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午後になってから道の先に町が見えた。ヴァンゲリスのガレージがあった町よりはずっと小さく、やや濃ゆくうらぶれいた。
ゆっくりとしたペースで、俺は町のメインストリートに入っていった。メインストリートは、入った端から反対の消失点が見えていた。古びた建物の列は唐突に始まって唐突に終わっている。
道を歩いている人の姿は見当たらなかった。一軒の建物、一度建てた家の一階部分を切り開いたような不思議な形をした建物はカフェか食堂らしく、その中にはポツポツと人が座っているのが見えた。
その少し先の、塀の陰で少し見えづらくなったところに1人の少年が座り込んでいた。地べたに敷物を敷いて、その上には細々(こまごま)とした売り物らしいものが置かれていた。
新聞や、あまり目立たない小さな食器や調理器具だった。俺は車を端に寄せて停め、エンジンを切って車を降りた。そこに座っていた少年はもちろん金持ちそうには見えなかったが、悲惨なほど貧乏にも見えなかった。
頬には愛らしく、それなりの肉がついている。俺は彼を怖がらせないように微妙な距離を開けてしゃがみ込み、その少年に話しかけた。
「よう、なんでも屋。景気はどうだい」
少年は綺麗な英語で応えた。
「大したことないよ、サー。けれども悪すぎもしない」
俺は感心した。もしかしたらこの少年が、町で一番表情豊かな喋り方をするんじゃないかと思った。
「そうかい。町にはホテルはあるかい?」
「一つ奥の路地にあるよ、サー。車も停められるよ」
彼は元気よく、その方向を指差した。結構だ。
「自動車修理工場は?」
「それは無いよ、サー。一つ隣の町へ行かないと」
彼は、俺がこれから進む道の方を指した。ふむ。まあまあ結構だ。⋯⋯俺は「洛陽の都はどっち?」と、よほど聞いてみようかと思った。
けれどもそれはやめた。
しゃがんだままノシノシと少しだけ彼の方に近づいた。それから品物の並びを見て聞いた。残念ながら、そこには俺の欲しいような物はなかったけれど。
「売れ筋はなんだい?」
「新聞! あとは、靴磨きもできるよ、サー。僕の靴磨きはとてもキレイになるよ!」
俺は自分の靴を見た。それは会社の業務が滞った頃から一度も磨かれていない。可哀想に埃で汚れている。
「じゃ、一丁頼むよ。前払い?」
少年は一瞬迷ってから言った。
「出来高でいいよ、サー! まず僕が靴を磨くよ」
俺は目を丸くした。
「⋯⋯『出来高(“Yield”)』なんて言葉、よく知ってんなぁ⋯⋯。よし、頼んだ」
少年はニコリと笑い、脇に置いてあった椅子と踏み台を出して俺を座らせた。それから、ずいぶん本格的なブラシと墨のセットが入った道具箱を出した。布巾を取り上げて、砂が付いていないかどうか表面をじっと点検してから作業に取り掛かった。まずは右足だ。
「もっと高価な靴を履いてくりゃよかったよ」
少年は作業から脇目も振らずに言った。
「ううん。高すぎない靴の方がね、愛想があっていいんだよ、サー。磨いた分とても喜んでくれるように見えるもの」
俺は感心しっぱなしだった。靴磨きの精に足を清める儀式を受けているような気分だ。
俺はこの先、何か聖的な者達のやり取りに参加するのかもしれない。それくらいは考えてしまうほど鮮やかな、少年の手際だった。
靴はピカピカになった。いや、ただ表面が光を反射しているというのではなく、芯から重い威厳を放っていた。それはまるで、天からの啓示を待ち受ける教会の神具のように見える。
俺は出来上がりに満足した。いや、恐れ入ってしまった。
俺はポケットから札入れをだした。大の紙幣が何枚かと、中の紙幣が一枚だけ入っていた。俺はまず中の紙幣を取り出した。普通の靴磨きの代金にしては、気前の悪い方じゃない。
「まずは靴磨きの代金だ」
「まいどあり、サー「それから⋯⋯
俺は紙幣を受け取った少年の言葉に間髪入れずに言った。
「この世界はいい奴ばかりじゃない。君はもう、そういうことを知っているかもしれない。けれどもオジさんはもっと長く生きてるから、もっとよく知ってるような気がする」
少年は黙って聞いていた。
「君の仕事に、ありもしないケチを付けたり、代金を踏み倒したりするような奴が現れないとも限らない。だから⋯⋯」
俺は大きな方の紙幣を一枚取り出して小さく折り畳んだ。
「そんな時は悪い奴を追いかけようとしたりしちゃダメだ。怪我をするかもしれない。こっちの金は道具箱の板の間に隠しておいて、そういう悪い奴がいなくなってから、その日の売り上げに足すといい。⋯⋯そうしてくれる?」
少年は鼻を膨らませて、とても神妙そうに頷いた。
「わかった。サー」
俺も真面目な顔で頷いた。
「そしてこれは、オジさんと君の間だけの秘密だ。パパにもママにも友達にも言わないこと。どこかで悪魔が聞いているかもしれない。わかった?」
少年はさっきよりも深く頷いた。
「わかった! サー」
「オッケーィ!」
俺は少年の肩を叩いた。車に乗ってUターンし、少年の前を通り過ぎる時に手を振ってから唇に封印の指をあてた。少年も大きく手を振ってから、同じように人差し指をあてた。彼が喜んでくれてるといい。
⋯⋯それと、「やたら金払いのいい外国人がやってきた」という噂が大人達に漏れることもないだろう。俺は、そういうところじゃリアリストだ。
少年の指差した方には、小さなホテルがちゃんと一つあった。