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それほど長い時間はかからずに、一台の車がガレージにやって来た。エンジンの音を聴きつけると、俺だけでなくオッサン達が皆ぞろぞろと事務所の外へ出た。そこにはなんとなく高揚した空気があった。前線部隊が新しい戦闘機を迎えるような感じというか、開拓村にやってきた新しい保安官を迎えるような感じというか。
町の砂埃を透した赤味のある日の光の下で、鉄の塊がドロドロとエンジンの音を鳴らしていた。その車はアメリカ車にしては小さく、ドイツ車にしては軽薄で、日本車にしては車体デザインの押し出しが強かった。
大昔にアメリカで造られていた、独立トランク付きのツードア・ハードトップのデザインだ。例えばフォード・マスタング、例えばポンティアック・トランザム、例えばプリムス・ロードランナーのような。
しかしそれらよりは気持ち小さなボディの車だった。その車体は不気味な半ツヤの黒に塗られている。⋯⋯いや、遥か昔に塗られたらしいものだった。
エンジンが誇らしげに一吹きして止まり、さっきのテンガロンの男が降りてきた。この国の飲酒運転に関わる法律がどうなっているのか、俺にはよく分からない。
そばに立ったオッサン達が口々に「ティアーブロ!」と叫んでいる。テンガロンはその車のルーフを愛おしそうに撫でた。ヴァンゲリスが短い疑問の言葉をテンガロンに投げた。彼は顔を上げて、キッパリと短く何か言いながら頷いた。ヴァンゲリスが俺に説明した。
「この車はうちのガレージでずっと面倒を見てたんだ。古いし四駆ではないが、車体は軽いしパワーも充分。荒れた道でもへっちゃらさ。あんた、ラリーは見るかい?」
「テレビで、少しは」
ヴァンゲリスが満足そうに頷いた。
「アウディがラリーに四輪駆動を持ち込み、それに他のメーカーが追って縋るまでは、二輪駆動車がアフリカも南アメリカの荒れ道もガンガンとすっ飛ばしていた。プジョーなんか、そのあともフロント・ドライブだったしなぁ」
ヴァンゲリスは腹の前の空間を掻くように、両手の指先をクルリと回した。
「荒れた道でも大丈夫さ。この持ち主は左脚を傷めていてな、クラッチを踏むのが辛いので、車の新しい持ち主をずっと探してたんだよ。それで、あんたのことが気に入ったそうだ」
テンガロンが俺に歩み寄り、車のルーフを撫でていた手を俺の肩に力強く置いた。それから何かを言った。ヴァンゲリスが通訳する。
「もう一度、この車に地平線を越えさせてやってくれ、あんたの旅に、グッドラックだそうだ」
俺は右手を差し出し、テンガロンと固い握手をして現地の言葉で言った。
「アリガトウ!」
オッサン達が景気よく囃し立てた。ヴァンゲリスが言った。
「明日の昼までにオイルくらいは変えておこう。部品が残ってなくて、カンペキで送り出せないのが心苦しいがな」
「なあ、それで幾らなんだ?」
ヴァンゲリスとテンガロンは短く言葉を交わした。それから二人で意味ありげに笑った。
「明日までに車の状態を診て、それで決めておくさ。いつ頃発つつもりなんだい?」
俺はキッパリと言った。
「出来上がればすぐに」
翌日までに俺はちょっとした買い物を済ませ、そしてぐっすりと眠った。その晩は隣の酒場の物音も気にならなかった。俺は動物の夢を見た。
昼近くにゆっくりと起きて、最後の水を出して顔を洗い、荷物をまとめて待った。薄い雲を透かして、太陽の光は柔らかく降り注いでいた。車が仕上がっていれば、その足で町を出発するつもりだ。昼前にヴァンゲリスが、例のオンボロピックアップトラックでアパートまで迎えに来てくれた。
「おはよう! よく眠れたかい」
「ああ、夢を見たよ。クジラが羊を食べる夢。ちゃんと火が通ってて、デカいナイフとフォークを器用に使ってね」
「ハッハハ! 」
荷物はトランクが一つとリュックが一つ。俺は元々、物を多く持つタイプじゃない。それから昨日の買い物が入った、スーツケースと同じくらいの大きさの箱が一つ。荷台には古い毛布が置いてあった。
「そいつを傷避けにしな」
ヴァンゲリスはとても気が効く紳士だ。俺はギシギシと唸るヴァンゲリスのトラックに揺られていった。遠回りではなかったので、彼はアパートの管理事務所に寄ってくれた。そこで鍵を返すと、俺は町の住人から、また一人のストレンジャーに戻った。そんなものは気のせいかもしれない。けれども確かに、その気持ちは胸の内に湧いて出てたのだ。
1日ぶりにヴァンゲリスのガレージに戻った。例の車は一度作業場に引き入れられたあと、すでに外へと引き出されて出発の準備が整っているようだった。ボディは磨かれて、遠くから見ると白い絵の具の線が所々に薄く引かれたような光を放っていた。ショーウィンドウに入った新車がこれ見よがしに撒き散らす尖がったような光よりも、個人的には好感が持てる。ヴァンゲリスは言った。
「オイルは換えた。ガソリンも満タン。サスペンションが歳をとってるが、200キロでカーブを曲がるようなことをしなければ充分だろう」
大丈夫だ。そんなのは今のところ、俺の念頭にない。
「いいよ。新品のガチガチよりは、その方が好みだ。どこか特別に注意の必要なところは?」
「大丈夫だ。ついてるスイッチは全部使えるよ」
ついてるスイッチは全部使える。俺にはその言葉が、どこか遠くの港を出立するヨットの帆が、いい角度の風を受けてパンパンに膨らんでいるような感じに聞こえた。きっと良い兆候だ。
車を眺めていると、事務所からぞろぞろとオッサン達が出てきた。昨日よりもだいぶ増殖している。この町のオッサン達はみんな暇なんだ。テンガロンの男も、昨日と同じ帽子を被ってそこにいる。俺は実務的な話に掛かった。
「それで、幾らなの?」
ヴァンゲリスは暖かい微笑みを浮かべて言った。
「金なんていいよ。古い車だし、金を取るような仕事はうちのガレージじゃもう出来なかったからな」
ヴァンゲリスがテンガロンに二言三言声を掛けると、テンガロンは満足そうに笑って腕を組み、何度も深く頷いた。ハッキリ言って、俺も昨日からそんな気がしていたのだった。
「そう? じゃあコイツを貰ってくれないかな」
俺はヴァンゲリスのトラックから箱を降ろし、オッサン達の前で蓋を開けた。中に詰めてあった木屑を手で払い、半ダースの「チョットいいワイン」を彼らに見せた。彼らは感嘆の声を上げ、手を叩いたり口笛を鳴らしたりした。テンガロンは嬉しそうに俺の背中を叩き、ヴァンゲリスは嬉しそうに言った。
「あんた、俺たちのことをよく知ってるみたいだ!」
「喜んでくれて嬉しいよ」
そうしてオッサン達に見送られ、午後の光の中を俺は出発した。黒い車は名付けて、「陽気なオッサン号」というところか。エンジンの音と砂埃を巻き上げて。