雪は飼い犬のミハナを腕に抱えて、自宅に帰るべく走っている。
「降る前にちゃちゃっと散歩済ませようと思ってたのに、間に合わなかったよ、もう。ミハナごめんね」
腕の中で震えているミハナを、雨から少しでも守るように前屈みで走っているため、どうしてもスピードが遅くなる。柴犬のミハナは、15歳の沙雪が抱き上げてかわいがるには少々重いため、それも負担になっていた。
しかし、嫌いであるらしい雷が轟く度に震えが一層増すミハナが哀れで、腕があげる悲鳴を無視して沙雪は走り続ける。
「はあ、やっと着いた……。ん?」
自宅の門をくぐり、なんとか屋根の下にたどり着いた沙雪は、ミハナをおろして一息つく。そんな時だった、それに気がついたのは。
このどしゃ降りの雨にも関わらず、傘をささずに歩いている、幼稚園生くらいの少年。
「ちょっ、おーい!」
読みが甘く自業自得で雨にぬられた自分はともかく、あんな幼い子どもでは確実に風邪をひいてしまう。そう思った沙雪は、反射的に少年を呼び止めていた。
沙雪の声が聞こえたからか一瞬動きを止めた少年は、なぜかすぐにまた歩き出してしまう。それも、先ほどよりも早いスピードで。
「な、なんでよ。聞こえてたはずだよね?」
何かを考えたわけではなく反射的に呼び止めただけの沙雪ではあるが、無視されたからといってあんな状況の子どもを放置はできない。
素早く自宅の扉を開け、ミハナをいれる。
「お母さーん! ミハナをお願い!」
そして傘を二つ掴むと、再び外に飛び出した。少年は歩き続けていたようだが、沙雪が走って近づけばすぐに追いつく。
沙雪は少年の前に回り込み、しゃがんで自分と少年がちゃんと傘に入れるようにした。
「傘、忘れたの?」
「……」
少年はびっくりした様子で沙雪を見返してきたが、沙雪の問いには無言である。さらには顔をしかめ、沙雪の横を通り過ぎようとした。
「待ってよ。雨すごいのに」
慌てて少年の腕を掴み、自分は肩が雨にうたれることも構わずに少年に傘をさしだした。
「はなせよ!」
「だめだって。風邪ひいちゃう」
沙雪を振り払おうとする少年の力など沙雪にとってはなんてことないが、これ以上少年が暴れないように傘を首でしっかり挟んだ上で、両手で少年をつかまえた。
「おまえ、なんなんだよ!」
「別になんでもないよ。傘が無いなら、貸そうと思っただけ」
少年を掴むために放り出したもう一つの傘を目線で示した沙雪に、少年は再び黙る。
「私の家はあそこ。返してくれるのはいつでもいいから、持っていって」
特に家族の誰のものでもない安いビニール傘のため、たとえ少年が返すのを忘れたとしても構わない。そう考えて気楽に言ったのだが、少年に反応はない。
「それとも、家まで送ろうか? 近いの?」
どうしたものかと困る沙雪だが、依然として少年は黙りこむままだ。少年は小さく、掴んだ腕は細く、先ほどまで抱きかかえていたミハナに負けず劣らず震えている。初対面の沙雪に怯えている可能性も無くはないが、状況的に考えれば寒くて震えているのだろう。真夏でも、これだけずぶ濡れになればさすがに寒い。
少年の家が近いのであればこのまま行かせるが、距離があるのであれば一旦ぬれた身体をなんとかしたほうがいいのではないか。そう思い至った沙雪は、再度口を開く。
「家が遠いなら、タオルも持ってこようか? てか、家どこ?」
俯いてしまう少年を見てこの質問もだめかと思った沙雪だが、しばらくしてぽつりと少年が呟いた。
「けやきニュータウン」
「ああ、新しくいっぱい建ったあそこね。……って、あれ?」
けやきニュータウンとはこの辺りの空地を最近開発してできた、真新しい住宅街だ。どうせならショッピングモールとかできれば良いのにとしか感想を抱かなかった沙雪だが、どこにあるかくらいは知っている。
そこは、少年の進行方向とは逆だ。
「帰るんじゃなくて、どこか行くところだったの?」
「……かんけいないだろ」
ぶっきらぼうなものの、少年はもう沙雪を無視することはなく、最初に怒鳴った時のような強さもない。
「まあ、そうだけど。こんな雨だし、行きたいところが遠いなら、今日は出直したら?」
「かえらない」
俯いていた顔をあげた少年の目には、頑なな意志の強さを示す光があり、沙雪はさらに困ってしまった。もしかしたら、この子は家出かもしれないという懸念が浮かんだからだ。
「そっか。わかった。じゃあさ、関係ない私だけど、どこへ行きたいのか教えて? もし遠かったら、心配だから」
家出なのかと指摘するのはまずいのではないかとなんとなく思った沙雪は、ひとまず少年がどうしようとしていたのか探ることにする。
迷うように目を左右にさ迷わせた少年は、頑なな姿勢だけは変えずに答えた。
「びょういん」
「病院!? どこか痛いの?」
すわ病気か、怪我かと、沙雪は慌てる。もう少年は逃げないだろうと傘を手に持ちかえ、少年の身体を確認する。
「ちがう。ママのところに行くんだ」
「ああ、びっくりした。お母さん、入院してるの?」
「うん」
少年自身はなんともないことに安心するも、少年の母が入院しているということに気を引き締める。
「病院っていうと、けやき総合病院かな?」
「わかんない。でも、前に行ったことあるから、どこかはわかる」
「そう……」
この辺りの人が行くとしたらとあたりをつけて病院名を聞くも、少年は病院名はわからないようだ。だが、そうだとしてもしなくても、ここからどこかの病院まではいずれも遠い。少年が歩いていけるような場所ではない。
「うーん、お父さんは?」
「おしごと」
「じゃあ、家に一人だったの?」
だから寂しくて母親のところに行きたいのかと思った沙雪だが、少年は首を横にふった。
「ばあちゃんと、弟がいる」
「一人じゃないのね。よかった」
「いいもんか!」
入院という非常事態だろうと幼い子どもが家に一人きりではなく良かったと思った沙雪だが、少年の今までで一番強い口調に驚いた。
「ばあちゃんは、はやたのことばっかり! ぼく、おかあさんに会いたいっていっただけなのに、うるさいって! ぼくを、ぼくを……」
少年の顔に、雨ではない雫が流れる。
「おうちのそとに、おいだしたんだ……。うっ、うああ……」
強気で頑なだった態度が見る影もない少年の姿があまりにもかわいそうで、沙雪は思わず抱きしめた。
「寂しかったね。辛かったね……」
最近ホームシックというものを初体験したばかりの沙雪は、口先だけではなくその時の自分を重ね合わせて少年を慰める。そのことを感じ取ったのかはわからないが、完全に沙雪に身を任せて本格的に泣き始めた。
少年をこのあとどうするにしても、とりあえず身体を冷やしたままではいけない。少年の背中を撫でながらもそう考えた沙雪は、傘を二本とも道路の脇に置いて少年抱き上げる。そして、ミハナにしたように自分の身体を傘代わりにして、少年を雨から庇いながら自宅に向かう。
少年の抵抗は、もはや無かった。
「遠慮しないで、たくさん食べてね。ほら、沙雪も」
「はーい。ありがと」
自宅に帰ると、濡れ鼠な沙雪と少年に驚いた沙雪の母に話は後と言わんばかりに、泣き止まない少年と共に風呂に突っ込まれた。小さい子だしまあいいかと、泣きたいように泣かせたまま自分と少年を十分に温め、母が用意した服に着替えたところでようやく人心地がつく。
末の弟の服のサイズがぴったりな少年は、もう泣いてはいないものの時折しゃくりあげている。そして部屋の隅で、雷に震えるミハナを撫でていた。
「ご飯だって。食べよう」
少年はちらりと沙雪を見たものの、返事をせずにミハナを撫でるのに夢中であるかのような素振りを見せる。無視したということは最初と同じなものの、それは反抗的なものではなく恥じらうようなものであるため、泣いたのが男の子的には恥ずかしかったのかなと考えた。
何歳であろうと男の子は男の子。三人の弟の面倒をみてきた沙雪は、自分より年下の子はみんなかわいいものだと、頬を緩ませる。
「おいしいよ、うちのカレー。そんで、お腹いっぱいになったら、お母さんに会いに行こうね」
素直に頷いてこちらに来る少年の世話をしながら、場合によっては彼の母ではなく祖母のもとに帰す可能性を思っての罪悪感は、片隅に追いやることにした。
好きなテレビ番組に騒ぐ沙雪の弟たちの喧騒にも関わらず、寝息をたてて眠る少年を撫でながら、電話を終えた母を迎える。
「探していらしたわよ、大地くんのおばあさま。あんたが心配したみたいな、虐待とかじゃなさそうよ」
「そっかあ、なんだ。良かったよ。だってさ、家から追い出されたって言うんだもん。この雨なのに」
佐々木 大地という名の少年だということは、末の弟と同じ幼稚園に通っていることで判明した。組は違うものの、弟は大地を知っていたらしい。ニュータウンから多くの入園者が来たことは、五歳児の記憶にもよく残る出来事だったようだ。
ママ友ネットワークを駆使して大地の家の連絡先を入手した沙雪の母は、すぐに連絡をして今報告してくれている。
「そのことについては、ご自身を責めていらしたわ。大地くんの弟さんがまだ二歳で、その世話でいっぱいいっぱいなところに大地くんに病院に行きたいと駄々をこねられて、つい怒ってしまわれたそうよ」
「二歳かあ」
普段一緒に住んでいない祖母が面倒をみるのは、確かに大変かもしれない。それでも、母親がいなくて心細い思いをしている大地を思いやれば、ありえない所業に沙雪は思えてならない。
「大地くんのお母さまは三人目のお子さんの出産で、大事をとって入院しているそうよ。大地くん、もともと不安だったのかもね」
「なんで?」
「ほら、あんたも覚えあるでしょ? 赤ちゃんのことばかり構って! って。あんたは口にできる子だから良かったけど、きっと大地くんは違ったのよ」
そうかもしれない。弟は小さい、大人はお腹の中の赤ちゃんを待ち望んでいる。じゃあ、僕はどうなるの? だなんて思ってたかもしれない。沙雪が幼い頃、不安になったように。
「頑張ったんだねえ」
大地は想いを言葉にはできなかったが、行動に移す子だったようだ。病院に行ったことがあるのなら、どれだけ遠いかも知っていたはずだ。それでも、自力で歩いて母に会いに行こうとした。
その心中を思うと、「帰らない」、「ママのところに行く」と言っていた時の意志の強い目の光を思い出し、幼い大地に敬意すら覚える。
「同じ幼稚園に通っている子がいる家だってことでおばあさまがうちを信頼してくださったし、大地くん寝ちゃったからね。弟さんで手一杯なことに変わりはないから、お父さまが迎えにくるまでうちでこのまま寝かせることにしたわよ」
「わかった」
もしその前に起きたとしても、沙雪や沙雪の弟たちと遊んでいたら気が紛れるだろう。
「できたら、家に直行するんじゃなくてお母さんのお見舞い行けるように、お父さんに頼むの無理かな?」
ママに会いに行くという大地の意志を尊重できないだろうか。
「もう夜だからねえ。お父さまと入院している病院次第だけど。言ってはみなさい。お母さんからも口添えするから」
「うん。ありがと、お母さん」
おっとりと微笑む母に、沙雪はなんとなくもたれかかる。
「あら、小さい子みたいにしちゃって。あの子たちにからかわれるわよ」
「いいもーん」
沙雪はこの春から、遠方の高校に通うために自宅を離れて下宿をし出した。夏休みになってこうして帰省するまでのたった四ヶ月は、おおいに沙雪の家族に対する心境を変えたのだ。
大人になったような浮かれ気分は一ヶ月足らずで消え、五月病ではなくホームシックになり、母との電話を終える度に涙した。そして、食事は下宿が用意してくれるもののそれ以外は基本的に自分のことは自分でやらなくてはならない環境は、長女としてしっかりしているつもりだった自分が如何に両親の世話になっているか、ありがたみを思い知ったのだ。
それらは沙雪の軽い反抗期を過去のものとし、親に甘えることをそんなに恥ずかしくないと思うほどには沙雪をほんのちょっと大人にした。
夏休み直前などは親子を見る度に子どもを羨んでいた沙雪は、弟たちにからかわれることなど屁でもない。
「あったかいなあ」
家も、洗濯したての服も、母の手料理も、弟たちの楽しそうな声も、ミハナの体温も、そして、優しく撫でてくれる母の手も。
全部があたたかくて、最近緩みがちな涙腺が少し決壊してしまった。
大地にも、このあたたかさを感じてほしい。父が仕事から帰り、祖母と和解し、弟を認め、母と新しい家族を迎えて。きっと沙雪と違うところはいっぱいあるだろうけど、大地だけのあたたかいものは、絶対にある。
眠る大地の手を握り、祈るように、そう信じることにした。