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 俺は車の中のステレオ装置を思い出して答えた。


「あぁ、カセットプレイヤーとラジオが付いてるけど、何も聞いてないよ。テープも持ってないし」


「そりゃ退屈だろう? 精神衛生にも良くない」


 音楽を精神衛生の観点から考えたことはなかった。彼の聞いているレゲェは、それによるとどのような効用を持っているのかはよく分からないけれど。

「それは⋯⋯、ボブ・マーリー?」


「そう。俺には神託しんたくだね」

 男はそう言って、ラジカセのボリュームを少し上げた。


「神様はなんて言ってるの?」


「『魂を満せ 』って」


 俺はその言葉をゆっくりと繰り返した。


「タマシイを、みたせ⋯⋯」


 男は小さく笑った。

「あんた、まるで哲学者みたいな顔をしてるぜ」


 俺は自分の頬を掴んで揉みほぐした。

「ご免だね。そんなに頭は良かぁないよ」


「⋯⋯オレはあんたのことが気に入ったよ。ビールもご馳走になったし。そうだな、」


 男はカウンターの下から自分の荷物を取り出した。キャンバス地の古ぼけたバッグだ。中に何本かのカセットテープが入っている。男はその中をまさぐって一本のカセットを取り出した。


「こいつを聴いていくといい」


 それを受け取ってラベルを見ると、細いマジックで“Robert Johnson”と書いてあった。


「ロバート・ジョンソン⋯⋯ 悪魔の音色か」


「ハハハ! その通りだ、まったく! あの車によく似合うだろう」


「いいのかい? 大事なコレクションなんじゃないの?」


「オレの信仰には合わないみたいだった」


 男はボブ・マーリーの歌うラジカセを見た。そして、さっき上げたボリュームを元に戻した。


「んじゃ、ありがたく」

 俺はそれをポケットにしまった。男は満足そうにそれを見てから言った。


「なあ、『マクスウェルの悪魔』と、『シラードのエンジン』の話は知ってるか?」

 俺は記憶を手繰ったが、そのような話なり名前なりを聞いたことはなかった。

「いや。だから哲学は分からんって」


「半分哲学で半分科学さ。それは永久機関は可能かどうかという話で、何人かの哲人、学者の手を渡りながら作られた理論なんだ。⋯⋯外側だけザックリ話すとこう。あるとき一つの理論モデルが提唱ていしょうされた。その装置は九割がた理論的証明が可能なように思われたが、どうしても一つの要素が組み入れられなかった。『永遠に観測し続け、装置を運転し続ける者』の存在が必要だったんだ。『悪魔でもいれば完成なんだがね』 研究者たちはそう言って、最後には匙を投げたよ」


 俺は頭の中で話を整理した。


「なるほど。悪魔が永遠に生き、その装置を運転し続ければ永久機関は完成したというわけか」


「そう。だからね、オレとしちゃ、そのテープは御守りのつもりで渡すんだ」


「悪魔の御守り?」


「ま、そういうこったね」

 男はニヤリと口の端で笑った。


「あんたの車の『シラードのエンジン』は、ロバート・ジョンソンのテープが擦り切れるまでは回り続ける。⋯⋯だったらいいなって、俺なりに思ったのさ。オンボロそうで不安だから」


「あ、ホンネを言ったね?」


 男はラジカセのボリュームを上げて両手を広げた。

「俺の神様は、『魂に浮かんだメッセージを妨げるな』と仰ってる」


「ふうん。物知りな神父様」


 カウンターの上に伏せてある雑誌は「ニュートン」だった。

 なるほど。



 スタンドを出て、俺はまた長い道路を走り出した。スピードを乗せてギアを変える。町を出発した直後に比べて、道はより単調で真っ直ぐなものになっていた。

 すこし行ったところで思い出し、ポケットからテープを取り出してステレオに入れた。再生のボタンを押すと、それはパチリと気持ちよく作動した。「付いてるスイッチは全部動く」 ヴァンゲリスの言った通りだ。

 ワインは昨日のうちに空になってしまっただろう。それでいい。それがいい。口を開けたワインは生鮮食品だ。切った刺身や割った卵と一緒だ。

 

ステレオから古いブルーズのスライドギターが聞こえ始めた。ロバート・ジョンソン。十字路で悪魔と取引をしたという伝説を残す、稀代のブルーズミュージシャン。時速50マイルで淡い太陽の下を突き進む旅が、コードとリズムの進行を得て揺れる。彼の声は、時に愚痴っぽい雄猫のように、時に陽気な若いワニのように響いた。


 俺はその歌声を聴きながら、店の前を勇ましく(そして迷惑でケチに)通り過ぎた大きな補給車のことを思い出す。もちろん補給車には、対空砲もロケット弾架だんかも付いてはいない。けれどももしかすると、運転台には軽機関銃の一丁か二丁くらいは積んであるかもしれないし、運転している兵士が腰か脇にオートマチック・ピストルをぶら下げているかもしれない。

 乳牛⋯⋯雌牛にも角はある。


「分厚いステーキが食べたいな」

 言ってしまってから、独り言が垂れ流しになったことに気づいて俺は小さく笑った。「魂に浮かんだメッセージを妨げるな」 よろしい。チャンスがあったらステーキを食べよう。魂と肉体がそれを求めているのだ。「魂を満せ」 ついでに腹もだ。


 ⋯⋯けれども結局、まとまった量の肉料理を口にできたのは大分先でのことだった。

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