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それほど長くはない時間で、海中の幻影は消えた。
デオの顔は元の様子に戻り、クジラの彫刻をランプにかざしてあれこれと見回している。クジラは背の側を僅かに濃い色にして、全体がツルリと釉薬を塗られたように変わっていた。
生命の気配がさっきより一層濃くなっている。それは真に迫るようなものだ。彼女は言った。
「あなた達がコマッコウと読んでいる種類のクジラよ。ピグミー・スパーム・ホエール。⋯⋯ま、名前なんてどうでもいいのだけど」
デオはコマッコウの彫刻を俺に差し出した。手に取ると、よく出来た土産物のように、ごく自然な質量の木の彫り物だった。表面はツルリと乾いている。俺は言った。
「ニスが塗ってあるみたいだ」
「ふふ、これは本物の、そのひとの身体にあった脂なの」
「『そのひとの』って、つまりモデルになった特定の個体の ということ?」
「そうよ」
今まで何となく触れようと思わなかったが、俺はその時、俄然彼らの正体に興味が湧いた。なにせ人間とは違う悪魔なのだ。
そして彼らが何かしらの役割を世界の流れの中でこなしているとういことの尻尾の先くらいを掴んでしまっていた。気にならない方がどうかしている。俺は言った。
「そのクジラは、あなたたち悪魔が捕らえたりとか、あるいは人間が捕鯨したものなの?」
デオが姿勢を楽に構えながら答えた。
「このひとの時は、そういうんじゃなかったわね。まあ、場合によっては人間の狩猟したものでもあるけど」
「つまり、その個体の死に立ち会った。だからそのクジラの脂をデオが瓶に詰めて持ってる。そういうこと?」
フランク・シナトラはイッツ・オンリー・ア・ペーパー・ムーンを歌っている。デオは答えた。
「ん⋯⋯、まあ概ねその通りということね」
ムスフォトがワインを軽く煽って後を継いだ。
「ワシらは命ある者たちを見届けて回っておる。それが仕事じゃ。何も殺すだとか死なすだとか、そのようなことはしない。ただ、流れてゆく命の輪の中で、時々の機会に後見人のようなものが必要なんじゃな。
それは、雨が降れば何者かがやがてそれを乾かしていくように、自然と組み合わせになっているものなのじゃよ。人間なんかがものを考えて暮らすようになる遥か前からな」
俺は訊いた。
「一匹一匹すべての個体を?」
ムスフォトが答えた。
「いいや。一つの個体に一つの命が宿っているという考え方は、人間特有の解釈じゃ。我々からすれば、それはあまりに即物的に過ぎて実際の流れとは異なっておる」
ムスフォトがゆっくりと語る、生命の形の不思議な話だ。




