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ムスフォトの削っているものは、美しい魚のような形を成しつつあった。けれども尾ビレは水平に付いているし、魚にしてはヒレの数が少なすぎた。クジラだ。
あと少しで、そこには精巧なクジラの姿が現れるに違いない。
ムスフォトはそれからしばらくの間、黙って集中し、クジラを削った。俺はテレビや写真でしかクジラなんて見たことがなかったけれど、頭やヒレのバランスは成熟したクジラのそれを概ね正確に写し取って彫られていた。
しかし部分部分に、例えば瞳の大きさや上下の顎の噛み合わせのような小さく重要な場所に、感覚的な誇張の様子が見られた。より雄弁で親切に、その木の塊はクジラとしての特性を現わしていた。
クジラが彫り上がるまでの間にも、フランク・シナトラが歌い続けた。レコードの片面が終わるとデオが立ち上がり、盤面をそっとひっくり返して戻ってきた。
シナトラとその後ろのバンドは、両面を二回づつ演奏して歌った。ランプの灯りとムスフォトの手元をじっと見つめている間に、いつの間にか太陽の光が離れていって消えた。
それから、二本の白ワインも空になった。いったいどこの誰が飲んでしまったのだろう。
「よし」
ムスフォトが納得の声を上げ、上着の袖で最後の木屑を払った。クジラの身体を照らすランプの灯りがチラリと揺れる。すると、クジラはまるで呼吸をしているように見えた。
悪魔たちが軽口をいう。
「ハイ、相変わらずのお手前で」
「ハンッ。照れ臭くて顔が赤くなるわい」
デオが荷物の中から小さな瓶を取り出した。その中にはトロリとした液体が入っている。ほとんど透明に見えるが、明るいところで見てどうなのかは判らない。
デオは木彫りのクジラを受け取って左手に持ち、テーブルの上に置いた瓶の蓋に右手を被せた。蓋は閉まったままだ。いったい何が始まるのだろう。
俺の疑問を読み取ったようにムスフォトが言った。
「まあ、見ておるんじゃ」
デオが大きく一つ息を吸い込むと、瓶の中身がプクプクと小さな音を立てた。驚いて彼女の顔を見ると、その瞳は深い赤紫色の光を宿していた。それはもう、俺の見間違いではなかった。
木の地肌をむき出しにしていたクジラの彫刻は、その丸い顎の先からニスを塗られていくように色を変え始めた。脂の光沢が、ゆっくりと身体をなぞって胴体を進んでいく。
瓶の中は相変わらず、細かい動きだけを見せていた。それから、つい最近嗅いだ覚えのある匂いが広がった。それは前の街で、夜中にデオのタバコを一本もらった時のその匂いだった。
目の前には「ここ」が見える。けれども頭の奥に、自分が「別の場所」を感じ取っているのが分かる。ゆっくりと夢から覚める瞬間のような、また逆に眠りに落ちる時のような不思議な感覚だ。
そのようにして俺には暗い海の中が見えた。いや、感じられた。何かを細かく打ち鳴らすような音が聴こえる。それは、クジラの歌だった。少しの時間、俺はここと同時に海の中にいた。




