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自分の車を所有したのは久しぶりだった。俺の家は田舎にあったので、免許の取れる年になれば一にも二にもなく、とにかくなんでもいいので自動車を所有することが、周りに住んでる青年達にも当たり前のことだった。みな商用車や軽自動車のような雑多な車だったし、それでバカにされるようなこともなかった。
俺の持っていたのは叔父から譲り受けた白い軽自動車だ。ドアはバーベキューの鉄板を誤って地面に落としたような音で閉まったし、エンジンの音は古いエアコンの室外機のようだった。ガールフレンドや友人を乗せてボーリングやカラオケに出かけ、ジャンケンや簡単なゲームに負けた者に運転を任せて安い酒を飲んで騒いだ。スナック菓子のような味付けのつまみを食い、生ビールとメニューに書かれた発泡酒を飲んだ。
それはそれで、すごく楽しかった。皆今頃どうしているんだろう。子供ができたことが分かっている者もいる。
教習所以来の不器用なギアチェンジを繰り返し、俺はオッサン達の住む町を離れて東へと走った。細い道に左右から迫る異国の木々の枝の向こうに西日が姿を透かし、チラチラとオレンジ色の光で俺の目を狙いながら、やがてそれも遠くの地平線の向こうへ消えた。
ライトのスイッチを入れると、それでヴァンゲリスの保障した通りに目の前の道が照らされた。「陽気なオッサン号」にはカセットプレイヤーとラジオが付いていたが、俺はステレオを掛けずに走っていたことに長い時間思い当たらなかった。初めて運転する車の調子を、全身の神経が探り取ろうとしていた。退屈を感じる隙間はまだなかった。
木々が切れ、道の左右に平らな畑と草地が広がるなだらかな道に出た。ネオンも信号もない夜の闇をハイビームが照らして、時折枯れ枝や石の礫が現れ俺は小さくハンドルを切った。やがてその先に小さなモーテルの看板が見えた。あてのない旅路は、その日の延長を終わった。自分の心の中での、ほとんど白紙のような大陸の地図の上にピンを打ち、長い間に踏み固められた土の駐車場の中でエンジンを切った。
その途端に辺りはシンと静まり返り、間を置いて草の間の虫の声が聞こえた。ボンネットの中で、熱くなった部品が縮んで継ぎ目から小さな呟きを漏らす音も聞こえた。俺は「陽気なオッサン号」のことが大分気に入ったみたいだ。
部屋はガラガラだった。最上階の角部屋(といっても二階建てでワンフロア三室だ)を借りて、一応は全部の荷物を持って上がった。盗られて惜しいものが入っているわけじゃない。そんな物のために車のガラスを割られたくないだけだ。俺は二つの窓を網戸にし、リュックの方を開けて蚊取り線香とタバコの袋とウィスキーの瓶を取り出した。
昔にドイツ軍の将校達が使っていたのと同じ形のレプリカ・ライターで線香に火を点け、置いてあった灰皿の上に置いた。これがあるのとないのとで、快適さは天地の差だ。網戸の目は荒く、遠い文明国のそれほどには役に立たない。それはコウモリが飛び込んだりとか、壁をよじ登ってきたネズミが荷物を荒らすのを防ぐための防壁だった。
試しに風呂場の蛇口を捻ると、その命令通りにちゃんと水と湯が出た。この宿はアタリだ。街道に孤立した小さなモーテルでは、網戸や電気プラグや安定した温度の湯なんかが、全て揃っているとは限らないのだ。俺は安心してウィスキーを口に含み、それからスナック菓子のように包装されたタバコの葉を薄紙で丁寧に巻いた。箱のタバコは、この辺りでは異様な値段をしているのだ。ちょっとした手作業を一つ覚える方が数段賢い。スマートなのだ。
その晩俺は、今度は北風の夢を見た。俺が昔に読んだ絵本の「北風と太陽」では、太陽と競うのは北風そのものというよりも、それを吹き出すムックリと太った雲だった。俺の夢に出てきたのは、その太った雲の方だった。
俺は「陽気なオッサン号」に乗って開けた大地をひたすらに進んでいたが、あるところまで来ると強い風に押し返されるようにして、それ以上の前進はできなくなった。俺は車を降りて、風の巻き上げる砂埃を避けるように顔を覆いながら雲に聞いた。
「何するんだよ! 俺はそっちに進みたいんだ。風を吹かすのをやめてくれないか!」
雲は一旦風を止めて言った。
「進むのが早すぎるんだよ。もう少しゆっくり進まないと、お前は『約束』を見落として通り過ぎてしまうからな」
「約束? そんなものをした憶えはないぞ。いいからそこを通してくれ!」
俺は陽気なオッサン号に乗り込んでアクセルを踏んだ。すると雲は、また風を吹いて車を押し返した。タイヤが地面を掻いてキュルキュルと鳴った。どうして邪魔されなきゃならないんだ! やがてボンネットの隙間から白い煙が吹き流れ、回転系の針がゆるゆると下がり始めた。
そこで夢は覚めた。